それくらいピケってくださいよ

結騎 了

#365日ショートショート 005

 コーヒーの匂いを嗅ぐ。缶コーヒーには、この独特な良さがある。液体の香りに混じる、アルミ缶のニュアンス。そのひんやりとした質感が、そっくりそのまま匂いに変容したような……。これだから缶コーヒーはやめられない。だのに、どうして。社内で回ってきたチラシを、思わずくしゃっと丸めてしまう。おっといけない、コーヒーの香りに集中しなくては。

「なあ、前園くん。ちょっと来てくれないか」

 そんな俺の貴重なブレイクタイムは、今日も上司に邪魔されてしまった。仕方がない。中間管理職とはそういうものだ。昭和に生まれ平成で育った自分にも、いよいよ定年の足音が聞こえてきた。この会社でこのまま再就職ができるだろうか。いや、考えても仕方がない。今は与えられた職務を全うするだけだ。

「この表なんだが、こことここ、あとこれ。この3つの数字だけ足したいんだが」

 なんともまあ、簡単なことである。表計算ソフトの、初歩も初歩の使い方。キーボードを使って複数を選択し、【合計】のアイコンをクリックするだけ。全く、なんでこんなことをわざわざ聞いてくるのだろう。

 「ググってくださいよ」、と、思わず喉元まで出かかる。そんなもの、検索すれば一発じゃないですか。俺が説明するよりよっぽど分かりやすい説明が、その辺にゴロゴロ転がってますよ。溜息を飲み込みながら、身を乗り出してキーボードに触れる。こうして、こうして、こう、っと。ま、一瞬で終わる話なんだが。

「おお、ありがとう。助かるよ」

 あなたにとっては、確かに一瞬でしょう。しかしこちとら、貴重なブレイクタイムを邪魔されたのだ。つめた~い缶コーヒーの、あのひんやりとした冷気はもう失われてしまっただろうか。ただググればいいだけなのに。操作方法を知らないことが問題ではないんだ。ググれないことが端から見て虚しいのである。ちょっと調べれば自分で解決できるのに。こうやって他人の時間を奪う大人にだけは、なりたくない。

 さて、気を取り直して。コーヒー片手に中断していた仕事を進めよう。回覧で回ってきたこの企画書、概ねよくできている。申し分ない。作成者は…… 松本か。昨年入社の新人。まだ経験が浅いのに、よくこれだけの物を作り上げたものだ。こいつは将来有望である。

 しかし、ここだけがよく分からない。販売数を記録したグラフに、『※ケモリネクベルで集計』と注釈が加えてある。ケモリネクベル。それこそググっても出てこない。辞書にも載っていなかった。何かの誤字だろうか。いや、考え込んでも仕方がない。

「松本くん、ちょっと時間をもらえるかな」

 すぐさま駆け付けた有望な新人に、企画書を褒めつつ、該当箇所を尋ねる。このケモリネクベルというのは、一体なんなのか。

「もう、前園課長ったら。それくらいご自分でピケってくださいよ」

「……ピ、ケ?」

 一瞬、松本の顔が赤くなる。これは、本人が恥ずかしがっているのではない。失言をしてしまった際の、反省の顔色である。

「ま、前園課長。あの、すみません。ピケとは、ピケッティングラムでゲニることの略です。ピケッティングラムを使えば、ケモリネクベルのようなLLETSはすぐにゲニることができますよ。割とニピってますから」

 顔を真っ赤にするのは、今度は俺の方か。『缶コーヒーの生産・取り扱いを本年度で終了します』。丸められたその文字を、俺は直視できなくなっていた。

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