【リマスター版】かみんぐあうとっ！

かみんぐあうとっ！

「はぁ～、マジで疲れた～」

　バイトを終え、重い足を引きずりながら帰宅の途についた午後十時過ぎ。

　早く暖を取りたい俺は、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。

「てか店長、こんな時間までシフト入れるなよな。あ～、課題もやらなきゃだし……まじだりぃ～」

　愚痴をこぼしつつポケットを漁るも、鍵は一向に見つからない。

　いつもここに入れてるはずなんだが。

「何でこんな日に限って見つからねぇんだよ……」

　鞄の中も確認するが、やっぱり見つからない。

　そうこうしている間にも十二月の風が無情にも俺の肌を強く締めつける。ため息が空気を白く濁らせた。

　はぁ～、マジ寒い。

「どうしよう、これ……」

　思い当たる所をすべて探すも鍵は見つからないままだった。

　えっ、これもしかして部屋に入れないパターン？

　そう思った途端、焦りが現実味を帯びる。

　こんな真冬に入れないなんて、命に関わる一大事だ。といっても管理人のじいさんは時間的にもう寝てるだろうし。

　今来た道を探すか……といって振り返ってみるものの、街灯だけが照らす薄暗い夜道を引き返す気にはどうしてもなれなかった。

　最終手段としてネカフェを利用するという手もあるけど……スマホで調べてみると一晩明かすだけで３０００円くらいかかるらしい。高校生にとってそこそこ大きな出費だ。

　う～ん……。

　比喩でも何でもなく本当に頭を抱えてしまっていると。

「何かお困りごとですか？」

「うおぁっ⁉」

　突然隣から声を掛けられ、奇声を発してしまう。

　すぐさま声のした方に顔を向けると、そこには大学生くらいだろうか、大人っぽい黒髪ロングの女性が立っていた。目鼻立ちがはっきりとしていて、お姉さんというような雰囲気を醸し出している。

　いつからそこにいたんだろうか。

　鍵がないことにパニクっていたせいで全然気づかなかった。

　俺の驚きっぷりに彼女の方も驚いたらしく「ひゃぁ」と小さな声を漏らした。雰囲気とは裏腹に可愛らしいリアクションだ。

　何号室の人だろう。

　初めて見る顔だ。こんな美人さん、一度会ったら覚えてると思うんだけど。

「あっ、急に声を掛けてごめんなさい。私はこの部屋の美澄、という者です」

　そう言って隣の部屋を指さす。

　えっ、まさかのお隣さん。

　ご近所付き合いがないから、全然知らなかった。

　すぐさま「俺は、遠坂です」と簡単に自己紹介する。

　美澄さんか。

　口の中で彼女の名前を反芻する。

　俺を心配して声を掛けてくれた彼女に現在置かれている状況を説明した。

「鍵を無くして部屋に入れなくなってしまって……」

「そうなんですね、鍵を……。ちゃんとポケットは確認しましたか？」

「ええ、一応したんですけど……」

「どこに落としたのか心当たりはあるんですか？」

「……いや、分からないです」

　俺の答えに美澄さんは愛らしく人差し指を顎の上にのせて考える。

「ん～、どうしましょう。この時間ですから、開けてくれる人もいないでしょうし……。どこかあてはあるんですか？」

「一応友達はいるんですけど、流石に迷惑が掛かってしまうので……。ネカフェも高いですし……」

　ハハハ……、と乾いた笑みを浮かべていると。

「それなら、私の部屋のベランダから入れないかやってみますか？」

「……えっ、良いんですか⁉」

「ええ、私は構いませんよ。ベランダの鍵は開いてますか？」

「あっ、はい。開けてたと思います」

「それじゃあ決まりですね」

　そう言うとお隣さんは扉を開けて、俺に入るよう促した。

「あ……ありがとうございます」

　躊躇なく部屋に入れてくれるようだ。

　彼女の態度に、逆にこちらが気後れしてしまう。

　……初めての女性の部屋。

　変な期待感のようなものが胸をよぎった。

　だが、淡い期待に反して室内は意外にも何も置いていない殺風景な空間だった。ここに引っ越してきた時のように、備え付け家具以外の物が見当たらなかった。

　今話題のミニマリストっていうやつだろうか。

　閑散とした部屋を見て、彼女が躊躇なく俺を部屋に入れてくれたことも納得できた。

「それじゃあ、ここから上がってみてください。……危ないので、くれぐれも無理はしないでくださいね？」

「はいっ、ありがとうございます！」

　ベランダに出た俺は、部屋を隔てている仕切りを見上げた。

　結構高い。

　これは思っていた以上に厳しいのかもしれない。だがせっかくお隣さんのご厚意でベランダまで上がらせてもらったので挑戦してみる。

　両手で仕切り板を掴んで、右足を手すりにのっけて。

　いっち、にっの、さん！

　よいしょ！っと思いっきり反動をつけて飛び越える。

　おっ、意外とできるじゃ――。

「う、うわぁっ⁉」

「だ、大丈夫ですかっ⁉」

　俺の情けない悲鳴が木霊する。飛び越えた所までは良かったのだが、着地に失敗して盛大に尻もちをついてしまった。

　信じられない痛みが臀部を襲う。

　ただ、美澄さんに心配をかけるわけにはいかない――、というかこんなかっこ悪い状況を説明したくない。

「だ、大丈夫です！う、上手くこっちに行けました！」

　少し無理をしたテンションで報告する。

「それは良かったです！変な声が聞こえたので、心配しましたけど……」

　すると彼女の方からホッとしたような声が響いた。

　愛らしい声音に、心臓が大きく跳ねる。

　か、可愛い。

　彼女ともっと話していたい……。

　そんな思いが胸にこみ上げるが、ずっと真冬の外に居続けるわけにもいかず。

「そ、それじゃあ、今日はありがとうございました！本当に助かりました！」

　後ろ髪を引かれながらも、仕切り越しにお礼を言って別れた。

　鍵を失くしたのは残念だけど美澄さんと出会えたのは幸運だった。

　鼻歌交じりにワイシャツを脱ぐ。

　と、その時。

　ワイシャツの胸ポケットからあれだけ探した鍵がポトッと落ちた。

　　　　※

　次の日の放課後。

　下校途中にあるお洒落な洋菓子屋さんに寄った俺は、シュークリームを買った。

　もちろん俺が食べるためじゃない。

　昨日お世話になった美澄さんへのお礼の品だ。

「……今いるかな？」

　インターホンを押すが、返事が返ってこない。

　不在のようだ。

　見た感じ大学生か会社員といった感じだったから、まだ会社か授業を受けているのかもしれない。また物音がしたら訪ねてみよう。

　諦めて自分の部屋に戻ろうとすると、管理人さんが俺を見つめていた。

「こ、こんにちは」

「こんにちは。元気かね？」

「あっ、はい。元気にやってます」

「健康は大事じゃから、日々気を付けるんじゃよ。何せ――」

　それからすぐに管理人さんの健康哲学が始まった。

　幾度聞いたか分からない長話を覚悟するが。

　彼はふと思い出したように「そういえば」と前置きをすると。

　俺にとんでもないことを告げた。

「何でその部屋にピンポンしとったんじゃ？そこには誰も住んでないはずじゃが？」

　思わず聞き返すと。

「いや、だからその部屋には今住んでる人がいないんじゃよ」

　管理人さんはもう一度同じことを言った。

　呼吸することも忘れてしまう。

　誰も住んでないって、どういうことだ……？

　彼の顔を見るが、別にからかっている様子はない。

「お前さん、……何か見たのかい？」

「あ、あの……えっと」

　動揺して何を言っていいのか分からなくなってしまう。

　すると翰林さんは何かを察したのか。

「まぁ一回、管理人室に行こう」

　と俺を管理人室に招待してくれた。

　　　　　※

　管理人室に行くと、管理人さんは熱いお茶を出してくれた。

　一口飲んで心を落ち着かせる。

「……ありがとうございます。ホッとしました」

「そうか、それは良かった」

　よいしょ、と管理人さんも腰を下ろすと自分もお茶を啜り始める。

　一服した後、もう一度さっきのことを訊ねてきた。

「やっぱり、何か見たんじゃな？」

「…………」

　昨日の出来事を思い出し、言葉が出てこない。

　管理人さんは話を続けた。

「……実はの、君の隣の部屋には去年まで美澄っちゅう若い娘さんがすんどったんじゃよ。お前さんより少し年上のな。だけどの……」

　そこでいったん言葉を切る。

　管理人さんが何を言おうとしているのか分かった俺は、思わず生唾を飲み込んだ。

「去年の十二月に亡くなったんじゃよ。交通事故じゃった」

　すると管理人さんは痛ましそうに語った。

「あの時は大変での。彼女のご両親さんが訪ねてきて、その日のうちに部屋を引き払ったんじゃ。この部屋に来て哀しみを思い出したくないちゅうて……」

「………そう、だったんですか」

「それ以来、あの部屋には何人か住んだんじゃが、夜中にうめき声が聞こえたり、十人とは違う女性が部屋に入っていくのを見たりしての」

「…………」

「じゃから、もしかしたらと思っての」

　ジッと管理人さんに見つめられる。

「……………あの、実は――」

　俺は昨日経験した出来事を管理人さんに全て伝えることにした。

　喋るうちに、彼女の美しい相貌も鮮明に蘇ってくる。

「そういうことが、昨日の……」

　管理人さんは瞠目しつつ俺の話を聞いていた。俺が全てを話し終えた後、彼はゆっくりと目を瞑って、何度も頷く。

　何か思うところがあったらしい。

　俺の視線に気づくと、管理人さんは頷いていた訳を話してくれた。

「いや、あの娘らしいと思っての。あの娘は困っている人がいれば助ける優しい子じゃった。わしも荷物持ちとかでよく手伝ってもらったんじゃよ……」

　そういうと管理人さんは皺が刻まれた瞳を窓に向けた。

　亡くなってから、化けて出るという噂しか聞かなかったという彼女の優しいエピソードを聞けてどこか嬉しそうだ。

　俺も昨日助けてくれたあの人に思いを馳せる。

　管理人さんがいった女性と昨日俺が見た女性は特徴も一致しているし、名前も一致している。

　それに俺の隣は空き部屋らしいことからも、幽霊話の信憑性が格段に高くなる。

　俺自身、幽霊の存在については懐疑的な方だが今回の出来事はそんな俺のスタンスを軽く超越するくらいの衝撃があった。

　対策を立てた方が良いのか、それとも……。

　俺はこれからどうしたらいいのだろうか。

　管理人さんにも一緒に考えてもらおうと思い彼を見るが。いつの間にか彼は腕を組んだままコクコクと居眠りを始めていた。

　……年だな。

　俺は眠る管理人さんに静かにお礼を言って管理人室を後にした。

　　　　　※

　その夜の十時過ぎ。

　管理さんに言われた話をすっかり忘れてバラエティー番組を楽しく鑑賞していると。

　突然、陽気な鼻歌が薄い壁越しに微かに聞こえてきた。

　誰も住んでいないはずの隣の部屋から。

「で、出たぁっ⁉」

　情けない声を上げて声がした方に顔を向ける。

　こ、怖い……怖すぎる。

　急に壁をすり抜けて襲い掛かってくるなんてことないよな？

　嘆きのマー〇ルばりの登場とかしてこないよな⁇

　一気に不安が心を満たす。

　誰かから見られているような感覚と共に背筋がすぅーっと寒くなった。

　だが一方で。

　これはチャンスなのかもしれないだろうか。

　俺は買ってきたシュークリームを持って隣を訪ねてみることにした。――いっその事、この目で正体を確かめてやろう。幽霊でも妖怪でも不審者でも出て…………いや、不審者は嫌だな。

　インターホンを思いっきりプッシュすると、ピンポーンという澄み切った音が鳴り響いた。

　ど、どうだ……？

　返事を待っていると。

「はーい、ちょっと待ってくださいね～」

　中から可愛らしい声が返ってきた。

　同時にこちらへ向かう足音が。

　く、来る。

　幽霊かもしれない人が――。

　動悸が図らずとも速まり、手汗じわっと滲んできた。

　玄関に明かりが灯る。

　扉の、その向こうには――。

「どちら様でしょうか？」

　するとそこには。

　昨日とは何ら変わらない美澄さんがエプロン姿で不思議そうな顔で立っているだけだった。家庭的な格好でドキッとしてしまうが、その上エプロン越しでもわかる胸のふくらみが色っぽさを感じさせる。

　やっぱり、綺麗だなぁ……。

「あっ、遠坂君でしたか。……どうしたんですか？」

　自分から訪ねてきておいて見惚れている俺に、彼女は眉を顰めて用件を尋ねた。

「え、えっと。こ、これっ昨日のお礼です！食べてくださいっ」

　慌てて持ってきたシュークリームを差し出す。

　突然のシュークリームに彼女は少し困惑気味だ。

「昨日のお礼、ですか？」

「は、はい……おかげで部屋に入れたので」

「そんなに気を使わなくてもいいのに。でも、ありがとう」

　美味しくいただきますね、とフワッと微笑んでくれる。

　うっ……可愛い。

　幽霊って無表情で怨念を抱いたまま現世を彷徨っているイメージがあるけれど、こんなに可愛いものなのだろうか。

　どう見ても目の前の彼女はステレオタイプ的な幽霊とは全く異なっていた。

　やっぱり人間なんじゃ？

　そう考えるのが至極真っ当に思えてきてしまう。

　彼女を見ていると住んでいないというのは管理人さんの思い違いか何かの手違いだったと推測する方が合点がいくし、そっちの方が幽霊なんかよりよっぽど自然だ。

　勝手に抱いていた警戒心も溶け始める。

　すると突然。

「もし良かったら上がっていきませんか？……あなたともっと話して見たくて」

　彼女はそう言て豊かな双丘に手を当てた。

　突然のお誘いに強い衝撃が走ったが。

「ぜ、ぜひっ、お願いします！」

　条件反射のごとく彼女の誘いを承諾する。

「それでは、どうぞ入ってください」

　俺の反応が面白かったのか、美澄さんは口に手を当てクスッと微笑むのだった。

　　　　　※

　昨日も部屋に上がるのは緊張したのだが、今回はその比じゃなかった。

　先に座ってるように言われて待っていると、彼女は「こんなものしか出せないんだけど……」とお茶入れてきてくれた。

　眉をハの字にして申し訳なさそうな笑顔を見せる。

　俺の向かい側に座り、俺がお茶を飲んでいる姿を愛おしそうに眺める美澄さん。昨日出会ったばかりなのに安心感を覚えるから不思議だ。

　……でもさすがに、ずっと見つめられるのもキツいというもので。

「みっ、美澄さんもシュークリーム食べてください！……俺だけお茶を飲んでるのもなんか悪いですし」

「ふふっ、ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて頂こうかな」

　そう言うと彼女は立ち上がってキッチンに向かった。

　やっぱり、足もあるんだよな。

　ロングスカートからチラチラ見える足を確認し、改めてこの人が幽霊じゃなくて生きた人間であることを強く感じた。いただきます、とシュークリームを頬張る美澄さんを眺めつつ、さっきまでのビビっていた自分が馬鹿らしく思えてくる。

　思わず盛大にため息をついてしまった。

「……っん、どうしました？」

　クリームを鼻につけながらシュークリームを味わっていた彼女は、俺のため息を聞くと食べるのを中断して視線を上げた。

「えっ、あ、いや……俺、変な勘違いしてたなって」

「勘違い？それも変なのって、どんなのですか」

　興味津々といった風の彼女に見つめられ、すぐに後悔した。さすがに本人に向かって「あなたが幽霊だと思ってました」見たいなことは言えないしな。

　どう言おうか悩んでいると「何を、勘違いしてたんですかっ？」と美澄さんは更に食い気味に聞いてきた。甘いものを食べて上機嫌なのか、「お姉さんに隠し事ですか～？」と焦る俺に悪戯っぽい笑顔で詰め寄ってくる。

　鼻にクリームついてますよっ！

　あと、可愛すぎです！

「早く言ってくださいよ～」

　身を乗り出して詰め寄ってくる彼女の物理的圧迫感がより考えを攪乱させる。

　もう、何て言っていいのだろう。

　ジト目に耐えつつ考えたが、誤魔化す方法は何も思いつかなかった。

「…………美澄さんが幽霊なんじゃないか、っていう勘違いです」

　正直に打ち明ける。

　一番非科学的で、子どもっぽい答えを美澄さんに告げてしまう。

　瞬間、虚を突かれたのか、口をポカンとしてしとして顔から笑顔が消えた。相当衝撃があったようで、固まってしまっている。

　その表情でさらに後悔する。

　彼女とはこれからも仲良くしたい、と思っていたのに。

　今ので間違いなく変わり者だと思われてしまった。次会うときはよそよそしい態度を取られてしまうかもしれない。

　ああ……、盛大にミスった。

「い、今のは冗談というものでっ……！」

　何とか苦し紛れの言い訳しようとするが。

「あ……あははははっ！」

　突然、彼女は屈託なく笑い出した。

　驚く俺をよそにツボに入ったのか、両手で口を覆って「はははははっ！」と声を上げて笑い続けている。

　よ、良かった……冗談だと思ってくれてるみたいだ。

「い、いや…………っ、まさかっ、まさか、ねっ」

　ふふふっ、と未だに笑っている。

　そこまで「幽霊」と言ってウケるとは。……そんなに面白かったのかな？

　だがそこで一頻り笑い終えたと言わんばかりに指で目元に溜まった涙を拭い始める。笑いすぎて苦しいのか深呼吸するが、それでも「はぁ……はは…はぁ……」と息が有れてる辺り、まだ笑い足りなさそうだ。

　ホッと胸を撫で下ろす。

　嫌われていないと分かって安堵していると、彼女はさっきの言葉の続きを紡いだ。

「まさか―――――――――――こんなに早く気付くなんてね」

　その一言に顔を上げる。

　……えっ、い、今なんて言いました？

　早く気付いた、ってどういう………俺の聞き間違いか？

「み、美澄さん、何を言って――」

　聞き返すと美澄さんは笑顔だった。

　いつも通りの、優しい笑顔だった。

　だがそこに、包み込んでくれるような温かさは全く感じられなくて。まるで、笑顔という名の仮面が張り付いているように――――無機質な笑みを彼女は湛えていた。

「もう気付いてしまったんですね、私の正体に。本当はもう少し楽しんでから、と思っていましたが、仕方ありません」

　美澄さんの口調は、さっきと似ているようだけど全然違っていた。静かなのに、恐怖のような威圧感。その場から動けなくなってしまう。

　や、ヤバい、これは本当にヤバい…………！

　第六感が警鐘を鳴らす。

　すると彼女がゆっくりと両手を俺の顔に伸ばしてきた。その伸ばされた指は半分透けており、彼女が正真証明の幽霊であるということを証明していた。

　一気に血の気が引いていく。

　い、今から何をされるんだ……。

　ま、まさかこのまま闇の中に消されてしまうのか？

　それとも、俺も幽霊にされてしまうのか？

　逃れる術を探すが、金縛りにあったかのように体がビクともしない。

「た、助けっ…………」

　必死の抵抗も空しく、彼女の指がそっと頬に触れた。

　父さん、母さんっ！

　走馬灯のように家族の顔が浮かぶ。

　一巻の終わりと目を瞑った――その瞬間。

「ふ、ふぐぅ⁉」

　小さな両手が包み込むように俺の頬を両方から押さえた。

　しかし、細い指が頬に触れた後も別に意識が飛ぶような感覚もなく、ただ頬を両手で挟まれているだけの時間が続く。

　妙な安心感に包まれながら恐る恐る瞼を開けると。

「やっと開けましたね」

「…………えっ？」

　目の前には、慈愛に満ちた瞳の美澄さんがいた。

　恐ろしい雰囲気も纏っていない、俺の知ってる美澄さんだ。

「ど、どういうことですか、美澄さんっ。あと、ほっぺたから手を放してください！」

　抵抗すると、素直に手が頬から離れた。

　何が起きているのか分からない俺をよそに、彼女は悪戯っぽく微笑む。

「驚きましたか、私の演技。これでも、生前は演劇サークルに入ってたんですよ？」

「み、美澄さん……？」

「一回、悪霊っぽいことをしてみたかっただけですっ。本当はもっと親しくなってからカミングアウトをしようと思ってたんですけど……。もうバレてしまったのなら、仕方ありません」

　そう言うと彼女は自分の胸に手を当てて。

「あなたの言う通り、私は幽霊です――」

　美澄さんは真っすぐに俺を見つめて、告白した。

　　　　※

　その後、美澄さんはこれまでのことを話してくれた。

　交通事故に遭った後、気づいたら幽霊になっていたこと、アパートが引き払われた後も仕方なく住み続けていたこと。本物の幽霊と話しているはずなのに、不思議と普通の人生談のように聞いてしまっている。

　彼女の話は続く。

「私、幽霊になった後、ずっと一人だったんです。私以外に他の幽霊さんもあまり見かけなかったですし。……それで、幽霊って見える人には見えるっていうじゃないですか？なので、生きてる人とコミュニケーションを取りたいな～って。物を持ったりとか明瞭に見えるように練習して、やっとある程度できるようになったんですよ。まぁ、姿を見せられるのは夜限定で、人も限られちゃってるんですけどね」

　てへっ、と軽く舌を出す美澄さん。

　彼女が幽霊ということは分かったけれど。

「……足ありますよね？」

「幽霊でも足ありますよ？」

「怪奇現象を管理人さんから色々聞いたんですが」

「あー、多分それ私の練習ですね……。驚かせて何人も退去させてしまいました……」

　仲良くなりたかったんですけど……と、美澄さんは肩を落とした。

　あ～、そういうことだったのか。

　話が繋がったわ。

「……そういえば、昨日は何で助けてくれたんですか？」

「だって、困ってたじゃないですか」

　俺の疑問に即答する美澄さん。

　困ってたからって、幽霊ってそんなフランクに現れていいものなのか。

　今日も普通に部屋から出てきたし。

　確かに、管理人さんも言っていたように優しい人だ。

「あ、あの……これからも会ってくれますか？」

　今後も美澄さんと会って話したいと伝える。

　すると彼女は表情を曇らせて。

「……私もここが好きなのでこれからも居たいですし、仲良くしてくれた遠坂君ともっと話したいです。けどいわく付き物件としてここに迷惑をかけ続ける訳にもいかないですし……。そろそろ出ていかなきゃな……って思ってたんです」

　美澄さんは寂しそうに、そう呟いた。

「そう、ですか……」

　また会えると思っていただけに、気持ちが沈む。

　すると彼女もその空気を察したのか。

「ええっと、じゃあこの辺にしますか………」

　微妙な空気の中、美澄さんがお開きにしようと告げると、同時に彼女の体がだんだんと空気に溶け込み始めた。シュークリームありがとう、と笑顔で消えてゆく彼女を見ながら、俺は自分自身に問いかける。

　本当にこのまま彼女と別れていいのか？

　何かまた会える方法があるんじゃないのか？

　考えろ、俺！

「……美澄さんっ！」

「は、はいっ！」

　消えるすんでの所で彼女を呼び止める。

「美澄さんは、どこか迷惑のかからない所に行きたいんですよね？」

「え、ええ、そうですけど……」

「あてはあるんですか？」

「い、いや……今のところは」

　言い淀む美澄さん。

　それを聞いた俺は逡巡した後、彼女に思い切った提案をした。

「それじゃあ、俺の部屋に来ませんかっ？」

「えっ…………え、えええええええっ⁉」

「俺は迷惑じゃないので、来ませんかっ⁉」

「あ、あああの、そのっ、ええええええぇぇぇっ⁉」

　俺の唐突な提案に彼女は顔を真っ赤にして慌てふためく。

　さっきまでの落ち着きはどこへやら、可愛らしく左右に瞳を泳がせている。

「わ、わたしっ、幽霊なんですよっ？」

「分かってます！」

　さっき自分でも言ってたじゃないですか。

「俺は全然気にしないです。…………もしかして、嫌ですか？」

「い、嫌ではないですけどっ……」

「じゃあ来てください！」

　ダンッ、とテーブルを叩いて再度告白した。

　頬が最高潮に熱い。

　でも、ここで別れてしまえば一生彼女とは会えなくなってしまうかもしれない。それを考えると、恥ずかしさなんか気にならなかった。

　彼女と出会ってまだ一日。

　たった二回しか会っていないけれど。

　彼女とずっといたい、そう思ってしまった。

「私、年上ですよ、うるさいですよ。それでもいいんですか？」

「全然構いません！」

「落ち着かないかもしれませんよ？」

「騒がしい方が俺は好きです！」

「えっとそれから……それからっ…………う、うぅ」

　どうやら口実が無くなってきたらしい美澄さんは、紅潮した顔をパタパタ仰ぎつつ、次の口実を必死に探しているようだった。

「やっぱ……嫌ですか？」

「…………って」

「嫌、なんですよね……」

「だ、だからっ……！」

　彼女の煮え切らない態度から本音を察してしまう。嫌がっている相手に、流石に無理強いは出来ないよな。何か言おうとしているとしているが、優しい彼女のことだからどう俺を傷つけないかを考えているのだろう。

「本当に嫌なら……」

　諦めてそう言いかけた瞬間、美澄さんはいつになく大きな声で「私の話を聞いてくださいっ！」と叫んだ。

　思わず面食らってしまう。

　すると美澄さんは、我に返ったかのように再び顔を赤らめて。

「だっだから……だからっ…………嫌じゃないってさっき言ったじゃないですかっ！」

　何で分からないのっ、と美澄さんはいじらしい瞳で俺を見つめて、拗ねたように唇と尖らせた。

　その彼女の可愛さに。

　俺は息をするように彼女を見つめてしまう。

　すると俺の視線に気づいた美澄さんは恥ずかしそうに俯いて。

「わ、私、告白とかされたこと無かったから………混乱しちゃって。あ、あの……よ、よろしくお願いします………っ」

　緊張で震えた声で告白を受け入れてくれる。

　その顔は、ひとえに美しくて。

　何物にも喩えがたい尊さをたたえていて。

　彼女がこの世のものではないということを一番納得できた瞬間だった。

　　　　　※

　次の日の朝。

　テーブルを見るとそこには、みそ汁と卵焼きが作り置きされていた。