第4話

たまきくん、いるかい」


 玄関の方からかかった声に環ははつと目を覚ます。

 眠気を払うように頭を振って座布団を立つと、店先へ急いだ。

 戸口を開ければ、丸眼鏡をかけた顔見知りがにつと笑って立っていた。

「あけましておめでとう」

柊木ひいらぎ先生——」

 環はこんな時間に現れた知人と、彼の放った挨拶にぽかんと間抜まぬけに口を開けた。しかし瞬時に先ほど夢に聞こえてきたのが除夜の鐘であったことと、転寝うたたねの間に年を越していたことに気づく。

「あ、あけまして、おめでとうございます」

 慌てて辞儀をする環に構わず、鳶外套インバネスコートをひらめかせ男は店の中に入ってきた。

「夜分にすまないね。近くの寺に鐘撞かねつきに来たついでに寄ってみたんだ」

「よろしければ奥へどうぞ」

 店の小上がりに腰掛けようとした客人に、ここでは寒かろうと環は奥の間を示す。

「じゃあ、お言葉に甘えようかね」

 男は外套コートを脱いで環に従った。


 柊木ひいらぎ先生は環が懇意にしている骨董鑑定家である。

 たまにスーツも着るが、普段から着物姿で過ごしている。その方が鑑定内容に真実味が増すから、という理由らしい。髪には白髪しらがも混じっているが、まだ四十になったばかりだ。鑑定家としては若い部類に入るので、客によってはあなどられることもあるのだろう。柊木先生の隣に古い知識と思い込みで耄碌もうろくした古参の鑑定家を連れてきたとしても、そちらを選びたがる客は一定数いる。そういうやからの先入観を少しでも和らげるのに、和装は役に立つのだという。しかし、そんなことをしなくても彼の目利きが確かであることを、環はよく承知していた。


「おいおい、こちらも随分と冷えているじゃないか。いくら前時代的生活をしていても、ストーブくらい持ってるだろう」

「あれ? すみません。すぐにけますね」

 柊木先生に言われて初めて、環は自分が暖房を使っていなかったことに気づく。

 一階に降りてからすぐに台所へ行ってしまったし、その後もすぐに蕎麦を食べて身体が温まったのでストーブを点け忘れていたのだろう。しかし、酒を呑んでそのまま寝てしまったのに自分の身体が全く冷えていないのが不思議だった。

「一人で一杯やっていたのかね」

 卓袱台ちゃぶだいの上に残っていた徳利とっくり猪口ちょこを見つけて柊木先生が言った。

「この間、先生がくださったお酒です。とても美味しくて何杯もいただいてしまいました」

「そいつはよかった。先日信州へ呼ばれた先でお礼にといただいたんだ。酒の呑める知り合いがいて助かったよ」

 柊木先生は下戸ではないが、酒の味にはうといらしい。宴席や祝いの場で必要に迫られればいただくが、自ら進んで呑むことはしないそうだ。家に置いても仕方ないというので、鑑定の礼に日本酒をもらうと必ず、環のところへ持ってきた。

「実は年末にまた一瓶もらってしまってね。よかったら一緒にどうだね?」

 先生が手持ちの袋から一升瓶を取り出した。

「よろしいですよ。でも、先生もお呑みになるのは、珍しいですね」

「新年を迎えたときくらい、さすがに呑んでみたくなるものさ。それに君も、年の瀬、年明けにすらここから出られず一人でいるんじゃ寂しかろうと思ってね」


 一人、と言われて環は小首を傾げる。

 確かに一人ではあるのだが、孤独を感じることはあまりない。誰かの思い出が染みついた品々が側にいるお陰か。彼らに振り回され、付き合っていると、思いも寄らない縁を繋いでくれることもある。


「寂しくはないですよ。ここにいるのは、僕自身が好きでやっていることですし」

 あっけらかんと返す環に、そうかいと柊木先生はねたように言って押し入れから自分で座布団を出してくる。環はくすくすと笑みをこぼしながら先生の分の猪口ちょこを取りに行く。


 先生は環のことを気にかけてくれているのだ。環の祖父と親交があったせいもあるだろう。環がこのような——祖父の遺したこの家から身の上になってしまってからずっと、生活に不自由のないよう世話を焼いてくれている。父のような、兄のような人だ。


 猪口を持って居間に戻ると、柊木先生がかき揚げを盛っていた皿をしげしげと眺めていた。

「今年にぴったりの良い皿だね」

 戻った環をちらと見てそう告げてくれたが、はて、何のことやら。

 環は首を傾げつつ先生の手前にある大皿を覗き込み、あっと驚嘆した。

 残していたかき揚げがない。

 否、そうではない。そんなことより重要な変化があるではないか。

 不自然に空いていた余白がない。代わりに、竹林の中に、虎がいる。


古伊万里こいまりかな。竹林に虎とは、正統派オーソドックスな絵柄だ。今年の干支だし、新年のお祝いによく合っているね」

 柊木先生の解説に適当に相槌あいづちを打ちながら、環は微睡まどろみの中くるまれた温もりの正体に思い至る。


 ふさふさの毛。大人一人を抱き込んでしまえるような体躯の生き物。

 青い竹林を抜け出して、自分の番が来るまでどこかで遊んでいたのだろうか。


「ありがとう。おかえり」

 蘆雪ろせつの虎にも似た愛嬌のある大きな目がこちらをうかがっている。

 環が冷えて身体を壊してしまわぬよう、温めてくれたのかもしれない。

 それがたとえ環の思い込みでも、事実、お陰で助かったのだ。かき揚げくらい、いくらでもお礼にくれてやる。

 それに何と言っても今年の顔だ。店の目立つところに飾ってやろう。

「相変わらず君は骨董に好かれているようだな」

 皿に礼を述べる環を口をへの字にしていぶかしんだ挙句、柊木先生は呆れていた。

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新年、骨董屋にて 毛野智人 @kenotomoto

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