後編






「――こーんなだっさいもの書いて、恥ずかしくないの?」



 一階の渡り廊下から外に出て、義永よしながたちは校舎の離れにある屋外プールに来ていた。

 11月のプールは水を張ったまま、水面には木の枝や落ち葉が浮いている。


 水色のプールサイドで仁王立ちをして、中崎なかざき義永よしながにらんでいる。

 その手には、義永よしなががいつも小説を書いているノートがあった。


「私のノートを返して」義永よしながが言った。


「ロボットかよ。いっつも顔見えなくてキモいんだけど。

 せっかく構ってあげてるんだから、嬉しそうにしたら?」


「ノートを返して」

「ほんと、きもい……西嶋はこんなののどこがいいわけ?」


『いじめ現場じゃん!!』青い顔で仁田じんだが言った。



「ああそっか、西嶋にしじまのせいで調子乗っちゃったんだ! あいつ誰にでも優しいから……」


「――西嶋にしじまくんは悪くない」義永よしながが静かに言った。

「は?」

西嶋にしじまくんは、何も悪くないわ。全部、私が弱いのが悪いんだもの」

「何言って……」

「きっと貴女と同じだわ」



「俺行ってくる。仁田じんだは先生を呼んで――」


 ――ドン。鈍い音がして、俺は振り返った。

 義永よしながの身体が、宙に浮いていた。


 顔を真っ赤にして歯をき出しにした中崎なかざきが、両手を前に出している。


 義永よしながの細い身体が、ゆっくりと、円を描くようにしてプールへと落ちていく。俺は走り出した。入口から彼女のところまで、数十メートル。


 ドボン。義永の身体が水の中に沈んでいく。


「なっ、なんで西嶋がここにい――」

「どいて」


 彼女が浮かんで来ない。

 中崎を押し退けると、俺は上着を脱いで、よどみの混ざるプールの中に入った。


 濃い緑色のもやのようなものが浮いていて、身体に引っかかる。

 義永の影が、浮かぶ落ち葉に混ざっていく。


「義永さん!!」


 俺は大きく叫ぶと息を吸って、水の中へともぐり込んだ。







 プールの底が見えない。俺はゴミの漂っている水の中で、必死に目を見開いていた。

 いつもなら足がついて余裕で頭が出るほどなのに、今は雨水でかさが増えているとしても、こんなに底が深いのはおかしい。


 だらりと腕を投げ出して、どんどん、義永さんの身体が沈んでいく。底の見えない闇の中へ。



『義永さん!!』声にならない声を張り上げる。


『義永さん――!!』



 俺は手を伸ばす。

 視界が闇へと吸い込まれていった。









 私が、毎日見ている夢がある。


 海の中から水面をながめている。

 夜の海はどこまでも真っ暗で、それでも月明かりがさす水面だけは、光が当たってキラキラと綺麗に見えた。


 ああ息ができる。

 すごく楽に、息ができる。


 水の中は気持ちがよかった。

 身体は軽くて、どこまでも泳いでいけそう。

 足元に見える魚たちは、まるで私がいないみたいに、スイスイと自由に泳いでいる。


 ――もっともぐろう。

 もっともっと、深くもぐろう。


 綺麗な水面よりも、深くて暗い水底の方が、私は気になった。

 またあの息苦しい場所に戻されたくない。

 身体が浮いていくことが恐ろしい。



『――小説を書かなきゃ。』

 魚たちが言った。


『小説を書かなきゃ、君はここにはいられないよ』








を好きになるんなら、君はもう、ここにはいられないね」













「――え……」


 そこは海岸だった。

 白い砂浜に打ち上げられたみたいに、俺と義永よしながさんは並んで倒れている。


「義永さん、義永さん、起きて」隣にいる彼女の肩を揺する。

「ん……」


 大きなまんまるの月が俺たちを見下ろしている。

 その大きさはあまりにも現実とかけ離れていて、ここが普通の場所ではないことを示していた。


「ここ、どこだろう。

 俺たちプールに入って……」


 俺は彼女の髪を見てゾッとした。俺も義永さんも、身体がれていない――。


「んん……」

「義永さん?!」

「西嶋くん……?」


 目を覚ました彼女が、俺を見た。


「よかった……」


「どうして……」絶望的な声。


「え?」

「――どうして、私を引き上げたの?」彼女は言った。


「え……?」

「なんで……私……」震える半身を持ち上げて、砂をつかんでいる。


「……書かなきゃ」彼女は言った。

「小説を書かなきゃ。私はここに、居場所なんてないもの」


「義永さん……?」


 フラリと立ち上がると、ゆらゆらとした足取りで、彼女は海へと歩いて行こうとする。

 さざなみの音が聞こえた。


「待って、義永さん……!!」

「私はここにいちゃいけないの!!」


 初めて聞く、悲痛な彼女の声に、思わずビクリと止まる。


「聞いて義永さん。俺は義永さんのことが……」

「は、早く……早く、戻らなきゃ……」


 青ざめた顔のまま、彼女は海の中へと入っていく。ざぶざぶと。

 くらい空には大きな満月。


「行かなきゃ……!」

「義永さん!!」


 俺は彼女の細い腕を乱暴に掴むと、砂浜に押し倒した。


「危ないだろ!! おぼれたらどうするんだよ!!」


おどさないで」と彼女は言った。

おどしてないよ」と俺は言った。


貴方あなたと私は違うもの」


 彼女の顔が見えなかった。


貴方あなたは恵まれているもの」


 彼女の顔が見えなかった。


「俺を見て」俺は言った。


「俺のことを見て」


「う……っ」


 どうしてこんなことをしてるんだろう。

 俺の手が、彼女の首をめた。

 白い砂浜に俺は彼女を押さえつけて、その身体におおかぶさって、彼女の細い首を両手でめていた。


「殺さないで……お願い、私を、殺さないで……」苦しそうに彼女は言った。


 それでも俺の指は、彼女の首をめた。


「……書けなくなるの」と彼女は言った。


貴方あなたを好きになったら……私、書けなくなるの」


 彼女は泣いていた。

 黒い瞳にいっぱいの涙をめて、泣いていた。


 こんな顔をしてたんだ。


「……殺さないよ」


 俺は手を離した。

 代わりにその涙をぬぐって、頬に手を当てる。

 するりと俺の手は、彼女の髪をすり抜ける。


「……俺は君を、殺したりなんかしない」


 彼女の身体に息を吹き込むみたいに、俺はその唇にキスをした。






「いやーーーまじでビビった!! ホント!! だって上がってこねーんだもん、西嶋!! プールでおぼれるとかマジであんだな〜〜」


「心配かけてごめん……」


 結局あの後、仁田じんだに呼ばれた先生たちによって、俺と義永はあの泥沼のようなプールの中から引き上げられたらしい。二人とも気絶していたお陰で特に身体に水が入ることもなく、運が良かったのだと、後で運ばれた病院の看護師さんに聞かされた。

 簡単な検査をした後、家に帰された俺は風邪を引いて今、部屋にお見舞いに来た仁田じんだと話をしている。


「あ、聞いた? 中崎のヤツ、アカウント凍結だって。こないだので校長にもすげー怒られて、退学になんじゃ? って噂」

「興味ないかな」さらりと俺は言った。どうでも良かった。


 トゥイッタのアカウントも、正直もうわずらわしくて、削除しようかと考えてる。寝ている時にもピコピコと、心配の連絡が来ていたが、どれも返す気が起きなかった。


「お? 『良い子ちゃん』はもうやめたん?」と揶揄からかうように仁田が言った。

「何だよそれ」

「べっつに〜〜?」

「……?」


「ま、『恵まれない片想い』の西嶋クンのために、オレがやっさし〜〜プレゼント用意しといてやったからなっ、じゃ」


「はあ?」


 片手を上げて部屋を出ていく仁田の後ろに、見覚えのある細い人影が見えて、俺は思わずあんぐりと口を開ける。


「……具合……どうかしら?」


 紺色のワンピース姿の義永さんが、仁田の後ろに立っていた。


「だい……丈夫……だけ、ど……義永、さん、は……」

「私はなんともなかったわ」

「そ、そう……」それはそれで、男としてなんとも言えない気持ちになる。


「――あの時、夢を見たの」と彼女は言った。

「え?」


「貴方に殺されそうになる夢」


 ドキリとして俺は、シーツのすそつかんだ。

 あの時の感触が、今でも俺の指に、唇に……残っている。


「……少し、残念だった」

 ボソリとそう言った彼女の言葉を、俺は聞き取れなかった。


「――え?」


「ううん。私、これからも小説、頑張るわ」すっきりとした顔で彼女は言う。


 そうだ今、彼女の目が、よく見える。

 ずっと重たい前髪で隠れていた――。



 その後、彼女がどこかの文学賞を取って、小説家になったのだと噂で聞いた。

 俺は、小説家になった彼女のことを、殺そうと思う。

 ずっとそう思う。

 いつか彼女がそう願ってくれたなら。

 またあの浜辺で、彼女が来るのを待っていよう。



 俺が小説家の彼女を殺すまで。





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俺が小説家の彼女を殺すまで 田舎の鳩 @hatohatono

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