後編
「――こーんなだっさいもの書いて、恥ずかしくないの?」
一階の渡り廊下から外に出て、
11月のプールは水を張ったまま、水面には木の枝や落ち葉が浮いている。
水色のプールサイドで仁王立ちをして、
その手には、
「私のノートを返して」
「ロボットかよ。いっつも顔見えなくてキモいんだけど。
せっかく構ってあげてるんだから、嬉しそうにしたら?」
「ノートを返して」
「ほんと、きもい……西嶋はこんなののどこがいいわけ?」
『いじめ現場じゃん!!』青い顔で
「ああそっか、
「――
「は?」
「
「何言って……」
「きっと貴女と同じだわ」
「俺行ってくる。
――ドン。鈍い音がして、俺は振り返った。
顔を真っ赤にして歯を
ドボン。義永の身体が水の中に沈んでいく。
「なっ、なんで西嶋がここにい――」
「どいて」
彼女が浮かんで来ない。
中崎を押し退けると、俺は上着を脱いで、
濃い緑色の
義永の影が、浮かぶ落ち葉に混ざっていく。
「義永さん!!」
俺は大きく叫ぶと息を吸って、水の中へと
*
プールの底が見えない。俺はゴミの漂っている水の中で、必死に目を見開いていた。
いつもなら足がついて余裕で頭が出るほどなのに、今は雨水でかさが増えているとしても、こんなに底が深いのはおかしい。
だらりと腕を投げ出して、どんどん、義永さんの身体が沈んでいく。底の見えない闇の中へ。
『義永さん!!』声にならない声を張り上げる。
『義永さん――!!』
俺は手を伸ばす。
視界が闇へと吸い込まれていった。
*
私が、毎日見ている夢がある。
海の中から水面を
夜の海はどこまでも真っ暗で、それでも月明かりがさす水面だけは、光が当たってキラキラと綺麗に見えた。
ああ息ができる。
すごく楽に、息ができる。
水の中は気持ちがよかった。
身体は軽くて、どこまでも泳いでいけそう。
足元に見える魚たちは、まるで私がいないみたいに、スイスイと自由に泳いでいる。
――もっと
もっともっと、深く
綺麗な水面よりも、深くて暗い水底の方が、私は気になった。
またあの息苦しい場所に戻されたくない。
身体が浮いていくことが恐ろしい。
『――小説を書かなきゃ。』
魚たちが言った。
『小説を書かなきゃ、君はここにはいられないよ』
*
「あいつを好きになるんなら、君はもう、ここにはいられないね」
*
「――え……」
そこは海岸だった。
白い砂浜に打ち上げられたみたいに、俺と
「義永さん、義永さん、起きて」隣にいる彼女の肩を揺する。
「ん……」
大きなまんまるの月が俺たちを見下ろしている。
その大きさはあまりにも現実とかけ離れていて、ここが普通の場所ではないことを示していた。
「ここ、どこだろう。
俺たちプールに入って……」
俺は彼女の髪を見てゾッとした。俺も義永さんも、身体が
「んん……」
「義永さん?!」
「西嶋くん……?」
目を覚ました彼女が、俺を見た。
「よかった……」
「どうして……」絶望的な声。
「え?」
「――どうして、私を引き上げたの?」彼女は言った。
「え……?」
「なんで……私……」震える半身を持ち上げて、砂を
「……書かなきゃ」彼女は言った。
「小説を書かなきゃ。私はここに、居場所なんてないもの」
「義永さん……?」
フラリと立ち上がると、ゆらゆらとした足取りで、彼女は海へと歩いて行こうとする。
「待って、義永さん……!!」
「私はここにいちゃいけないの!!」
初めて聞く、悲痛な彼女の声に、思わずビクリと止まる。
「聞いて義永さん。俺は義永さんのことが……」
「は、早く……早く、戻らなきゃ……」
青ざめた顔のまま、彼女は海の中へと入っていく。ざぶざぶと。
「行かなきゃ……!」
「義永さん!!」
俺は彼女の細い腕を乱暴に掴むと、砂浜に押し倒した。
「危ないだろ!!
「
「
「
彼女の顔が見えなかった。
「
彼女の顔が見えなかった。
「俺を見て」俺は言った。
「俺のことを見て」
「う……っ」
どうしてこんなことをしてるんだろう。
俺の手が、彼女の首を
白い砂浜に俺は彼女を押さえつけて、その身体に
「殺さないで……お願い、私を、殺さないで……」苦しそうに彼女は言った。
それでも俺の指は、彼女の首を
「……書けなくなるの」と彼女は言った。
「
彼女は泣いていた。
黒い瞳にいっぱいの涙を
こんな顔をしてたんだ。
「……殺さないよ」
俺は手を離した。
代わりにその涙を
するりと俺の手は、彼女の髪をすり抜ける。
「……俺は君を、殺したりなんかしない」
彼女の身体に息を吹き込むみたいに、俺はその唇にキスをした。
*
「いやーーーまじでビビった!! ホント!! だって上がってこねーんだもん、西嶋!! プールで
「心配かけてごめん……」
結局あの後、
簡単な検査をした後、家に帰された俺は風邪を引いて今、部屋にお見舞いに来た
「あ、聞いた? 中崎のヤツ、アカウント凍結だって。こないだので校長にもすげー怒られて、退学になんじゃ? って噂」
「興味ないかな」さらりと俺は言った。どうでも良かった。
トゥイッタのアカウントも、正直もう
「お? 『良い子ちゃん』はもうやめたん?」と
「何だよそれ」
「べっつに〜〜?」
「……?」
「ま、『恵まれない片想い』の西嶋クンのために、オレがやっさし〜〜プレゼント用意しといてやったからなっ、じゃ」
「はあ?」
片手を上げて部屋を出ていく仁田の後ろに、見覚えのある細い人影が見えて、俺は思わずあんぐりと口を開ける。
「……具合……どうかしら?」
紺色のワンピース姿の義永さんが、仁田の後ろに立っていた。
「だい……丈夫……だけ、ど……義永、さん、は……」
「私はなんともなかったわ」
「そ、そう……」それはそれで、男としてなんとも言えない気持ちになる。
「――あの時、夢を見たの」と彼女は言った。
「え?」
「貴方に殺されそうになる夢」
ドキリとして俺は、シーツの
あの時の感触が、今でも俺の指に、唇に……残っている。
「……少し、残念だった」
ボソリとそう言った彼女の言葉を、俺は聞き取れなかった。
「――え?」
「ううん。私、これからも小説、頑張るわ」すっきりとした顔で彼女は言う。
そうだ今、彼女の目が、よく見える。
ずっと重たい前髪で隠れていた――。
その後、彼女がどこかの文学賞を取って、小説家になったのだと噂で聞いた。
俺は、小説家になった彼女のことを、殺そうと思う。
ずっとそう思う。
いつか彼女がそう願ってくれたなら。
またあの浜辺で、彼女が来るのを待っていよう。
俺が小説家の彼女を殺すまで。
終
俺が小説家の彼女を殺すまで 田舎の鳩 @hatohatono
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