中編





「いつも、ここで書いてるの?」


「え……?」


 いつかの放課後だった。


 私は彼を見て驚いた。ほうけた声が出る。

 西嶋凌太にしじまりょうた

 一度も話したことのない彼は、クラスで目立つことをしなくても、勝手に人の集まってくる、人当たりがよくて感じの良い、そんな人間だった。それを意識させない、自然体の彼自身の人との距離が、余裕が、無理の無さが、私はいつも、不可解でたまらなかった。


 今もほら、こんな風に――クラスでなんとなく、『空気が読めない』と敬遠けいえんされている私にも、ただのクラスメイトみたいに本当に普通に話しかける。


 彼は、人を怖がらない人だ。

 生きているだけで息が苦しくなるような、自分とは違う。


「いや、文芸部って、部室無いのかと思って。義永よしながさん、確か文芸部だったよね? ……てゆうか何気に俺ら席近いのに、しゃべったの初じゃん」


 彼はそう言うと、私の前の席――自分の机の中に手のひらを入れると、一冊のノートを取り出した。


「あった。明日理科の課題あったの忘れてたんだよな」


 私は右手に持った鉛筆を所在無げに揺らした。


 彼のような人がいると思うと、急に自分のしていることが、矮小わいしょうでつまらない、何の意味もないようなことみたいに思えて、さっきまでイメージを繋げていた文章たちが、ボロボロと崩れていくような感じがする。


「部室はあるけど、ここが、私にとって、一番……書くべき場所なの」


 何を言っているんだろうと思った。

 でも私には、本当に必要なことだった。


 きっとこんなこだわりなんて、彼みたいな人にはおかしなモノだと思われるんだろう。


「書くべき場所?」キョトンとした顔で彼は言った。


 そのままこちらを向いて、私の方へとかがみ込んで来る。

 まだ、何の度胸も無い私は、思わずひじでノートの筆致ひっちを隠そうとする。


 ――ああ、こんな臆病者おくびょうものだから、私はダメなのに。


 自嘲じちょうが積み重なって、また、私の胸の中をなまりを詰めたみたいに重くする。


「マイルールみたいな? へー。いーじゃん」


「え?」


 あっけらかんと彼はそう言って、私の方を向いたまま自分の席に座ると、こちらにグッと身体を傾けた。


「俺もあるよ。バスケなんだけど、試合の前には、絶対ボール磨き50個するって決めててさ……」


 思わずひゅっと息が上がって、私はうつむいた。


「え……あ……そう……」


 彼みたいな人が、私を肯定した。

 肯定してくれた。


 ぐるぐるとした頭のまま、必死に彼に受け答えをするのが精一杯だった。本当に、取り留めのない、お互いのことを話した。でもそれが全部、私にとってはキラキラした言葉たちみたいに、光って聞こえていた。


「あ、そろそろ俺、行くわ。じゃあね、義永よしながさん」


「あ…………」


「義永さんも、小説、頑張って」


 行ってしまった。


 温まった心がすうっと冷えていく感触。何でだろう。さっきまでちっとも、私はぬくもりなんて求めて無かったのに。

 貰ってしまった今は、もう、この冷たさが、無視できないものみたいに思えてしまった。


 焦燥しょうそうが口からこぼれるみたいに、私はボソリと呟く。


 どんなにみすぼらしくても。みっともなくても。

 それでも私は、私への信頼をつらぬきたかった。



「小説――書かなきゃ」

 






 朝礼が始まるチャイムの音が鳴った。



「お前らーーー!!! 5分前には始業準備済ませろといつもいつも言ってるだろうが!!!」



 廊下の突き当たり。ジャージ姿の男教師が顔を出すと、バインダーを振り上げて怒鳴る。


「げっ、生徒指導の先生じゃん…やべえ帰ろ帰ろ」



「ミナしっかり……まだ傷は浅い!! 息をするんだ!!」

「返事がない……ただのしかばねのようだ」

「とんでもない顔をしてるわよ……引きずって帰るしか…」



 廊下に集まっていた生徒たちは、散り散りにそれぞれの教室へと帰っていく。


 教室の入り口の近くに立ったまま、ポカン、とした顔で仁田じんだが言った。


「フラれた……?

 西嶋にしじまが……えっと、義永よしなが……って誰だっけ? 女子?」


「お前の後ろにいるだろ」とクラスメイトの一人が指摘する。


「……フラれっ、ええええ?!! どうわああああああああ!!」



「どいて」仁田じんだの影にいた義永さんが言った。

「あ、すみません」


 飛び上がる仁田じんだの隣をするりと抜けると、彼女は自分の席へと歩いて行く。


 ……なんとなく、この後の仁田じんだの行動が、俺は予測できた。

 ヒュッと、仁田じんだが息を吸った音が聞こえる。


「西嶋がああああああああ!! フラれたああああああ!!」


 両手を口に当てると、仁田じんだはどこにともなく、窓へと駆け寄ると校庭に向かって叫んだ。

 声はよく通って、空に吸い込まれていく。


「うるせえぞお前はいつもいつもオ!! 仁田じんだあ!!」教員の声が廊下に響いた。


 クラスメイトたちは青ざめた顔で、うるさい仁田じんだと俺と固まる中崎チナツ、そして義永よしながさんのことを見ていた。

 義永よしながさんは静かに歩いて来ると、俺の一つ後ろ、自分の席へ座った。

 彼女は一度も、俺を見ることはなかった。





「お前、いつの間に好きな子なんてできてたんだよ? 

 こないだ、1ヶ月前くらい? 他校のめっちゃ可愛い子に告白されて付き合って別れて……」


 俺の恋愛事情がどこにもかしこにも筒抜けなのは、主にこのうるさい友人のせいだと思っている。


「すげえネタじゃん〜〜びっくりするぞ、他の奴ら、あの西嶋にしじまがフラれたーーって」

「人の恋愛をあんまり茶化すなよ」

「いやいや! 面白過ぎるだろ! 今に学校中の噂になるぞ」


 主にお前のせいでだけどな。


「いつ? いつから好きなん?」


 2時間目の移動教室。

 俺と仁田じんだは、秋冷えのする一階の渡り廊下を、西棟の理科室に向かって歩いていた。


 廊下を歩きながら、俺はぽつぽつと友人に喋った。

 放課後、教室で小説を書いている義永よしながさんと、何回か会って喋っていたこと。

 昨日の放課後に告白をするつもりだったこと。

 でも、『好きになりたくない』と言われたこと、『恵まれているから』と言われたこと。

 だから俺は、告白をする前に振られてしまったこと。


「――それって……嫉妬じゃね?」

 俺の話をじっと聞いていた仁田じんだが、ポツリと言った。

「え?」

「いや、だから……恵まれてるお前に対する嫉妬……的な? 羨ましーんかな?」

「なんで?」

「さあ? 知らんよオレも」


 少し考える素振りをして、仁田じんだは言う。


「……義永よしながって根暗じゃん」

「そんなことないよ」俺は即座に返した。


「いや、周りにそう思われてるって話!」

「だから何?」


「それがさあ、お前みたいなその……モテる奴に好かれて……。

 いやでもそれって、いきなり美女に告白されるようなモンじゃん? 

 めちゃくちゃハッピーライフ送れそーだし……。

 ……女子ならフツー、喜ぶよな? オレが女なら自慢じまんして回るわ。

 だってさ、こんなイケメンだぞ……クソが」


「つまり?」


「可愛い彼女が欲しい〜〜!!」


 こいつ……。真面目に聞いた俺がバカだった。


「あこれ、義永よしながのじゃん。」立ち止まった仁田じんだが、俺の肩をつついた。


 校長室と職員室の間の掲示板。

 いつか文芸部で賞を取ったものだろうか。

 切り抜かれた新聞と一緒に、原稿用紙に手書きで書かれた文章が、透明のファイルに挟まれて展示されている。


 俺は目についた一文を読んだ。

『僕なんかに使ってくれている、君の時間が勿体無もったいないよ。』


 このセリフを知ってる。

 彼女のノートに書かれていた。


 それは長い独白のセリフだった。

 汚れた海で暮らす小さな魚が、友達になった美しい鳥に向かって、心の中で独白する。

 相手に伝えることもできずに、心の中で語りかける。


『僕なんかに使ってくれている、君の時間が勿体無もったいないよ。

 僕には何にも無いんだから、君が好きになれるものは何一つとして、持っていないんだから。君が僕から奪えるものなんて、


「何も無いから、私は……これが好きなの。」


 いつかの放課後。

 そう言って彼女は、さらりとノートをでた。

 その動作に、自分が触れられた訳でもないのに。うなじがジリジリと熱を持つ感じがした。



「――お、噂をすれば?」


 仁田じんだの声にハッとして、俺は視線を上げる。

 校舎と校舎の間、プールに向かう道を歩く、細くて小さな人影が見えた。その前にいたのは、同じクラスの中崎チナツと、その友人の二人だ。


義永よしながさん……?」

「――と、中崎〜ずがいたな?」


「これは……」

「イジメ現場?」


 そんなことは無い……とは言い切れない。

 実際、俺は彼女がクラスで孤立していることを知っていたし、だからこそ、放課後の時間だけ、俺は彼女と話をしていたのだから。

 

「――行ってみよう」

「まじ? 中崎怖くね?」

「俺は行くから」


 俺たちは顔を見合わせると、彼女たちの後を追った。





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