入湯の思い出
これは、私が小さい頃の話、風呂場は無限の場所だった。目を瞑って頭まで湯に浸かるとそこには夢の世界が広がっていた。お風呂に入れば幸せな世界に行けると本気で信じていた。
実際は、お風呂が好きだったことも関係しているのかもしれないし、夢の中で夢想していただけだったのかもしれない。近くの銭湯でも度々頭まで浸かって怒られたものだ。
とにかく、私は確実に裏側を除くように世界に潜ったのだ。誰に言っても信じてもらえない。くだらないことだったが、何にも変え難い魔法のようなものだった。
初めて夢に飛び込んだのは4つのときだった。
視界いっぱいが水で満たされたかと思うと、私は雑木林の中にいた。背後からカマイタチが飛んできては、なぜか不満そうに舌を出すのをじっと見つめていた。当時は怖くて動けなかったのかもしれない。とかく私の初めての夢中遊泳は、ファンタジーなものだった。
それ以来、様々な夢を見た。人と恋をしたり、空を泳いだり、宇宙でコマを回したり、海水を捏ねてクジラを作ったり。たいそう楽しかった。眠っているときとお風呂に入っているときの二度、世界を旅しているのだと誇らしかった。それは大人になるにつれて見なくなっていった。
いや、見なくなっていったというのは正しい表現ではない。私は湯船に潜るのをやめたのだ。洗い残しが浮いているかもとか、親と同じ湯に長く浸かっていたくないだとか、ミリ程度は考えはしたが……。ただ、子供っぽいと思った。結局はそれが理由だ。
それから数年後、19歳になって一人暮らしを始めた私は久しぶりに湯の底を見ようと息を止めた。そして、顔を上げた先には、あの懐かしいカマイタチが相変わらず恨めしそうに笑っていた。
帰れるんだ、また、いつでも帰れるんだ!
「ただいま」
誰に聞かせるでもなく呟いて、彼らに手を伸ばした。カマイタチらは私の手と顔を交互に眺め、軽く首を傾げ、手のひらを切り裂いた。痛くなかった。それどころか、笑えてきた。イタチのイヤミな顔が面白くて、ずっとずっと笑った。
そんな私も二十歳になった。
あれから嫌なことがある度に彼らと戯れていが、どことなく限界を感じていた。今度こそ本当に止めようかと思っていた。
今日は誕生日だというのに、夢の場所のことを思うと何故か気が重くなる。気の所為だとかぶりを振った。少なくとも何も気に病むことは無い。美味しいご飯を食べて弟と戯れた。実家を存分に満喫した。
「あんた、一番風呂入る?」
母が笑顔で私の肩を叩いた。
「うん」
「そういやね、昔よく行ってた銭湯潰れちゃったらしいわよ」
「え、そうなの?」
「3ヶ月前くらいにね。残念よねぇ。潜るほど好きだったのに」
「……へへ」
夢の中に行くために潜っていたとはつゆも思っていないようだ。過去ちゃんと説明したか記憶も曖昧だが、おそらく相手にされなかったのだろう。今の自分ならわかる。あれは子供の戯言だ。誰が聞いたってそう思うだろう。
「そうだ。お風呂。行ってきます」
「うん、いってらっしゃい」
浴室の扉を開け、シャワーを浴び、全身綺麗になったところで湯船の蓋を開けた。やはり実家のお風呂は良い。一人になって給湯器のありがたみを嫌というほど実感した。湯に足先から入り、全身の緊張がほぐれたところで、壁側のカーテンを開ける。
そこからは夕景が見えた。夜になっても大した景色など見えないが、西日が丁度いい角度で射し込んでくる。この小窓の先に、お気に入りの銭湯があった。傍に高い建物が無いおかげで、ぽつん、と立っている煙突。
「え?」
その煙突から、煙がのびていた。もうとっくに閉まって、稼働させることも無いはずなのだが。
だいたい20秒ほど経った頃、私は少し息を吸って湯に顔をつけ、全身を湯に潜らせた。瞼の裏が透けていく想像をした。
しかし、息は続かなかった。頬を伝ってお湯がかえっていった。
二度も試行する気は起きなかった。
「死んだ。死んだんだ……」
何を口走ったかすらわからないほど、頭が真っ白だった。
更新型ショートショート 愁 河伯 @shu_cahk
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。更新型ショートショートの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます