更新型ショートショート

愁 河伯

1月

どんぶらこ、とひとつ数えた

 遠い過去のことで、どうにも嫌だったことがひとつあった。まだ幼かったわたしに母が軽口をたたくつもりで言った「あんたは橋の下で拾ってきたのよ」という一言だ。どうして言ったのか、真に受けないだろうと踏んでいたのか、傷付くとは思わなかったのか……。

 真意などはどうでもいい。酒の席でのことだ。本人も覚えてないだろう。そう思って数年。


「橋の下で泣いてたから拾ったげたのよ。忘れたの? 感謝しなさいよ」

 母がまた、言った。

 周りにいた親戚は一瞬 酔いが覚めたかのような顔をした。母はやんわりとたしなめられ、バツが悪そうな顔をした。金色のビール缶を握りしめ、紅潮した顔で「あーあ、そうだわ。ゴメンなさいねぇ」と言い、叔父さんには「嫌な母親のもとで苦労させたね。許してやってくれるかい」と謝られた。

 しかし、わたしはその空気を飲み込めなかった。

「はァ。無理です」

 絞るように呟いて、一目散に逃げ出すのがやっとだった。子供をなんだと思っているのだ。母は。叔父さんは。──否、大人は。

 誰のものかわからないソールの暴れるスリッパを履いて、知りもしない母の地元を走る。こんなものが将来には青春という扱いを受けるのか。青少年期の感傷をそんな風に形容されてたまるものか。……確かに若い発想だ、と2秒前の自分にしかめ面をして、道路の側を向いた。

 とうに日は傾いていた。黒いワンボックスに反射された夕陽が目に痛かった。

 そもそも橋だなんてこの辺りにそんなものは無い……。

 と、不意に爪先にブレーキがかかる。そして、わたしは再び2秒前の自分を疑った。川があったのだ。

 川幅は5mくらいか、流れはさほど早くなさそうだが、先には見事におあつらえ向きの橋がかかっていた。

 本当に初めて訪れた。今までたった一度たりとも、祖父に散歩に連れていかれたときでさえ見たことがなかった。地図にも無い川じゃないだろうか。何の支流か、詳しくも興味もないわたしには知り得なかった。

 わたしは橋の方へ歩いた。とうに熱は冷めていた。怒りとはまったく異なる感情が胃から湧き上がっていた。橋の方へ向かうと、仔猫の鳴く声がした。

 この辺りで飼っているのかと見回せば、背後から籠がゆっくり流れていた。バケツより少し大きいくらいの容器が薄桃色で満たされていた。それはこちらに近付くに連れて生物らしさを帯びてきた。

 帯びてきたとは変な表現だ。否、帯びてきたというしかないのだ。ぼかされていた未知の物体にピントが合うほどに、それは生命としての主張をしていくようだった。

「──ナァ」

 仔猫が鳴いた。仔猫か? あれが、仔猫だと呼べるものか?

「──ナーーァ、ナァ。……ナァン」 

 何を言っているのかわからないが、あの目は絶対に、こちらを向いている。わたしを見ている。拾えとでも言いたいのか。手先が震えていた。

 籠はやおらに橋の下の方へ流れていく。じっとわたしを捉えたまま、恨めしそうに。変わらず耳元で囁くように、あの鳴き声がする。

「──ネエ」

 何を思ったか、わたしはスリッパを素早く脱いで投げた。スリッパは放物線を描いて夕日に隠れ──籠がひっくり返った。逆さになった籠が半分沈んだまま、橋の向こうに消えていった。

 数秒待っていたが、あの桃色の塊やスリッパが浮き上がってくる気配はなかった。涙が込み上げてきて、もう帰ろうと踵を返した。スリッパのことは謝ろう。家を出たことも反省しよう。二度とこんな目に遭わないなら。


 その後、あの物体もスリッパも見つからないまま、わたしは母になった。今の娘が本当に腹から産まれたことにほっとしている。

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