天の川の果て。

延暦寺

午後の授業の気怠さは古今東西の学生のあまねく知りうるところだし、まして古典なんていうどこで使うんだか誰もわからないような科目ともなれば言うまでもない。助動詞の「る」「らる」のあたりで既に置いて行かれた私は、授業の大半を机に突っ伏すか、あるいは窓際の席という地の利を活かして空を眺めている他に選択肢はなかった。ゴールデンウィークも明けて、今年は開花の遅かった桜もとうに散って、万緑の構えを見せている。ひつじ雲がぽつんと浮かぶ晴れ渡った空。


空。


思えば小さいころから空を見上げてばかりいる。特に夜の空を、飽きもせずただ、見つめ続けている。

どうしてかは分からない。星が好きだからか、と聞かれたらそれは違う。もちろん星は好きだし、夏の大三角とか冬のダイヤモンドとか、それがスピカであれはデネボラとか、そういう理科の範疇のことはだいたい分かるけれど、だからといって星は夜空を見上げる理由ではない。好き嫌いではない、きっと感情を超えた未知のところに理由があって、私はそこに触れることができない。

夜空はいつだって私の心を締め付ける。そのたびに、なぜか一層夜空に吸い込まれるようになって、私は出所のわからない底無しの悲しみを抱えながら、ただこの夜空の広さ深さに身を任せる他無いのだった。



昼の青天井から夜空に思いを馳せるチグハグさが自分でもおかしくなって、くすぐったい。


せ、まる、き、し、しか、まる

せ、まる、き、し、しか、まる


先生とクラスメートたちは何やらおまじないを唱えている。さしづめ安眠へのプレリュードといったところだろう。ありがたくただ乗りさせてもらおうと、静かに瞼を閉じた。私もまた、春の陽気の尊い犠牲になるのだ。


******


眼前を蒼い星が覆っている。

私はこの惑星をよく知っている。70億の命の在処。地球。


夢を見ているらしかった。そのことを知覚しているということは、これは明晰夢という奴だろう。動揺よりも先に、地球が想像していたよりもずっと壮大なスケールの代物であったことへの感動が来た。刷毛で塗ったような雲が、気流に乗って地球全体で連鎖して動いていく様は、さながら心臓の拍動のようである。先ほど地球のことをよく知っている、などと大層な言葉を吐いたが、そもそも私は地球を自らの目で見たことすらないではないか。本当に私は地球を“知っている”などと言ってよいのだろうか。あるいは何も知らないとすら言えるのではなかろうか?


……しかし、よくよく考えてみるとこれは夢なのだから、私が見ているこの地球も本来の地球ではないはずで、それでもなお私の中にある地球がここにあるとするならば、それはある意味で私は地球という概念を取り込めていると言えなくもないような……


……

……


袋小路に迷い込んでしまった私は結論を出すことを諦め、雲の流れを追うことにした。私も雲の一部のように、漂って、漂って、漂って。刷毛で擦られたようだった雲は、一つ所に固まって、また散って、固まって。


宇宙のリズムを感じる。



私の意識は、ゆっくりと



地球を飲みこむ。

太陽を飲みこむ。

冥王星を飲みこむ。



今や私は太陽系そのものであった。太陽の息吹が水星の岩肌を焦がしている。木星の磁場が隕石を放り投げている。タイタンのメタンの海が刺すように冷たい。太陽系で起こるすべての事象が私の中にあり、直接に感じられる。コーヒーに垂らしたミルクのように、宇宙の静謐を満たすエーテルに私の自我が融けて、混ざって、薄くなっていく。私は私であることを放棄して、銀河へと音もなく同化する。



アルファ・ケンタウリを飲みこむ。

シリウスを飲みこむ。

プロキオンを飲みこむ。



もう遥かに光速を超えた速さで、私の意識はこの天の川銀河に於いてより普遍的なものになっていく。銀河鉄道が私の境界面を垂直に通過した。



アケルナルを飲みこむ。

スピカを飲みこむ。

ベテルギウスを飲みこむ。



半径一千光年の私。


******


天の川の最果てを見ていた。地球などという小さい惑星のことも記憶の彼方へと追いやって、星屑の宝箱ごと天の川銀河を抱擁せんと膨らんだ私は、大きく歪曲歪曲歪曲歪曲歪んで全体が揺揺れた。



そこに、彼はいた。



彼が男か、女か、そもそも性別はあるのか、人なのか、生きているのか、私には何も分からなかったし分からないけれど、私の意識が接触したもう一つの意識の正体として、それを彼、と呼ぶ。大小の比較に意味があるかは分からないけれど、彼は私より余程大きく、アンドロメダ銀河に端を発しているらしかった。


存在自体を大きく揺さぶられた私の意識の膨張は止まった。彼が触れている。私もゆっくりと触れ返す。


私の意識と彼の意識は少しずつ混ざり合った。私の知らない記憶が流れ込む。私の記憶の全てが流れ出す。銀河鉄道は彼の意識に飛び移った。私の意識と彼の意識は、私たちの意識として、一つのものになった。


私はきっと、この世に現れた最初の時から彼のことを知っていた。求めていた。空を見ていたのではない、天の川の先の、アンドロメダの彼のことを見ていたに違いないのだ。私の生の至上命題であった彼との邂逅を、希薄になった私の自我全てが歓喜していた。銀河すべてが歓喜していた。


それから私たちの意識は、かつてない速さで拡大し、宇宙ごと飲みこんで、その先の白い光に包まれて───────。


******


目が覚めた。同時に、殴られたような頭痛と吐き気に襲われた私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私私



それは “私” の暴力だった。

こんなちっぽけな私に、退けても退けても“私”が溢れてくる。私は“私”の塊であり、それ以外の何物でもない。息もできないほどの濃度の“私”が私を形作っている。どこまでいっても私は“私”から逃れることはできない。


私が他でもない私であり続けるということは、今となってはこの上ない恐怖であり、絶望であった。


先ほどまで知っていたはずの宇宙の真理の全てを、私は失ってしまった。彼の記憶も残滓すら見つからないほど剥ぎ取られて、ただ今までの私がそこにいる。


割れそうな頭で、隣の銀河に存在するはずの彼のことを想った。もう彼とは二度と接触する逢うことはできないと直観していた。頬を涙が伝う。私の輪郭が私を締め上げて痛い。こんなどうしようもなく小さな地球の、どうしようもなく小さな私の中で、私は生きていく。

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天の川の果て。 延暦寺 @ennryakuzi

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