後編 奇行の真相

 坂の多い土地だ。みちるは坂上に住んでいたが、中学で新しくできた友だちの多くは坂下に住んでいる。中々の角度の坂を、自転車で滑り降りるのはスリルがあった。まるで真っ逆さまに落ちるみたいな感覚に酔いしれて、マンホールの蓋がわずかに外れていたのに気づけなかった。


 自転車のタイヤはそこに突っかかり、身体が空中で一回転した。そのままどう言った具合に着地したのか覚えていない。しかし、気づいたらみちるは湿った草の上に横たわっていた。身を起こして辺りを見渡すと、春まで通っていた小学校の『裏山』の頂上で間違いなかった。


 生きている、だが負傷しているようだ(身体中が軋むように痛む)。いつの間にか辺りは真っ暗になっていた。みちるの身体には水滴が幾つもついていて、雨が上がったばかりだということに気づけた。雨上がりの夜半は寒く、紺色の空は落ちてゆきそうに暗い。


 引きるがごとく足を持ち上げて、みちるは山を下っていた。深夜、緑の色は濃く生い茂っていて。暗闇の森は恐ろしかった。でもその中にいることに妙な安堵も覚える。自転車は見当たらない。初夏とはいえ夜はまだ寒く、月明かりのなかで自分の息が異様に熱く感じた。汗が酷い。


 黒い木々の合間に、薄く光る灯りがポツポツと見えた。蛍か? いやこの地域で蛍なんて聞いたこともない。下って行くと大きな池のほとりに辿り着く。森の池の周りは、そこだけ木が生えないのでぽっかりと空が見える。月の光が眩しくて、まるで光の舞台のようにも見えた。


 そうしてそこに立っていたのは、久住陽一だった。あの池のほとりに立って、まるであのとき見かけたシーンのままなのに驚いて、みちるは一度瞬きをした。久住はゆっくりと池の縁にしゃがみこむと、指の先端で水を掬って投げた。きらきらしたそれは、羽ばたくように散った。


 久住の外見は、ほっそりと背が伸びて、驚くほど大人っぽくなっていた。青みがかった灰色のTシャツを風にはためかせて、長めになった黒髪は妖しい色彩を放っている。きっともう誰にも虐められてはいないのだろう、背だってみちるより大きく思える。


 久住があのときのように両腕を動かす。そのとき、不思議なことが起きて、水はまるで硬いもののように煌めいた。それが無重力のように空中に次々と水滴を飛ばす。それをより舞い上がらせるように、久住は次々と水を掬い上げては上昇させる。


 見えた光は蛍ではなかった。その水滴であった。だんだんと上昇するそれらは、濃紺の星空には吸い込まれて、やがていくつもの星になっていった。「は」、と短く息を吐いて、みちるは目を細めた。「凄いなぁ、綺麗だなぁ」と、思わず笑い声を漏らした。


「ふふ、全く」


 最期(さいご)に笑えて良かった。みちるは山で目が覚めたときから、自分が『生と死の谷間の世界』にいることを何となく理解していた。怪我をした脚から血が止まらない。それは山を降り始めたときから、気づいていたことではあった。


 こんな風景は、後輩は、『まやかし』だ。水滴がきらきらと舞い上がるのは、自分の高揚した気持ちにとてもなぞらえるようだ。久住の様子を伺うと、瞳を閉じて両手を祈るように組んだ。唇が動く。みちるは後輩が何と言うのか気になって目を凝らす。


「どうか、みんな……たがじょうくん」

「え?」

「多賀城君」



「生きていて」



「え」



 え。



「え」



 声を出した瞬間に、久住が振り返った。中学生になってから初めて顔を合わす。新しい環境に忙しくて、正直彼のことは忘れていた。しかし向こうはそうでないことが目線で分かった。足下には緑、次に濃紺の空が来て、白塗りの壁が見えた。気づいたら世界がぐるりと回っていた。



* * *



 ピチョンピチョンと、水滴の音がする。ずっと眠っていたのだろうか。瞼の肉が張りついてしまって、開けるのが少し困難であった。血を流していたはずの脚が痛む。「う」っと身じろぐと、すぐ傍で誰かの気配がした。瞼の上を、生温い水を含んだ布きれが伝った。


 それのお陰で、目はすんなり開けることができるようになった。パシパシと瞬きすると、先程夜の森で出逢った人物が傍らに座っている。家族でも医者でも看護師でもない男の子が、一人でつき添っていることにみちるは驚かなかった。


「久住……」

「はい」


 小さく答えたのは、声変わりした後輩だった。きっと坂道で怪我をしたみちるを見つけたのは、彼なのだ。だらしなく着ている久住のTシャツが、赤黒く汚れているのですぐに理解できた。何だかむず痒くなって、みちるは目線を逸らせた。


「……夢にまで出てくるなよ……」


 しかも一人で。


 眉毛を下げて、頼りなく笑う表情は変わらない。起き上がろうとすると酷く脚が痛んだ。夢の中では歩けていたが、現実世界ではきっと無理であったろう。みちるはストンと、久住の奇行の理由が理解できた。


「あぁ、そうか」


 引き止めてくれたのだ。


「ありがとう」


 シーツから右手を伸ばして後輩の頭をそっと撫でると、久住は今までで一番嬉しそうに微笑んだ。


<了>

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森の中で、あの子に声をかけてはならない 森林公園 @kimizono_moribayashi

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