森の中で、あの子に声をかけてはならない

森林公園

前編 奇行の目撃

「あれ」


 長雨が続いて、それがやっと晴れてきた六月の終盤。六年生の多賀城たがじょうみちるは委員会の備品を運んでいた。その最中に、窓から顔見知りを見かけた。保健委員は当番制で、六年生が五年生を引き連れて校内の備品(トイレットペーパーや石鹸など)を配置している。


 今日みちるが伴っているのは、『あべ』という苗字しか知らない後輩だ(正直漢字も分からない)。子どもの癖に寡黙で勤勉。文句も言わない代わりに面白味に欠けた。どちらかと言うと今中庭をフラフラしている子供の方が、みちるは一緒にいて楽しいと思える。


 その五年生は校内でも有名な『変人』で、彼もまた保健委員だった。久住くずみ陽一よういちと言う。久住の家は新興宗教をやっていて、町内では少し、悪い方向で有名だった。みちるも実は近所に住んでいる。



* * *



 今から二年前、みちるが四年生のときに酷い『いじめ』を見たことがある。それは窓から校庭をぼんやり眺めていて、偶然目撃したのだった。折しも雨のあとの昼休みだ。季節は秋。一人の男の子が女子生徒たちに泥だんごを次々とぶつけられていた。


 色白の首元がべちゃりと汚れて、子どもは衝撃にわずかによろめいた。視覚の酷さに、みちるは思わずガタリと席を立つ。その見覚えのある色白の男の子は、同じ町内の久住であった。それまでにも何度か、彼が嫌がらせに遭っているということは、同級生に聞いて知ってはいた。


 でもこんな風に直球の陰惨な暴力を目撃したのは、初めてのことだった。家が『神様』なんぞやっていれば格好の標的であるのは分かる。でもいくらなんでもこれは、酷過ぎるではないか。思わず授業が始まるというのに、みちるは教室を飛び出して、玄関に向かって走り出していた。


 廊下で教員に呼び止められなかったのは、日頃の行いの良さとも言える。みちるは学級委員長だったし、町内会のグループでも四年生の代表だった。何か資料を取りに向かうようにでも見えたのかも知れない。


 女の子たちはトランスのような一種の興奮状態で、一人の子どもをターゲットにして、まるで自分たちが正義のように大笑いしていた。色白のふっくらした久住は、どんどんと土の色に汚れてゆく。手遅れのような有様に、みちるの走る速度が緩んだ。


 チャイムが鳴って女の子が散りぢりに校舎に戻るなか、泥だらけの少年が一人、鉄棒のところに佇んでいるのが見えた。「久住」と名前を呼んで、また一つ下の子供に駆け寄る足を速めた。「あ、多賀城君」と、久住も気づいて暢気に手など振って見せた。


 久住は自分の姿に頓着がないかのように、泥だらけの両手のひらをブラブラさせて茶色い雫を散らしている。まるで『うらめしや~』をするお化けみたいに手首だけ折って、みちるの顔を見てにんまり笑った。彼は虐められっ子ではあったが、常に上機嫌で、笑顔だった。


 それを見てみちるはため息を吐いた。酷い目に遭っても、笑っている姿を見るのは痛々しい。みちるは学年が違うので、こんな風に甲斐甲斐しくかまっても、立場が悪くなるような馬鹿馬鹿しいことにはならなかったけれど。


「あれ?」

「久住」

「多賀城君、どうしたの?」

「こっち来な」


 一つ下の子供の腕を取ると、保健室へと向かった。途中教員数名とすれ違ったが、一様に「またか」と苦笑するばかりで、みちるに代理を申し出る大人などいなかった。結局のところこうだ。大人は役には立たないのだ。


「ありがとう」


 急なお礼に、肩越しに振り返って見た久住は、ずっと健気に笑ったままである。みちるはまるで自分が凄く信頼されているような、久住の保護者のような、そんな錯覚に陥っていた。みちるには兄弟がいなかった、だから小学校最後の委員会で、久住と一緒になったときは嬉しく感じられたくらいだ。



* * *



 そんなわけでみちるは、久住のことを放っておけなく感じている。そんな彼が、中庭をフラフラと一人で歩いている。中庭は元より一・二年生の遊び場である。そこに五年生がいるのだ。何も抱えないで、澱みのない足取りで、中庭の隅へと向かっているようだった。


「あいつ、どこへ行くんだろう」


 みちるは不思議そうに、首だけそちらに向けたまま、器用に廊下を進んで行った。両手一杯に、学校中に配備するトイレットペーパーを抱えている。傍らに伴(ともな)った後輩の『あべ』も、何ごとかとそちらにを振り返ってから「あー……」と言う声とともに、ペーパーを一巻、その場に落とした。


「きっと中庭の端、校舎の隙間を通って『森』に行くんです」


 『あべ』が、よもや久住の行く先を知っているとは思わず、みちるは内心吃驚した。この後輩がこんな風に自分に話し掛けるのは稀だった。中庭の端は、未だ開発途中の『裏山』へ続いている。その内崩されて住宅街になる予定だ。


 子どもの数が減って来た昨今。新しいその住宅街で子連れが多く住めば、またこの小学校も賑やかになるかも知れない。でもみちるは、街中に突然存在するこの『裏山』が結構好きだった。そこを子供たちは『森』と呼んで、格好の遊び場にしていた。彼は声を潜めてこうつけ加える。


「そうして邪魔しちゃいけないんですよ」


 そう『あべ』はコソコソと、まるでもの凄い秘密を打ち明けるがごとく囁いてくる。みちるはふうんとまるで興味がないのを装いながら、校舎の隙間に消えて行く久住を見送る。トイレットペーパーを『あべ』と配り終えてしまうと、一人でそうっと様子を見に戻ったのだった。


 久住は学校の裏山に入ってすぐ、大きな池のほとりに一人でいた。みちるは樹の陰から後輩を見つめる。息を殺すみちるの気配に、久住は全く気づかないようであった。両手のひらを水面に向けて、下から掬い上げるみたいにして動かしている。


「しぃっ、しぃっ」


 何かを追い返すようであった。アメンボか、はたまたオニヤンマか。水辺の生きものは辺りに見当たらない。『何もいない』ってことの方が不自然なのに、そのときのみちるには、それに気づくこともできなかった。


「こっちに来ちゃ、まだ、駄目だよ~」


 久住の言葉に、目を凝らしても水面にはやはり何もいない。でもその空中を見つめて、久住はお得意の笑みを浮かべた。誇らし気というか、安心と言うか。立ち上がった久住の表情は、晴れやかなのだ。


 みちるには生憎、久住の目線の先には何も見えない。ただ、風が彼の背の方から水面に静かに吹きこんで、水面が幾度も撫でられたように波立っている。本当に『神様』がいるのかも知れない。みちるはそんなことをぼんやり考えた。それを見たのは数ヶ月前で、もう随分前のことみたいに思える。



* * *

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