(十一)
「おい、何をこそこそしておる」
不覚。善四郎に気を取られ、背後から人が迫っているのに気が付かなかった。この風体だ。わざわざ声をかけてくるなど、番所の者に決まっている。
そう思うが早いか、快尚は勢い良く地を蹴り、相手の顔も見ずに駆け出した。
「待て、くせもの!」
呼子の甲高い音が響き渡る。快尚はいくつもの路地を抜け、町を去ると、わき目も振らず山に向けて走った。繰り出してきている捕り手の数は、見当もつかない。ただ一つ分かっているのは、ここで自分が捕らえられては、間違いなく善四郎にも累が及ぶということであった。
快尚が街道を逸れ、暗い山中に身を投じても、追手は諦める素振りを見せなかった。後ろから、快尚を呼び止める叫び声が幾度となく飛んできた。もし相手が弓矢や鉄砲の類を持っていたら、早々に命を取られていただろう。
さすがに息が上がってきたが、自らに喝を入れ、あともう一歩、先へと踏み出した。山道で早駆けの鍛錬をしていた折の感覚が、四肢ばかりか五臓六腑の隅々にまで蘇ってくるようだった。
控えめな鳥のささやき、近くを流れる小川のせせらぎ、時折吹く風が揺らす木々のざわめき。初めに聴こえていたはずのあらゆる音は徐々に遠ざかり、
じきに、それも失せた。頭は空になり、自分自身が何者かも分からぬまま、ただ脚だけが前へと身体を運ぶ。やがて我に返ったときには、いつのまにか恐るべき長さの道のりを進んでいて、その間の疲れはまるでなかったかのように身が軽かった。
だが、周りの音とともに、これまでに倍する疲労と苦しみが快尚を襲った。もはや、鼻のみに頼っていては、呼吸が心もとない。口から大きく息を吸い込むと、その冷たさで喉に鋭い痛みが走った。口の中に溜まった痰は、血の味がした。
それだけではない。いつもは快く力を貸してくれるはずの山が、快尚に向かって牙を剥いた。
昨日の雨が乾いた土を泥に変え、潤った大地が生命の息吹をもたらしたのだろう。快尚は、絡み合って生い茂る枝々に阻まれ、思わぬ泥濘の深みにはまった。縦横無尽に地を這う木の根に躓き、びっしりと苔の生えた岩を踏み外して、嫌というほど宙に身を投げ出された。
十人分の身体を束ねても足りぬであろう太さの倒木を乗り越え損ね、頭から地に叩きつけられたとき、激痛のあまり気が遠くなった。仰向けに転がると、上下左右から気ままに突き出す枝葉の向こうに、青い空が垣間見える。
しかし、薄く開けた目のわずかばかりの隙間から流れ込むまばゆい光も、今まさに消えようとするがごとく明滅した。これ以上走り続けるのは無理なのではないかという邪念が、頭をもたげてきた。
額から噴き出す汗を、泥だらけの手で力なく拭う。その爪の先に、真っ黒な湿った土が詰まっているのが、肌で感じられた。初めは火照った身体から湯気が出ていたが、汗が引くにつれて、今度は寒さに蝕まれた。全身が急に冷え、無数の鳥肌が立つ。
ふと、若き志士の顔が浮かんだ。
「ああ、善四郎、私はお主に生きよと言った。その私がこのまま野垂れ死んでは、申し訳が立たぬか」
快尚の中に、再び四肢を動かすだけの力が蘇ってきた。その源は、矜持とも言えぬ、ただの意地である。いずれにせよ、再び進むことを決めた途端、快尚の身体は熱を帯び、その両脚は地を踏みしめられるまでになった。
もう一度、歩み始める。
次第に、木が疎らになる場所が増えてきた。その空隙を突いて林の中まで届いた日の光が地を照らす。快尚がいくつ目かも分からぬ坂を上り切ると、突如として両側の木々がなくなり、道が拓けた。
快尚は、高台の淵に立っていた。眼下には一筋の川が、蛇のようにうねりながら彼方に向かって延びている。その川面を、一艘の舟がゆったりと下っていった。舟には、白地の着物に身を包み、笠を被った男が座っている。快尚が目を凝らすと、男はわずかに口尻を上げ、こちらに微笑んだように見えた。
その刹那、快尚は込み上げる笑いを抑え切れなくなった。声は山肌へと吸い込まれていった後、やまびことなって、あるいは若者の耳に届いたかもしれない。
ひとしきり笑うと、快尚は、自身が追手から逃れている最中であったことを思い出した。おもむろに林を振り返る。先ほどまで背後にいたはずの男たちは影も形もなく、その騒々しい怒声の代わりに追ってきた冷たい風が、快尚の着物をなびかせた。
「私も、生きなければならぬな」
自分に言い聞かせるように、快尚はつぶやいた。もはや、肉薄してくる者はいない。疲労は極まり、満身創痍であったが、今すぐに駆け出したいという衝動が、快尚の心を占めていた。
懐かしむかのように川の流れゆく先を一瞥すると、快尚は再び、木々の間に姿を消した。
国脱け 才谷祐文 @eichan99418
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