第6章「終戦の日」

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 そういえば、エマの探し物って何だったんだろ。タイラーはルノード地区グナーブ広場で、これから記念式典に参加しようとする親子連れを見て、しばし自分の役割を忘れて思った。結局は失ったまま、見つけてあげることはなかった。

 グナーブ広場、いつも以上に人が集まっており、大勢の人が行き来している。

 タイラーは路地へ隠れるように場所を変えた。

 彼は腕時計に目をやると、広場で見知った人物と出会う。もう会うことはない、と思っていたが。

 国外の魔術師が一人で歩いていた。フェリッサである。

「あれれ? あなたも来ていたの」

 地図を片手に持った彼女は、ただの観光客に見えた。このままオルドランダ宮殿にでも行きそうな。タイラーは彼女の腕を取り、路地へ招く。

「ちょっとちょっと。フェリッサも。なんでいるの? 国に帰ったんじゃ?」

「気が変わったから。テルベラノに来た目的は、達成できてないし」

「その、目的って? まえに、ダメな気がするって言ってたよね」

「いいません」

「なんで?」

「いいたくないから」

「そう」

「それより、お礼は言っとくね。ありがと」

「えっ?」

「わたしのことは、内緒にしてくれているみたいで」

「ああ。言ってもね。すぐに国を出て行くものだと思ってたから」

 魔術師だからという理由で、騒ぎにしたくなかった。うえに報告すべきなのだろう。しかしながら、フェリッサがこの国で起きている出来事と関わりがあるとはタイラーは思えなかった。

 元気な明るい女の子。タナラ村とかにもいた。無関係であり、彼女は偶然そこにいるだけで。おそらく悪人ではない。

 ハンセンとの後も――あの町で別れたはずだった――『不審な音』と聞いて関心を持ったらしく村にまでついてきていた。

 報告すべき、だったか? 今からでも遅くはない。

「それにしても。人、多いね」フェリッサは広場のほうを見る。

「今日はね」

「行事があるんでしょ? ミックジックって人の記念日・・・って聞いた」

「終戦の日だよ。『ミックジック』っていうのは、当時のテルベラノの騎士団長。ミックジック・ニューオラン。彼が騎士団を率いて、サラ山を住処としている幻獣『天山竜』、『天山竜のセントビス侵攻』を食い止めた。今日がその記念式典」

「へえ。騎士団か。どうりで。詳しいんだね」

「たぶん、この国の人なら誰でも知ってると思うよ? 隣国でもたぶん」

「そうなんだ。私、あまり家から、出たことなかったから」

 タイラーは彼女が記念式典を知らないとしても、そこはおかしいとは感じなかった。

「テルベラノの首都って、普段はどうなの? 首都というだけあって、活気に溢れてる感じ? それとも、この広場とか、いつもはガラガラ?」

「普段も、うん、こんなもんだよ。集まってるのは確かだけど」

 グナーブ広場を歩く人たちを眺めていると、そこから反対側、路地の奥から大きな声が聞こえてくる。子供の声だった。

「タヌキさんだ」

「タヌキ?」フェリッサはそう言うと、首を軽く傾ける。

 タイラーも小動物を探した。悲鳴に近い音も交ざるなか、尻尾を揺らし、家屋を駆け上っていく姿があった。

「首都に、『タヌキ』」フェリッサは間を置く。「首都って言っても、案外たいしたことないのかも」

 隠れて祝いに来たのだとしたら。タヌキも迂闊だったのだろう。タイラーは思った。

「案内しようか?」

「ええ? なに? もしかして、私に気でもあるの?」

 内心では楽しんでいる。うっすらとしたわざとらしさ故に、彼は黙る。

「なにも言わないのは反応しづらいな。軽い冗談なのに。ここで何しているのか知らないけど、お仕事中なんでしょ? 悪いよ」

「あっ。でも、案内。それもいいか」フェリッサが(ここでも気が変わったのか)悩んでいると、「タヌキさん」と子供の声が聞こえてくる。ひどく寂しさのこもった声だった。その父親だろうか。男は子供の手を握り、指差す方向に一瞥を投げて、言葉でなだめている。母親が駆けてくる。近くの店で、買い物をしていたのだろう。

「父親は?」フェリッサは言った。

「両親とは、七歳の時から会ってない」

「そうなんだ」

 彼女は少しのあいだ彼を見詰めると、そのあとにじっくり考え事でもしているようで地図を上下に振る。そして、腕を止めた。

「ねえ。なんで魔術師会にいるの?」

「なんでって……。人助け?」

「ふうん。立派だね」

「そんなことは、ないと思う」

「腕はいまいちだけど」

 彼は言い返すことはできなかった。自分でも十分だとは欠片も思っていない。

 タイラーは一つ思い出した。

「あのさ、少しだけ、聞きたいことがあって」彼は小声になる。「ハンセンの杖、盗んだのフェリッサ?」

「……杖? なんで、わたしなの」

「だって、杖のことを知ってるのは、フェリッサぐらいだし。あのあと、いなかったから。村でまた会ったけど」

「私が、杖を持ってましたか?」

「持ってはなくても、隠すことはできるだろ?」

「ううん」

「もし持ってるなら、返してほしい」

「うん? じゃあ、なんで、騎士にわたしのこと言わないの? 騎士と仲が良いんでしょ」

「それは、『違う』と思ってるから」

「おやおやおやおやあ? もしかして、タイラー君? いけないなあ。やっぱり、わたしのこと。まったく、隠すことはできないか。いくら魅力的に見えても、私情を挟んではダメだぞ」

「そういうのではないんだけどな。それで、持ってるの?」

「持ってません」

 杖に興味があったのは知っている。だがそれが、わざわざ警察から奪う理由になるのかと言われると、そうはならないだろう。あの杖が彼女の持ち物だったとも考えられない。もしそうなら、彼女であれば、それは自分の物だとはっきり言う。

 すると広場から、路地に女性がやってくる。その女は入口で立ち止まって、再び歩き出していた。

「友達?」と女は声をかける。

 

 フェリッサとはしばらくしてそこで別れた。都合悪く魔術師会の魔法使いがやってきたからである。軽い気持ちで紹介できるなら、それでもいいが、しないほうが賢明だろう。

 路地に現れたのは魔術師キャロル、彼女は長い間グナーブ広場でタイラーを探していたようだった。今日は記念式典の日、警察だけではなく一部の魔術師も警戒にあたっている。

 怠けては困るし、仮に問題があったのなら(できることに限りはある。街なかで、魔法なんてまともには使えない)すみやかに対処しなくてはならなかった。

 キャロルは路地を離れたあと、十分ほど一言も話さなかった。タイラーは心の奥でフェリッサの正体が知られたのではないかと不安だった。

「邪魔だった?」キャロルは歩みを止めず、だしぬけに言う。

「邪魔?」

「友達、だったんだよね?」

「邪魔なんてそんな。旅先で出会った人が、この式典に来ていたというだけなので」

「そっか」

 深くは尋ねない。彼女にはまったく関心を持つ様子はなかった。

「タイラー、イヴァンを知らない?」

「イヴァン? いえ。でもトラベル通りにいるのでは?」

「いなかったから」

「それは」

 タイラーは考えた。真面目な人だ。特に理由もなく、場所を離れるとは思えない。

 彼が、案内を? それもどうなのだろう。

「それなら、リンウッドと一緒にいるのでは?」

「リンウッドは騎士団と一緒にいる。マヒューズの研究室。イヴァンを呼ぶ必要がわからない」

 トレバー・マヒューズ、騎士団の一員であり研究員である。

「マヒューズの」

「困ったな。こういう時、ポルカガでもいれば。犯罪組織が、現在潜伏している。だから、わざわざ集まった。わたしたちが。それなのに」

 キャロルはそう言うとすべての動作遅く目を閉じ、片手で口を覆う。抵抗していた。

「どうかしました?」タイラーは突然と彼女が吐くのではないかと心配する。

「いや。なんでもない」

 彼は屋台を見つけて、原因を知った。「甘いものが、苦手なんでしたっけ?」

 彼女は目を閉じたままこくりと頷く。

「匂いでも、駄目なんですか?」

「匂いはどうってことない。ただ……」

「少し休みます?」

「いや。平気だ。心配をかけた。いこう」

 魔術師キャロル、彼女はその魔法の腕前がどれだけのものであるのか測れないところがあった。タイラーは彼女の魔法を直で見たことはある。彼が見て感じたものでいえば、「強い」第一としてそれがあった。だが、ときどき今のように弱った部分を見る機会もあった。そのせいか、魔術師会の他の魔術師たちと比べると、彼は彼女にたいし魔法使い特有の怖さもあるなか親しみもあった。

 キャロルは、できるだけ人前で見せるのは避けている。目を閉じ、口を覆う。こういう場合は緊急の時だ。このあとに眠気が襲ってくる。一度食事を誘われた際に、似た出来事があってから、タイラーはそのように考えている。

 どうして、こうも、『急激に』というのか。弱弱しく見えてしまえるのはなぜだろう。

「見つからないな」

 キャロルと共に行動して、グナーブ広場付近に戻ってきた。イヴァンはトラベル通りにもいなければ、同じく警戒にあたっている警察にも、その姿を見られていないようだった。

「だめだ。もうすぐで、始まってしまう」彼女はガラスでできた竜の飾りに目をやる。店の看板や扉、通常はそこには星の飾りが街の象徴のように置かれている。

 タイラーは合間に、フェリッサに言われた言葉について考えていた。両親を探そうと考えたこともあったが。(イヴァンの行方も気になるが)聞いてみようかと決心する。

「キャロル。その、キャロルは、どうして魔術師会にいるんですか?」

「どしたの?」

「――なんでもないです。忘れてください」

 彼が言わなきゃよかったかと後悔していると、わずかな時間彼女は真剣な顔をする。

「行くとこなんてないし」

「行くとこ」

「それでは、ダメかな?」

「そうですね。俺もありません」

 タナラ村魔女事件から、帰る場所なんてものはなくなった。勿論、タイロンの家だけは残っている。

 その場には、家屋だけ・・・・があり。

 一人も戻ってくることなんてない。

 彼は、牢獄にいた頃の記憶がよみがえる。そして、キャロルも似た境遇なのだろうかと思った。彼女についてなにも知らない。

 普通の人間のように、生きていくことができなくなった。

「しょうがない。二人で、がんばろうか。イヴァンも後から来ると信じて」

 彼は疑問が解消されたわけではなかったが、大きく頷いて見せた。

 

「残念だねえ。間違いだ。ハズレ」

 人食い男ギブルは、首都セントビスの家屋の屋根で座りながらそう呟いた。周囲には知り合いがいるわけでもなく、特定の誰かに向けて言ったわけではない。

 妙齢の婦人がいる。(もう始まる頃か)ふと窓を開けに来た、詳しくはない者がその状況をひと目見たとしたらそう思うだろう。屋根に上っている理由などは考えないとする。

 先程まで、彼女は変装して、別の人間として演技をしていた。通りを、それから『別の存在』として、その正体を知られることなく優雅に歩いていたものだ。だから一仕事を終えて、くつろいでいる。

「ああ。お腹空いた」

 彼女は交わした会話からずっと思っていたことがあった。なんとなく調子が悪く、空腹だった。無性に誰かを襲いたい――そこまでの衝動はない。ただ、『一人ぐらい』、そういったそこはかとない気持ちが彼女にはあった。

 人の声がする。朝からずっとこの調子だ。

「ノーラン・ハンセンは捕まった。警告してやったのに。バカな男だ」

 彼女は独り言を続けた。それはまるで、遠く離れたものにでも聞かせるように。

 彼女はそうして力なく首を前に垂らす。

「杖を、上手く使えよ。有志諸君」

 

 

 テルベラノ王国首都セントビス。この日は「終戦の日」。

 今よりももっと昔、サラ山に住む天山竜が首都セントビスに攻撃を仕掛けた。当時、『テルベラノ王立騎士団』騎士団長ミックジック・ニューオランは、他の騎士と共に戦い、辛くも勝利した。諦めかけていたというテルベラノの王は、そのため大変喜んだ。

 多くの犠牲があった。それ故に、天山竜のセントビス侵攻の「終戦の日」が設けられた。

 幻獣『天山竜』は現在もサラ山に暮らしている。当時のサラ山のヌシは、あれからその姿を目撃されていない。深い眠りにでもついたように、非常に穏やかであった。言い伝えにもあるように山の天気のようだと、一人の老人がサラ山を眺めて口にした。

 その頃のテルベラノの王は否定したらしいが、天山竜のセントビス侵攻の原因は、「魔女」という話がある。

 針尾竜も関わっていたとか、いなかったとか。

 タイラーは今朝に新聞の見出しを眺めていると、気が付いたことがあった。首飾りの魔宝石の色が変わっている。「赤」がより濃くなっているように見えた。

 彼はグナーブ広場で、もう一度確かめようとは思わなかった。だが。

 小さな変化だった。そういう気がするという程度で。いつから、表情が変わったのか。

 最近までは、もう少し透明度があった。

「問題発生」

 その騒がしさ、キャロルの言葉で彼は顔を上げる。

 オルドランダ地区付近で複数の爆発があった。オルドランダ地区では、魔法らしきその気配がある。

 魔術師会は、それぞれ分かれて行動する。

 魔術師キャロルは爆発のあった現場へと向かう。タイラーもまたそうである。式典周辺は王立騎士団がいる。

 

 キャロルはタイラーと分かれて、「栄養剤」を服用した。

 騎士たちは気付いているだろうか、と彼女は思った。

 なぜなら、魔法の気配がある。

 

 犯罪組織は活動の動機として、魔術師会の解散を望んでいる。

 国境を越えた組織だった。たとえテルベラノ王国で、「魔術師会」という形として認められたとしても、それをよしとしない人たちがいる。王国内にも、口にしたり密かに不満を持つ者がいるように、世界、隣の国などでもそれを許せない者がいた。

 魔法使いは国から追い出せ。殺せ。

 過激にもなると、魔術師は即刻、死刑だそうだ。

 タナラの魔法使い、タイラーが首都セントビスに護送されたときにもそれは話題としてあった。評議会や街の声。将来起こりうる危険。このまま少年を生かしておくべきなのか。

 しかし、利用価値はある、そういう考えもあった。まことに勝手ながら。

 

 この日、彼らが持ち出したもののなかには「魔法の杖」があった。魔術師会の魔術師ノーラン・ハンセンが持っていた杖だ。運搬中、盗まれたものである。

 反魔法使いと唱えてきた者たちが。

 

 魔術師会の魔術師イヴァン・ロカイテは、頭巾を深く被ったまま、トラベル通りで警察や傭兵と協力して民間人を誘導していた。彼も宮殿近くで「魔法が使われている」と状況を把握している。優先すべきは民間人、そういった考えで行動していた。彼もまた、「宮殿には騎士団がいる」と判断していた。

 最初の爆発は、複数の場所で起きていた。そして災害は広がっている。一度だけでは終わっていない。落ち着いたかと思えば、どこか別の場所からも爆発音が聞こえていた。

 彼はトラベル通りを離れると、裏路地へ向かう。トラベル通りに、人が逃げていく。路地のほうからぞろぞろと人がやって来ていた。

 イヴァンは魔術師として、できることを理解していた。頭巾を脱ぐと、落ち着いて行動するよう民間人に呼びかけていく。抱きかかえて運ぶにも限度がある。

 裏路地を進み、そうして彼は、ここは危険だと呼びかけてもその場を去ろうとしない者たちと出会う。近寄り、彼らに話を聞くと。

「人がまだ残っているんだ」

 彼らが見詰めていたのは、火災が発生した家屋だった。

 建物内には、足の不自由な老婦人がいるらしい。

 警察は二人いた。その内の一人は、イヴァンのことを知っているようで。

 彼は言う。「お前、魔術師だろ。この火を、魔法でどうにかできないのか」

「中に人がいるんだろ? できるわけないだろ」

 『火の手はあっという間に燃え広がった。』そのようだった。そして、逃げ遅れた。

 彼は策を考える。火は消せない。それにしても、よく燃えている。これは魔法の影響があったりするのか? このようすだと、もう息をしていないのでは?

 すると、彼の隣を一人の魔術師が通り過ぎる。彼女は手元から魔法で一枚の大きな布を取り出すと、太陽の光にでも当てるようにそれを広げた。

 キャロルは燃え上がる家屋の前で一度立ち止まる。魔法で扉を破る。

 一分もしなかっただろう。彼女は老婦人を抱えた状態で出てくる。

「まだ息はある。あとは頼む。念のため、検査をして」

 被せていた布を取り、キャロルは残った者と一緒に避難するよう警察に指示した。

 彼女はその場を去ろうとする。

「イヴァン、次」

 路地を曲がり、誰もいないと考えた。キャロルは息を吐き頭を振ると、階段に腰掛ける。

 力には頼らないやり方をした。平気そうに見えても、体はきつかった。

 魔法で軽い火傷を治す。

 それを見て、「ようやるよ」とイヴァンは言う。

「イヴァン、あの子を」

 赤い色の服を着た女の子、子供がまだ残っていた。

 小さな手にはお菓子が握られていた。

 


 魔術師会の魔術師タイラー・マイエ・コーデンは、避難に専念する人たちを誘導していた。その結果、逃げ遅れた女性を避難所に送るため、現時点ではトラベル通りから離れた場所にいる。

 彼はルノード地区にある『水と雷の神殿』にやってきていた。避難所はほかにもある。ここを彼が選んだ理由は、距離を考えて近く一番安全と判断したからである。

 その三十代くらいの女性は、「あなたは命の恩人です。ありがとう」とタイラーに感謝の言葉を述べると、神殿内部に連れていかれる。なかには、先に逃げてきた人たちがいた。

 女は、安心していただろう。これでもう大丈夫だと。

 タイラーも現場に戻ろうとしていた。しかし、事態は急変する。

 水と雷の神殿が爆破された。爆発そのものは小規模ではあったが、建物の支えとなる個所を的確に狙われた。よって、神殿の壁、屋根であっただろう部分が、崩れ落ちるという状況が起こる。

 咄嗟に叫び声を上げる。上部からの爆音に咄嗟にしゃがむ。黙って何が起きたのだろうかと立ち尽くす。

 瓦礫は容赦なく、彼らに目掛けて降り注ぐ。落下物、地獄のようだと言えるのではないだろうか。神殿内部にいた彼らに考える暇などなかった。

 人が大勢いるなか、最後まで目を開いて、立ち尽くしたまま死を待つ人物もいた。しかしながら、彼にたちまち死が訪れることはない。

 地面と空気が揺れている。頭を守っていた女は、ゆっくり頭上を確認する。

 床からの高さ、およそ二百七十センチ。瓦礫が緩やかに落ちてくる。

 その時、誰もが神殿内部でなにが起きているのか理解できなかった。次第に近付いてくる瓦礫をさけるように皆が姿勢を低くする。

 すると、彼らは気付く。

 水と雷の神殿中心近くで、少年が一人立っているではないか。

 その少年が、タイラーである。

 彼は両腕をまっすぐ上に向けて、天井を見詰めていた。

 彼は瓦礫が落ちる前に魔法の壁を作り出し、最終的にそれで瓦礫を支えた。そして、周囲の壁が崩れないように、建物全体を魔法で――可能な範囲――その形を維持している。

 小さくても立派な魔法使い。だが、優雅さなんてものはそこにはない。荒業とも言える。

 瓦礫は手加減をするはずがなく、彼を苦しめる。

 魔法の壁が、崩れる事態は起きなかった。彼との距離を縮めるだけで、あとはそこから、かなりでかい『何か』が転がる音がするぐらいなものである。

 タイラーは必死に抗った。少しでも力を抜くと、それか押し返すつもりでもないと、押し潰される。

 とうとう魔法の壁が、彼の伸ばした両腕の先、手に触れるところまでくる。

 止まらない。彼は思った。重すぎる。

 透明な壁は丈夫ではあった。だが神殿の屋根部分を支えるには、あまりにも非力だった。

「と、止まったのか?」

 誰かがそう言った。押し迫る山は、たしかに動きをやめた。その頃というのが、タイラーが魔法だけではなく、体全体を使って持ち堪えたときだった。

 足や腕に力を入れ押し返そうとする姿は、魔女の子であり魔法使いであると思うと、たいそう不格好ともいえた。

 泣き声。神様と願う声。少しでも位置が下がると、いくつもの悲鳴が響く。

 彼は少しだけ顔を上げる。

 すると、二人組の男が姿勢を低くして近付いてくる。ここに、逃げてきた人たちである。

「大丈夫そう、ではないな」

 男はタイラーを見てそう言うと、続けた。

「どのくらい持ちそうだ?」

 彼は首を小さく横に振る。

「そうか」

 もう一人若い男が早足でやってくる。俯いていた男は知って、体の向きを変えた。

「どうだ。どこかあったか。子供だけでも外に出せそうか?」

「抜け穴はあるにはあるが、小さい子でも難しいだろう。外に、人がいればいいんだが。ひとり、穴の前で助けを呼ばせているが反応はない」

「だれも、いないのか?」

「で、どうなんだ。その子は。魔術師はなんだって」

「長くはもちそうにない」

「やっぱ難しいか」

「……頼む」タイラーはどうにかそれを口にした。

「なんだ?」

「一人でもいい。持ち堪えるから。耐えるから。一人でも、外に」

「ああ。わかった。急ぐぞ」

「おう」

 彼らは出口を探しに行く。

 泣き声が、ふたたび聞こえてきた。

 大人たちが話し合っている。

 一緒に出口を探す者。神様と願い続ける者。赤ん坊をあやす者。

 魔法の壁が不穏な様子を見せると、多くが一斉に頭上へと視線を送る。反射的に声を出したりと反応を示す。

 タイラーは思った。

 一人でも外に。何を言ってんだ?

 彼は無力さを感じて、言葉を思い出していた。

 『なんで魔術師会にいるの?』

 他に行く場所なんてない。それは、そうだけど。

 でも、ここにいる人たちは――。

 彼は困憊しきる体に鞭を打つ。

 死んでしまったら、会うこともできない。待っている人がいて。みんな帰る場所があるはずだ。やりたいことがあるはずなんだ。

 助けを求めていて、そんなひとたちの力になりたい。思いを、守ってあげたい。

 一人だってここに見逃していい命なんてない。

 そのために、俺はやってきたんだろ。

 彼は体勢を立て直して、魔法の壁を持ち上げた。空にある雲のように手元から離れるまではいかないとしても、正念場といえよう局面で持ち直した。

 タイラーは、意地でも手を放そうとは思わない。

 すると、狭くたいした明かりもなかった空間に、一つの光が現れる。

 彼は気付いた。あれほど苦しかったものが次第に軽くなっていく。

 魔法の壁は、じわじわと浮かび上がった。

 この状況、人の力ではない、魔術師がいるのはわかりきっている。

 天井に、片手を伸ばす女がいた。ポルカガだった。彼女は珍しくその頭巾を外している。

 

 

「今日は、やけに騒がしいな」

 テルベラノ軍大将アラン・イグネ・スティンはジベート防壁内部を歩きながら、そんなことを口にした。

 それを聞いて、兵士は戸惑うばかりである。男は報告をして、すぐさま持ち場に戻るつもりだった。

「終戦の日だからと。誰かが招待したのかな」

 先頭には、魔術師会会長リンウッド・ヴァン・スティンがいる。そういった会話というのは、本来、彼とするものではないだろうか。

「その一頭の竜は、針尾竜と確認が取れました。ジベートリド地区、上空を飛び、まっすぐ宮殿へと向かっています」

「わかった。下がりなさい」

 アランは危機的状況が訪れようとしていても、顔色を変えるようすはなかった。彼はその調子で前を歩く者に問いかける。

「随分と長く穏やかだったパラノマ山の竜が、今更何しに来たと思う?」

「わからないな」

 リンウッドはやや俯いてから、そう返事をした。

 この二人が、ジベート防壁内部にいる理由は、謎の竜が首都セントビスに接近しているという報告を受けたからである。

 短く説明すると、二人の手で、宮殿への接近を阻止しようということだった。

 兵器で撃退もいいが、体の大きな竜相手ともなると、それだと町に被害が及ぶ。侵入されているのだから、悠長なことを言っている場合ではない。しかし、スティン将軍は部下に攻撃の命令は出さなかった。

 侵入者が町に火を吹いているわけでもない。

「どうだ。見えるかな」

「正面にいる。この距離でもよく見える」

 ジベート防壁屋上、アランとリンウッド、それと一人、槍を持った兵士が連れてこられた。

 信じられないことではあった。そうそうこの光景は見られるものではない。町の上空に『竜』がいる。

 アランも「どれどれ」と歩み出る。彼は目視して、そっと言った。

「図体は大きいが、思ったより若いな」

 竜殺しの異名は伊達じゃない。

 その一頭の竜も、こちらの存在に気付いたようだった。詰め寄るという行為をやめる。

「ほう」とアランはとうてい驚いているとは思えない声を出す。

 針尾竜が口を開けた。力をためて、魔法を使おうとしている。狙いは、町でもなく、宮殿でもなく。

 ジベート防壁にいる彼らに向けてだった。

 天使のはしごのようでもあるその魔法は、『複雑な模様のかたまり』、いかにも重量感のある豪快な攻撃である。

 直撃すれば、町なら当然破壊されるだろうし、この防壁も危うい。

 しかし、リンウッドが到達前に魔法の壁を広げた。彼はいとも簡単に針尾竜の魔法を防いでしまう。

「帰っていくか」

 アランは呟く。魔法の残痕が漂っている。

 防壁の一部が凍り付いている。壁で防いだといっても、完璧に消し去ったのではない。

 針尾竜は進行をやめたようで背を向けて飛び立っていく。

 アランは息子に目をやった。彼が左腕を抑えている。

 リンウッドの左腕が失われようとしていた。

 アランは傍にいた兵士から槍を受け取ると、逃げようとする竜に向かって力強く投げ飛ばした。

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鬼火 タナラの魔法使い 塚葉アオ @tk-09

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