第5章「魔法の杖」
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憂鬱な夜、魔術師ノーラン・ハンセンは町外れにある砦の執務室で、自身でも些細なことだとわかってはいても、苛立ちを抑えられないでいた。彼はどうしても誰かにこの感情をぶちまけてしまいたい気分だった。
歳を取ってから、いっそうにひどくなっているように思える。感情の整理ができなくなっている。今年で六九となる彼は、まだまだ自分は若いという思いはあっても、ふとした時そんな風に感じていた。
周囲の目からは、ノーラン・ハンセンという男は「よぼよぼのじいさん」ではなく、いつの日でも立派な杖を持とうとしっかりとした足腰、若く見えてはいた。人によっては、年々、若くなってないか、という気でさえ与えた。
このときハンセンの前には、隣国で自ら『人食い男』と名乗る者がいた。しかし、その見た目は、どう見ようと妙齢の婦人である。
「子供、ちゃあんと届けてきたよんと。安心しな。すこしも、怪しまれることなくね」
「そんなことを」ハンセンは片手にある杖を強く握りしめる。「そんなことを、お前は伝えに来たのか」
「なに、機嫌悪そうじゃん。ああ、やだやだ。熱いんだか寒いんだか。もし日常で失敗ばかりで、オレに当たっているというなら勘弁してくれよ」
「おかげで、町に住む奴ら、何人からか、疑いの目が向けられている。このわたしが。子供を攫ったのではないかとな。知らなかったのか。つい最近、使用人が死んだばかりだったのだぞ」
「オレに言われても」女は長い舌を出したかと思うと、右手の中指と人差し指でその表面を撫でる。そして手の先をわずかに見た。「見込みのある、ガキが欲しいそうだからな」
「なにが怪しまれることなくだ。ギブル、やる前に、すこしでも伝えていれば」
「うぜえな」
女はそう言うと、横目で睨む。見た目にそぐわない表情をする。
「お前は、何も知らない。魔女がやったことにでもすればいいだろ。ぐだぐだと、それで何か変わるのか」
ハンセンは、抑えようとしていた闘争心が溢れだしている。ここは執務室だ。だとしても、相手を吹き飛ばすぐらいやってもいいのではないかと彼は考えた。
「そう、イライラすんなよ」
女はまずいかと考え、気をなだめるように振る舞う。彼女も老人と喧嘩をしに来たわけではない。直接、教えておかないといけない問題があった。
「あと、ハンセン」ギブルは間を置いて言う。「気を付けるようにとお達しだ。首都のほうでも、どうやら不審に思った者がいるようだぞ」
「首都でか。騎士か?」
「数日もしないうちに、魔術師が調べにくる」
「魔術師? 魔術師が? いや、いったいだれだ?」
「ええっと、待ってくれ。聞いたはずだ。名前はなんだっけなあ。タバラ、じゃなくて。た、タイラーとか言ったか?」
「タイラー……。ああ、イヴァンが面倒を見てたとかいった。赤森の」
彼が少しずつ思い出していると、執務室の扉からそれは人間であろう合図が出される。
若い女の声だ。
「ハンセン様? いかがなさいましたか?」
「エリスか? なんでもない。もう遅い。早く寝なさい」
彼は扉越しであろうと、その使用人についても顔などあれこれと色濃く脳裏をよぎる。
『森の奥から不審な音がする。』
タイラーが列車を利用し、それからすこしばかり大きめな町を出て、街道を長く歩いて、村を目指している理由がそれだった。事情を聞いてなかには、「不審な音がする」というだけで、よくもまあ、王国が飼っている数も少ない魔術師が呑気に国内を歩いているものだな、と考えるだろう。
ほかに困っている人だっている。あまりにも漠然としている。
だが、これも大事な仕事であった。人の多い町よりも、今こういった場所が優先された。
彼らが助けを求めるということは、自分たちではどうにもできない「事態」なのである。
そしてタイラーには、これまでの死食鬼のような仕事とは異なる頼みを一人の人物から受けていた。やる気が出るかと言われると、彼は微妙な気持ちでいた。
列車に乗って移動開始する前日のことだ。テルベラノ王立騎士団グレン・ホープから連絡があった。急に警察に呼び止められ、彼が『話をしたい』と言っているようで。
「頼み?」
「ああ、ちょっとばかし、気になることがあってな」
「なに?」
「次向かう村の途中で、町があるだろ。小さいほうだ。そこにな、ひとり魔術師がいる。可能な範囲でいい。その男を探ってくれないか?」
男の名は、ノーラン・ハンセン。魔術師会の魔法使い。タイラーは名前は知っていた。会ったことはおそらくない。町外れの砦で、暮らしているようだ。
その町で、現在子供が失踪している。
詳しく聞けば、ハンセンの砦で働いている使用人の一人も失踪している。
魔女の仕業という話もあれば、魔術師の仕業という話があるらしく。失踪した使用人が攫ったとも噂がされている。
グレンは、ハンセンという男に目をつけているようだった。
魔術師会の人間なんだろ? 根拠はあるのか?
ない。念のため。だから、それとなく調べてくれるだけでいい。使用人も一人失踪している、というのも気になる。
わかった。それとなくだな。
モーリスも睨んでる。嬉しいことにな、簡単に許可してくれた。
タイラーは次向かう村の近くに国に仕える魔術師がいるなら、『森の奥から不審な音がする。』、その男に任せばいいのではないかと考えた。それをグレンに伝えた。ところが、言い含められる。
んなもん。それはお前の仕事なんだよ。
いつも感じることは、騎士とは思えない。
寄り道としてタイラーが訪れた町は、話で聞いているとおり、七歳となったばかりの男の子の行方がわからない状態のようだった。子供だけで遊んでいる、なんて姿を窺える雰囲気ではない。
憂鬱になる。エマのことを思い出す。彼は到着して早々、砦には向かわなかった。やや空腹だったのもそうで、騒ぎに関して興味そのものはあった。
リンゴを一個買っていると、一人でいるのはやめなと言われる。
「怪しいと感じているのか?」
「それはな。ハンセン様の使用人が急に姿を消して、今度は子供がいなくなったんだ。みんな、好き勝手言ってるよ」
「ハンセンという人は、長く町を守ってくれていたんだろ?」
「まあな」
「じゃあ、なんで」
「それは」
「なにかあるのか?」
「あのな。ハンセン様、たしかに町を守っていた。だが、まあ『気に入らない』ってのも、人によってはあんだよ。たとえばそう、特に金とかな」
「かね?」
「ハンセン様が来てから、暮らしがきつくなったと感じる人もいるんだ」
「魔術師会からは、金銭を要求することはないぞ?」
「そうなのか?」
「ああ。そのはずだ」
「坊主の勘違いじゃないか?」
「そんなはずは。そういうことも、あるのかな?」
「ともかく、他にもあってだ。ハンセン様の砦で働いている使用人の話になるんだが、失踪した人を含めてその数は五人、全員この町から出稼ぎに行った女たちなんだ」
「それが?」
「あくまで聞いた話じゃあ、五人とも『魔法をかけられた』んじゃないかって」
「それ、詳しく聞いてもいい?」割り込んできたのは赤毛の女である。
「出稼ぎって言っても、女たちははじめのうちはしょっちゅう町には帰っていたんだ。ハンセン様が、暗くなる前には自分の家に帰りなさいとか言ってたとかで。夜は、魔法の研究がしたいんだとか。だが、それが、いつの日からか、女たちは全員町に帰ってこなくなった。みんなが『帰りたくない』と、五人がそろって言っているらしい。ハンセン様の傍にいたいんだとか。いや脅しじゃない、魔法で操られたんじゃないかって、耳の聞こえが悪い妻が働いているという男は、その頃からおかしいと疑っていたもんだ」
使用人と言っても、食事の準備をするぐらいなもんで、ハンセン様は多くを求めない方。掃除はしなくていい。それよりか、いいと言ったものぐらいしか触れてはいけないらしく。
「その人たちに、他に変わったようすは?」タイラーは問う。
「様子が変。変わったことはそのぐらいなもんだ。まっ、今にして言うなら、どいつも若い女ばっかだな。年長でも三十とか、そんなもんだろ」
「使用人を探していたのは、いつぐらいからなんだ?」
「四年前、か?」
「四年まえ」
「坊主は、どう思う? 他所から来たんだろ。やっぱ怪しいと思うか?」
タイラーが黙っていると、赤毛の女が先に口を開く。
「たぶん、その女の人たち、魔法はかけられていないと思う」
「ほう。なぜだ?」
「だって、魔法使いでもないのに、ほとんど耐性のない人に魔法をかけても、死んでしまうから。人を操る魔法はあるにはあるけど、聞いた感じだと、それではない感じがする」
「まるで知ってるような口ぶりだな」
「知ってるから。たぶんその女の人たちの身に起こっているのは、中毒症状だと思う」
「中毒症状って。それって、たしか。魔法使いの傍にいてもなるもんなのか?」
「魔法使いといればなるわけじゃない。あったとしても軽くて、魅力的に感じたり、急に相手が怖くなったりと、精神が不安定になる程度。目には見えない。その女の人たちの場合、長時間大量の魔力に触れているんだとおもう。近いものでいえば、森の湖とか川、池とか。山や森の特定の場所で起きてしまうような。おとぎ話とかにもあるでしょ? 綺麗な湖にいたら、人の声が聞こえてきたって。周りには、
怪我の治りが早くなる。怪我を負った動物たちが、時に体を休ませているのはそういう理由からである。あるいは自ら死を望んでいるか。そう言われていたりするが、それについては定かではない。
立ち話を終えたあと、タイラーは予定通り町外れの砦に向かうことにした。杖を持った魔術師についてはいろいろと聞いた。残すは、自分の目で確かめるしかない。
すると、赤毛の女が背後から駆けてくる。
「ねえ。私もついていっていい?」
「さっきの」
「砦に行くんでしょ?」
「そうだけど。でも、なんで?」
「ええっと、ほらっ、新しい使用人として希望をしていたんだけど、さっきの話を聞いて不安になってきちゃったから、なんて。下調べ、みたいな?」
なぜ、砦に行くとわかったのだろうか。それにこの人は、前に。
「いい?」
「ついてくるだけなら、いいけど」
「ふっ、やさしいね。では、そういうことで。名前は?」
女の名はフェリッサといった。タイラーは彼女にいくつか疑問を抱いていたが、道中探ろうとはしなかった。自分でも笑われても不思議ではないことを考えている。まさに幻想だ。
その赤い髪の毛。どことなくエマに似ている。
でも、フェリッサはその容姿からして自分よりも二つほど年齢が上に見えた。
もし、彼女が『エマ』だとするなら、タイラーと呼んでくれるだろう。
町外れの砦に到着して、なんの合図もなしに目の前に現れたのは一人の老人だった。魔術師ノーラン・ハンセン、杖を片手に彼はあらかじめ少年が来ることを知っていたようでにこやかに迎え入れる。前途有望な若い魔法使い。
「そちらのお嬢さんは?」
さすがにハンセンもタナラの魔法使いは知っていても、彼女のことまではわからなかった。
タイラーはそのとき適当に答えた。出会ったばかり、ついてきた人と言うわけにはいかない。
ハンセンは客間に通した。そのあいだ、お互いがおちつくまで、「噂は聞いているぞ」といった単なるお喋りが行われる。目当ての話をするようになったのは、時間で考えればとても長く感じた。
使用人とは、三人ほど見かけた。お仕着せはこれといって特徴はない。
ハンセンに失踪について尋ねると、彼も町の人と同じ反応をする。
「わたしも、困っている。フランがいなくなって」
フランセル・ロルドフェリオン。失踪後目撃されており、彼女が子供を攫ったという話がある。そして、ドラの森に住む魔女がまた子供が欲しくなったのではないかという。それから、魔術師――。
タイラーは彼の話を聞いても、一つ一つの振る舞いも、とくべつおかしなところは見当たらないと思う。
「今宵はこちらで?」ハンセンは町に戻るのかと尋ねた。
「いいえ。到着を待っている人がいるので。今日急に尋ねてきたのは、ただ通り過ぎるのも悪いかとおもって」
最後にタイラーは確認しておこうと決心して問いかける。
「その、ロルドフェリオンさんだけではなく、他の使用人についても気になることがあります」
使用人は女性だけではなかった。少しと見かけたが、かなり体の大きな男が一人いた。
「それは、なにかな?」
「使用人。仕事から、しばらく距離を取るべきでは? もともとそうだったと聞きました。研究の影響でしょうか。中毒症状があるように見えます」
「そうかな? そんな風には、ちっとも見えんが」
「えっ? しかし」
「もっと勉強をするがよろしい。わたしは、そうは思わん」
「そうですか」
砦で働いている使用人に、魔法がかけられているようすはいっさいなかった。タイラーは、男が一人、女が二人ほどしか見ることは叶わなかったが、実際にその目で見てそのように判断した。
中毒――。あのあとハンセンの元を離れ、彼は街道を歩く。
それとなく調べてくれるだけでいいと言われたが、想像よりもきなくさい。
町に戻ると、大人しかったフェリッサが口を開く。
「あの人、隠し事が多そうだね」
「うん。思ったより」
「働いている使用人はやっぱり中毒で、そして地下のほうからは魔法の力を感じる。下で、いかがわしい実験でもしてる感じかな」
「うん? そうだね。そう。砦の下から」
タイラーも気付いていた。相手が、それを隠していたのかはわからない。それでも、注意が向く時点で難しいものではなかった。
「わかってたんだ」フェリッサは言う。
「フェリッサもよくわかったね」
「えっ? ああ、わたしもちょっとはね。さっすが、魔術師会」
彼は小首を傾ける。「子供の失踪と、使用人の失踪が、関係しているとは思えないんだ。でも、あの下には秘密がある。あと、杖も」
「杖のこと。気付いてたんだ」
「普通の杖ではないのはわかる。でもそれが、何か関係があるのかと言われると、そうは思えない。あと、使用人を帰さないのは、なんでだろ」
「過去には、奥方がいたらしいよ」
日も暮れて、雑音が減っていく。風のように少女がやってくる。
彼女は彼らに用事がある。だが、なかなか言おうとはしない。
「あの、魔術師会の人なの?」勇気を出していた。
「そうだけど。なに?」
「友達がいなくなって。そして、探してて。怒られて」
「……うん」
「前に、大きな男の人が近くの森を歩いてるのを見たんだ」
「大きな男の人?」
「町の人じゃない」
「それを、教えに来てくれたの?」
フェリッサがやさしく問うと、少女は頷く。
「わかった。もう遅いから、おうちに帰りなさい」
家々の明かりが目立つ。衣服が揺れる。この町に来て初めて見る光景だった。
「変わった子だねえ。相手が魔術師だと知っても、自分から近付くなんて」
フェリッサが印象を語っていると、少女がこちらを見る。
「やっぱ送っていこうか」と彼女は言う。
もしかして潜入する気なの? 潜入するなら、気を付けるべき。タイラーは少女と別れたあと、もう少し踏み込んで調べてみようかと考えていた。ハンセンという男、地下、使用人、失踪。きっと魔女は関係ない。彼は気持ちをその場で口にしたわけではない。フェリッサは察したようだった。
「何か隠しているのは間違いないんだから。見つかってしまえば、たとえ同じ仲間だとしても攻撃されるよ。最悪殺されるかも」
そのぐらい彼もわかっていた。使用人について尋ねたときのハンセンの表情を見れば、誰にでもわかる。思い出すだけでも、牢獄でもなかった、経験したことはない類の寒気がする。でも。
グレンには、どう伝えよう?
夜中となり、タイラーは計画を実行に移す。本来の予定では、町を通り過ぎ村へと急ぐつもりだった。仕事が待っている。それが変更された。
魔術師会の問題に、フェリッサを巻き込むわけにはいかなかった。率直に言うと、彼女は無関係の人間である。
彼は相手にどう説明しようかと悩んだ。フェリッサは、ついてくるのではないか。地下に興味がある。彼は彼女に聞いたわけではない。これまでの彼女を見て、そんなふうに思えた。
しかしながら、タイラーの予想とは異なり、思いのほか状況は進んでいく。フェリッサはついていくつもりはないらしい。「行くんだ。そっか。がんばって」彼女は一瞬ではあったが、表情を曇らせていた。
そこで、彼女とは別れる。
いつもどおりだった。
なにも変わらない。
一人で、森のなかを歩くのと同じだ。
それにしても、こういうこともあるんだな。
地下では何が行われている? 攫った子供がいるのではないか。タイラーは砦に忍び込んで、(昼頃とは大違いだ)気配のない敷地を歩いていると、どれだけ可能性の低いものであろうといくつかの考えが頭をよぎる。
ハンセンは起きているだろうか? 油断はできない。
地下への入口は、とくに隠されているわけではなかった。発見は容易で、用心深く――錠前でもいい――なにかしらの仕組みがあるわけでもない。侵入者のために罠を仕掛けているようでもなかった。
石の階段を慎重に下りていくと、予想よりもだいぶ大きめの広間が見えてくる。天井も高い。
寒いな。やはり魔法の実験が行われている。階段を下りようとしていた頃から、肌がぴりぴりする。これは、魔術師だから?
タイラーは本棚の置かれた小部屋を見つけると、真っ先に室内にあるテーブルへと近寄った。魔力石がある。一つどころではない。
彼はそっと真紅色の魔宝石(首飾り)をその場に取り出すと、わずかに眺めて、もとあったように魔法で収めた。
このような場所に、子供がいるような感じではない。
彼が小部屋を離れて広間に戻ると、男の声が聞こえてくる。そのとおり、魔術師だ。
「感心しないな。こそこそと詮索するというのは。礼儀というものを教わらなかったのか」
「ハンセン。憩いの場であろう魔術師会に、盾突いていいのか。そんなことをしていたら、国の敵と見なされるぞ」
少し前まで響くこともなかった、杖の先が床を叩いている音がする。彼は高みに立っており、数歩ほどそこから移動する。
「お前こそどうなんだ。それは騎士の真似事か」
「俺の話はいま関係ない」
「そのまま素直に去っていればいいものを……」
「力の使い方を誤ったな」
「なにも知らぬ子供が、理解できるはずがない」
弁明をするつもりはないらしい。ハンセンは杖を突き出す。魔法が使用され、人の頭よりも大きい氷塊が撃ち飛ばされた。
タイラーは足取りも軽やかに避ける。その速さ、少しでも迷いを見せていたら命中していただろう。彼は攻撃を受け止めてもよかったが、「必要はない」と定めて行動しなかった。
「魔法使いと戦うのは初めてか?」
ハンセンは先手を打っていた。少年の足元には知らないうちに歪な冷気が漂っている。
魔法で、足は氷漬けとなっていた。これでは身動きはできない。
タイラーは驚き慌てたりはしなかった。もう一度、氷塊が飛んで来ようと蜘蛛の巣でも払うように腕を振り、いかにも魔術師らしい対応をとる。
「そっちこそ」
タイラーは散らばった氷の破片のなか、向こうにいる男を見詰めて言った。
戦闘の最中、タイラーは氷漬けとなった足元をひとまずどうにかするしかないと熟考する。これでは、戦っているというのに近付くことでさえままならない。
苦境を打ち破る。それは意外にも難しいものではなかった。ハンセンの相手をしながらでは厳しいようにも思えたが、理由はわからない、強固であり「溶けない氷」が次第に緩みだしている。
タイラーは砕いた。やられっぱなしというわけにはいかない。彼は一瞬でいいから相手の動きを止めようと考える。
すると、直感が働く。背後だ。
タイラーは振り向いた。しかし、それは遅すぎた。後ろには男がいた。タイラーは知ったと同時に――大きな黒い影――「かたいもの」が顔面を叩いたと認識する。
彼は勢いに負けて吹き飛ばされた。広間の壁にぶち当たると、そこから息を吸う。砂埃が舞っている。
「イッタ」
目を開いて、立ち上がる。呑気なことをしている場合ではない。
視界の悪いなか、タイラーは両腕を上げて頭を守ろうとする。
男だろう。頭上から、大きな両腕が振り下ろされていた。
受け止めてみたはものの。
「こいつ……。どこから」
突然と背後から現れたのは、あの使用人の男だった。近くで見れば見るほど、恵まれた体をしている。背丈は、二百二十センチはある。
「つらそうだな」
ハンセンは見易い場所へと位置を移動していた。けっして高みから下りるつもりはないらしく、まさに観戦している。
タイラーには、声だけが耳によく届いた。
「選ばしてやろう。そのまま押し潰されるのがいいか。氷漬けがいいか」
少年はどっちがいいかなど考える余裕なんてものはなかった。相手は死ねと言っている。体重なのか。この使用人は、本当に人間なのか? バカみたいな力だった。
なんで、平気でいられるんだ。タイラーは体に張り合えるだけの力を入れ、唸る。使用人の男の両腕を押し退けて、相手の腹に目掛けて右腕を伸ばす。
男は魔法で反対側の壁に吹き飛ばされた。
「氷漬けだな」
ハンセンは杖を軽く突き出した。最後まで逆らう少年を、足元から凍てつかせようとしていた。
部屋中、冷気に包まれていく。しかし、事態は思わぬ方向へと動き出す。
ノーラン・ハンセンの杖が、彼の手元から弾き飛ばされた。
落ちて転がる音は虚しく。
彼から殺しの機会を奪ったのはフェリッサである。
ハンセンは懐から銃を取り出すが、それも無駄な行為であった。フェリッサは恐れず、自信に満ち溢れた態度で言う。
「死にたくはないでしょ? もう、あなたに勝ち目はない」
「貴様も、魔術師だったのか」
銃も、彼の手から滑り落ちる。
「魔術師だったんだな」
事態が収束して、タイラーはずっと疑問であり、関心のあった事柄に触れた。赤毛の女、フェリッサは自分と同じで魔女から特別な『力』を授かっている。
あの後、ハンセンは拘束した。魔法の杖と彼と使用人の男は、警察に引き渡した。あとは、テルベラノ王立騎士団が相応の措置をとるだろう。
砦にいた使用人の女たちは町に戻った。地下で騒ぎが起きていた頃といえば、フェリッサに行動の自由を奪われていたようで、彼女たちが地下にやってくるという状況にはならなかった。
中毒の症状はしばらく続く。そこは町の人たちで助け合うしかない。
後遺症が残ることもあるので、何かあったら騎士団に相談するようタイラーは伝えた。
魔術師会の魔術師ノーラン・ハンセンは、本物の魔法使いではなかった。魔法書ではなく、彼の力はすべて杖のおかげであり、杖を持たない彼にそれらしい能力はない。
警察に引き渡す前に、赤毛の女フェリッサは姿を消した。そのはずが、町外れの街道で彼女はまたどういうわけか彼の前に現れた。
「見えてるものがすべてではないってこと」
ふっと笑う。「気付いていたんじゃないの」と彼女は続けて言う。
「そんな気はしていた」
「へえ。それで、よかったの?」
「なにが?」
「あの人、魔術師会の人だったんでしょ? よかったの?」
「それは、うん。まあ、町に来る前は、本当は調べるだけのつもりだったんだ。気が変わったというか」
子供の居場所を知ることができると思っていた。だが、ハンセンは答えなかった。知らないのだから、答えることはできないと。そして、失踪した使用人の居場所は。
「あとは騎士に任せる」
「ふうん。それにしても、あなたの魔法って、なんというか力任せで、ぜんぜんなってないね」
「そう? 筋がいいって、言われたことだってあって」
「誰? そんなこと言ってるの? そんなんだと、自分も満足に守れないよ」
護送時に、使用人の男は急死する。
謎は謎のままに。見えてるものがすべてではない。
いかにも不思議な魔法の杖は、首都セントビスへと運ばれる。
ところが、運搬中、何者かの手によって盗まれてしまう。
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