エピローグ 夢の中の非日常に関する考察

 白い雲海を眼下に見据えながら、ボーイング787は太平洋上を航行している。最近の飛行機は大分静かになったなと一人感動する。


 もう必要なくなった永野有紗名義での学生証やパスポート、カラーコンタクトなどを捨てるため、一つの袋に放り込む。永野有紗という名前は、対象の名前をもじっただけの意味のない文字列ではあったが、今はそう呼ばれれば振り返ってしまうほどには馴染んでいる。この名前のおかげで自然に対象とも接触できたし、結局は役に立たなかったが、都築優斗が長野有朱に宛てたラブレターを手に入れることができたので、それほど悪手ではなかったのかもしれない。

 しかし、今までは生まれ持った容姿のおかげで得したことのほうが多かったけど、こと今回みたいな対象を監視しなければならないケースに限っては、目立ちすぎることによる動きづらさが勝ってしまって失敗だった。今後同じようなことがあれば、その都度国柄に合わせた庶民的な顔にすることも検討してみよう。なに、この顔は三次元モデルとして既に保存済みだ。若干の名残惜しさはあるが、向こうに行ってから戻せば良い。それまでは人生における準備期間にすぎないのだから。

 マサチューセッツへと帰る飛行機のファーストクラスの座席で、私は今回の試験に関する考察を始める。


 結局、長野有朱をオリミーティリに移送できなかったのは何が原因だったのだろうか。最後にドラゴンを学校の屋上で倒し、完全にオリミーティリから抜け出してしまった場面を見て失敗を悟ったけど、その時点ではもう手遅れだったような気がする。

 長野有朱が日常に満足していたから?

 違う、と私は頭の中で否定する。彼女は決して現実を自分が輝ける場所だと認識していなかった。彼女はいつも自ら孤独を選んでいた。そのようなキャラクタの大半が、自分は他者にとって必要とされていないという思い込みから来るものだ。

 長野有朱が異世界に満足していなかった?

 これも違うだろう。分かりやすい目的に見目麗しい異性まで用意してやったのだ。彼女の脳波反応における自傷関連電位も興奮の値を示していたはずだ。少なくとも、日常よりは楽しそうであった。

 あるいは、もしかしたら、彼女の周りで以前遂行した任務が関係しているのか?

 彼女は、つまり長野有里朱はそんなことにはすぐに興味を失い、ただその風化した一場面がもたらした先鋭さが無自覚な憧憬へと形を変えていくタイプだと推測していたのに。自殺がもつ退廃的な思想は伝播すると今まで考えてきたのだけど、今回のケースでは死を目の当たりにした恐怖が勝ってしまったのかもしれない。もしそうだとしたら、計画は大きく後退することになる。私は手提げ鞄から手帳を取り出し、自殺がもたらす周囲の人への影響は? と書き込む。帰ったら、統計を調べなければならない。

 アイマスクを着けて、重厚な背もたれ体を預け、ため息をつく。

 まあ、今回は千々和希子のときと比較して時間が短かった。あれ以上続けてしまっては千々石希子のときから進歩がないし、それに、私もそんなに時間をかけてられない。長野有朱のエラーケースもまた、一つのサンプルとして報告するしかない。


 私はアイマスクが作り出した人工的な暗闇の中で、オリミーティリ ― つまり、最初の次元の脆弱性について考える。オリミーティリはまだ未完成だが、拡張性は十分に残している。だけど、ラスボスとして設定したはずの魔王まで千々石希子は予想以上の速度で辿り着いてしまったし、彼女はもうすでにオリミーティリに飽き始めている可能性がある。

 移送した人々を、少なくとも平均寿命を超えるくらいまで満足させ続けることは、私たちの責務だ。取り返しのつかない選択肢をつきつけた以上、その責任を取らなければならない。少し予定よりは早いが、新たなる次元を用意し始めようか。私はオリミーティリの知見を元に、そのために必要なリソースを頭の中で試算する。また研究室を一部屋潰してシミュレーションのコンピュータに充てないといけないのか。そのためにまた人員を拡張しないといけないかもしれない。私たちの考えに手放しで賛同する優秀な頭脳を持った人物となると限られてくる。私はそれら手間を考えて、ややげんなりする。

 しかし、人類史がどのような道筋を辿ろうとも、いずれ全人類が異世界へと移送されることになるだろう。誰もが自分の理想を実現できる、夢の世界へ。

 まだ実験段階で大きなアクションを取るわけにはいかないため、移送方法を自殺という不確実な手段に頼るしかないが、いずれ世界的に認められこの計画は加速するだろう。

 使命を全うするまでこの世界に留まっていなければならないことを、歯痒く感じた。





 八月も中旬に差し掛かったのに、これからが夏本番と言わんばかりに太陽は熱を振りまいて、自転車をゆっくりと漕いだだけなのに汗が噴き出てくる。

 私は希子の家の前に自転車を止めて、敷地内に入る。同じ中学区ではあれど、私の住む新興住宅街とは違って、閑静な農地に作られたその家は広い庭付きの平屋で、少し気後れする。これは私と希子の問題、あるいは私の自己満足なので止めたけど、葉月や楓にも付いてきてもらったほうがよかったかもしれない。敷石が点々と続く庭を通って、勇気を出してインターホンを押す。

「はーい」というよそ行きの声が受話器から聞こえて、しばらくしてガチャリと玄関のドアが開き、希子の母親が玄関先に姿を現す。肌は白く、痩せぎすだけど、力強い眉に気の強さを感じる。たしかに、希子に似ている。

「えーと、有朱ちゃん?」

「はい。そうです」

「いらっしゃい。さあ、上がって」

「いいんですか? お邪魔します」

 千々石宅の立派な玄関を上がり、和室に通される。我が家のリビングくらいの大きさの和室には、床の間と仏壇がある。仏壇の前には笑っている希子の写真が飾ってある。お盆が近いからか、菓子折りも置いてあって、持ってきた方が良かったかなと少し心配になる。私は座布団に座って待っていると、千々石さんが麦茶を持って、私の前に置いた。

「ありがとうございます。急に連絡してしまって、すみません」

「いえいえ。希子の友達が来てくれるなんて、初めてのことだから、きっと希子も喜んでいると思うわ」

「そう… ですね。そうだといいですね」

 希子の顔を思い浮かべて、そうですかねぇと言いそうになって、すんでのところで回避する。少し気まずくなって、私は麦茶に口を付けた。

「希子とは、バドミントンの… ダブルスのペアだったかしら」

「はい。希子には大変お世話になりました」

「希子も有朱ちゃんに追いつかないとって練習頑張ってたからねぇ。きっといいライバルだったんじゃないかしら」

「ええ。そりゃあ、もう」

 愛想笑いしながら答える。

「一応、お仏壇があるけど手を合わせていくかしら」

「あ、はい。作法があまり分からないですが…」

「そんなの適当でいいわよ。ちょっと待ってね」

 そう言って千々石さんは仏壇の扉を開ける。中は綺麗に掃除してあって塵一つない。私は仏壇の前の座布団に正座して、一回チーンと綺麗な音色の鈴を鳴らして、手を合わせる。

 希子は元気でやっているだろうか。きっと希子なら、もう魔王くらい軽く捻っちゃってるんじゃないだろうか。そんなことをしばらく考えた後、立ち上がる。

「それじゃあ、お墓まで案内しようかしら」

 和室の片隅で見守っていた千々石さんに声を掛けられる。

「はい。お願いします」

「と言っても、すごい近いんだけどね」


 そう言われて案内されたお墓は、家を出てすぐ裏の小高い場所で、たしかにものすごい近かった。その中でもとりわけ目立つ大きな墓石に千々石家之墓と書かれている。その墓石は隅々までピカピカに磨かれていて、左右の花立にはまだ活けられて間がないであろう、綺麗な花が刺さっている。

「それじゃあ、私はこれで、家に戻るわ。今日は来てくれてありがとうね。これからも、もし来たかったら勝手に来てお参りしてくれると嬉しいわ」

「はい。こちらこそ、ありがとうございました」

 千々石さんは早々に家へと戻っていった。私は希子のお墓に向き直り、持ってきた線香に火をつけて香炉に立てて、さっきと同じように手を合わせる。

「希子、私はあのあと演劇部に入って、夏休みは週に二、三回くらい学校に行ってます。全然まだまだ下っ端で、もしかしたら才能なんてこれっぽっちもないかもしれないけど、とりあえず、続けてみるつもり。また葉月や楓と一緒に来るから」

 そこにはいない希子に向かって語り掛ける。


(がんばれ)


 あの少し冷めたような声で、希子がそう言ったような気がした。希子なら、もしかしたらテレポートして来るんじゃないか。そう思って周りを見回すけど、田んぼが広がっているばかりで誰もいない。

「希子!!」

 思わず叫んだ名前は、蝉の声にかき消されてオリミーティリまで届かない。私の頬を一筋の涙が伝った。

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夢の中の非日常に関する考察 本田余暇 @honda_yoka

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