第二十話 私が守らないと
【7月22日(水):現実世界】
保健室で聞こえたのは、聞き覚えのある咆哮だった。昨晩、私たちが倒したドラゴン。たしかにそれと同じ声だった。
私は保健室から飛び出して、廊下から窓の外を見る。いつもお弁当を食べているベンチが雨風に曝されて寂しそうにしている。そこから視線を上げていくと、新校舎の屋上にドラゴンがいた。やっぱり翼をだらんともたげていて、空を飛べはしないようだ。急いでドラゴンのいる屋上へと向かう。屋上に出る扉の鍵はいつも開いていたはず。
新校舎と旧校舎をつなぐピロティーは冠水していた。私はそこを通ることを諦めて、やきもきしながら階段で二階へ向かう。意気込んでいた気持ちも遠回りをさせられている間に少し萎んでしまって、一人で戦えるのか不安になってくる。こんなときにダリンがいてくれたら… さっきお別れを言ったばかりなのに、もうダリンのことが恋しくなってしまう。それでも、葉月や楓の顔を思い出すと、行かなければいけないという気持ちが強くなる。制服のポケットに手を入れて、スイカがいることを確認する。多分、大丈夫。
急いで渡り廊下を抜けて新校舎に移動し、また階段を上がろうとしたとき、下りてくる誰かとぶつかってしまった。私は勢いがついていたのでびくともしなかったけど、不意にぶつかられた相手は大きく後ずさり、階段につまずいて下から二段目にちょうど座る格好になる。「ごめんなさい」と言いながらその人物を見た時、私は目を疑った。
ダリンだ。たしかに、あのダリン・ルトストレームが、階段に座っていた。ピンチだと思って駆けつけてくれたのかもしれない。私の目から涙がこぼれそうになるけど、今はそんな場合じゃない。ぐっとこらえて、
「ダリン! 来て!」
私はダリンの手を取る。
「ダ… 俺のこと!?」
ダリンは顔を真っ赤にして要領を得ない。
「ここの屋上にドラゴンが来てるの。ほら、声が聞こえるでしょう」
私は混乱するダリンの手を無理やり引っ張って、階段を上っていく。そういえば、ダリンに何か違和感が合ったような気がする。何かが足りないよな… あ、そうだ。ダリンが槍を持っていなかった。
「武器は!?」
「えぇ… 持ってないけど」
そういえば、私もロングソードを持っていない。まあ、最近の戦闘ではほとんど出番がなかったし、問題ないだろう。だけど、ダリンが槍を持っていないのは大問題だ。私は階段の踊り場の隅に置いてあるロッカーを開いて、ほうきを一本取り出してダリンに渡す。こんなのでも、ないよりはましだろう。そうして私はまたダリンの手を引いて、階段をのぼる。
四階のその更に上に上がる階段を上がって、屋上へと出る扉に手をかける。案の定、鍵はかかっていなかった。扉を開けた途端に、一瞬でずぶ濡れになるほどの暴風雨に混じって、耳をつんざくような叫び声が鼓膜を刺激する。あのドラゴンが最後の力を振り絞るように四本の足で体を支えて、悲痛な雄叫びを上げている。ダリンは渋っていたけど、ついに観念したように屋上に出る。もうお互いの声は聞こえなかったけど、私たちは随分と多くの戦闘を経験してきたんだ。連携は取れる。
ダリンが前に出て、ドラゴンの目の前で仁王立ちになる。ドラゴンは唸り声を上げて威嚇するけど、飛びかかろうとはしない。それほどまでに重症を負っているのか、あるいは自分に致命傷を負わせたダリンを警戒しているのか。
あのときとは違って、今は私の魔法を遮る障害は存在しない。今楽にしてあげるから。
「ライトニング!」
スイカが上空に魔法陣を展開する。この台風の中、雲を集める魔法も電圧をかける魔法も必要ない。行程を端折ったライトニングは、唱えた瞬間に稲妻を発生させた。目の前に閃光が走り、何も見えなくなる。落雷のすさまじい音とともに、立っている屋上のコンクリートが揺れる。
今度こそ、本当にやっつけたはず。さっきまで虚勢を張っていた頭はがくりとうなだれ、やがてその肉体は淡く光るエーテルの粒子へと変化して、雨とともに流れていく。
ドラゴンを、倒せたんだ。学校を、友達を守れたという喜びが実感となって私の心を満たしていく。喜びを分かち合おうとダリンを探すけど、いつの間にかダリンはいなくなっていた。そして、ポケットの中のスイカもどこにもいない。代わりに、見覚えのある男子生徒が佇んでいる。
「何してんの?」
私が尋ねると、
「さぁ?」と男子生徒は不思議そうな顔で答えた。
雨に打たれた私の体はどんどん冷えていって、クチュンと小さなくしゃみが出る。そのとき、ガチャリと扉が閉まる音がした。私は鍵が締められたんじゃないかと焦って、扉を確かめると、無事開いていてほっとする。きっとダリンと入れ違いになった男子生徒が扉を開けた音だろう。扉を開けて屋内に入って一息つく。
ドラゴンを倒すために仕方なかったとはいえ、ずぶ濡れになってしまった。どうしようかと困っていると、男子生徒に、
「四階に演劇部の部室があって、タオルとか貸せるけど来る?」
と誘われたので、素直に頷く。
「ところで、あなたの名前は?」
私が尋ねると、男子生徒は落胆したようにがっくりと肩を落として、か細い答えが返ってくる。
「都築…」
どこかで聞いたことがある名前だけど、思い出すことができない。まあ、いいや。今度こそ覚えておこう。
廊下を濡らしながらお互いに無言でその部室まで歩いて、中に入る。演劇で使うのであろう大道具や小道具が所狭しと置いてあって、気になってジロジロと見回していると、タオルを取り出した男子生徒が一枚を私に手渡す。私はありがとうとお礼を言って、全身を拭いた。
「このタオル、洗って返せばいい?」
「いや、拭き終わったら返してほしい。備品だから」
「そう。ところで、この道具とかって手作り?」
私はほんの興味本位で、雑然とした小道具の山を指さして質問する。
「あぁ、うん。そうだよ」
「へぇ、すごいね」
戦隊モノみたいな仮面から、妙に大きな黒板消し、現実の地球ではない地球儀など色々なものを眺めていると、
「興味があるなら、演劇部に入る?」
そう言った都築は、自分のセリフに驚いたようにハッとして、
「いや、下心があるわけじゃなくて… 人数が少なくて、ちょっと困ってるからさ。裏方でも歓迎するよ」
そう謎の言い訳をする。
演劇部か。私の頭の中に演劇部に入るという選択肢がまったく存在していなかったので、降って湧いたその可能性に戸惑って、考え込んでしまう。でも、楽しそうかもしれない。そんなことを思っていると、廊下を通るスリッパ足音が聞こえてきて、演劇部の前で止まった。
「まだ残ってるのかー。速く帰れよー」
この不機嫌そうなだみ声は、生活指導の小倉の声だ。授業中にスマホを使ったりして校則に違反すると、30分以上の高圧的な説教に加えて大量の反省文を書かされるともっぱらの噂だ、こんなところまで見回りにくるものなんだろうか。そういえば、屋上の鍵は開いていたけど、台風の日は普通は閉めるだろう。そして、屋上から続く水滴はこの部室まで続いている。ということは…
「やばい! 逃げないと! 都築くんも!」
私はそう言って都築を急かして、二人で急いで部室を出る。屋上とは反対側の階段を使って下りようとした時、何を言っているか分からない、汚い怒声が廊下に反響した。
それから保健室に戻ると葉月は起きていた。
「有朱! どこ行ってたの? めっちゃ濡れてない?」
「あぁ、ちょっと外に落とし物をしちゃって…」
「体調は大丈夫? 熱とかない?」
「大丈夫… クチュン」
「大丈夫じゃないじゃん。今電車動いてなくてうちの親を電話で呼んだから、それで一緒に帰ろう」
「うん… ありがと」
しばらく保健室のベッドで横になって、葉月のお母さんが到着したのでありがたく車に乗せてもらう。渋滞で結構止まってしまったけど、葉月ととりとめもないことを話しているうちにすぐに家の前に着いたので、お礼を言って車を降りる。
家の中に入ると、カレーの美味しそうな匂いがしたけど食欲は湧いてこない。
「おかえり。電車動いてた?」
「それが動いてなくて、葉月のお母さんに送ってもらった」
「あら。あとでお礼言わないと。夜ご飯は? 食べれるかしら」
「いや、いいや。体調が少し悪くてもう寝ようかな」
「あら、そう。お大事に」
私は足だけ洗って、寝間着に着替えて布団に潜り込む。
ドラゴンを倒したせいか、今日は久しぶりにぐっすりと眠れそうな気がした。
【7月28日(火):現実世界】
学校の屋上でドラゴンを倒した日から、すっかりオリミーティリに行くことはなくなって、体調も戻って普通の女子高生として生活している。永野有紗が急に転校していなくなって、私の靴箱に紙ごみが入れられているということもなくなった。
今思い返すと、あの経験はなんだったのだろうかと不思議に思う。一緒に戦った三人のことや、あの世界で会った人たちのこと、そして希子のことを考えると懐かしさがこみあげてきて、私の選択によってはもう少し、違う未来が待ち受けていたんじゃないかと惜しくなってしまう。だから、できるだけオリミーティリのことは考えないようにするために、意識的に忙しく過ごそうと、色々なスケジュールを入れている。最近は部活にも馴染んできたし、楓のジムにも行ってみたしで忙しいことが多くて、あまり思い出す暇もなくなってきた。それでも夜、寝る前の布団の中だけは、希子やダリンに会いたくなってしまうけど。
あの台風が来た次の日は風邪をひいて休んだけど、次に登校した日に私は演劇部の扉をノックして、その場で入部を決めた。15人弱の部員はほとんどが女子で、ゆるゆるとした雰囲気が心地よかったのもあるし、都築に対する申し訳なさも少しある。都築はあの後屋上にいたことがバレて、生徒指導部に呼ばれて反省文を書かされるはめになったけど、私のことは口外しなかったようだ。しかし、どうしてそんなところにいたのかということは結局誰にも分からなかった。そこに関しては、本人も「さぁ」と不思議そうな顔をしている。
今日は終業式で、明日から夏休みだ。演劇部も文化祭や演劇大会の地区予選に向けて活動を本格化させる。今はまだ右も左も分からなくて、教わったボイストレーニングくらいしかできていないけど、もしかしたら才能が開花してスーパールーキーとして大抜擢されたり、あるいは脚本に挑戦するのも一興かもしれない。夢の中であれだけ刺激的な経験をしたのだから、面白いものが書けてしまうかもしれない。今のところ、演劇部を辞めそうな気配はない。
そうそう。夏休みといえば、葉月や楓と遊ぶ約束をしていたけど、結局どこに行くかはまだ決まっていなかった。一か月以上ある夏休みを前にしてどこへでも行ける気がして、候補を絞り込むことができなかったのが原因だ。このままぐだぐだして夏休みが終わってしまったら悲しすぎるので、今日あたりにでも決めておかないと。
私は無造作なミディアムカットの髪にさっと櫛を通し、洗顔だけして、「行ってきまーす」とお母さんに声を掛けて家を出る。気分的にはもう夏休みで、るんるんで道を歩く。駅に行くまでの途中、道端から蝉の声に混じってスイカの鳴き声が聞こえたような気がして、草むらを少しかきわけて地面を覗く。しかし、そこにスイカの姿は見えず、一匹のアマガエルがこっちを見ている。左手を差し出すと、警戒心を見せずに私の手の上によじ登ってきて、ぬめっとした冷たい感触がする。私は連れて行こうか一瞬迷ってから、そのアマガエルを右手でつまんで元の場所に戻した。
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