にじゅうななわめ。
「じゃあ、またな、ハナ!」
バシバシと花の背中を叩いて、西谷くんは図書室を出て行った。
来たときと同じようにスパーン! と、勢いよくドアを閉める音がした。
九重さんと付き合えたことがよほど嬉しいのだろう。
花の背中を叩くときにしろ、ドアを閉めるときにしろ、完全に力加減を忘れている。
ヒリヒリする背中をさすって花は苦笑いした。
――そっちの話も今度、ゆっくり聞かせろよ。
西谷くんが出て行く直前に言った言葉。
あれは羽住くんが図書室にいると気が付いていて言ったのだろうか。
西谷くんのことだ。
多分、羽住くんが図書室に潜んでいることには気がついてはいない。たまたまだろう。
遠のく賑やかな足音に苦笑いしていると――。
「こっちも連絡がありました」
背の高い本棚の影から顔をのぞかせて、羽住くんが手にしたスマホを揺らした。
「真隅さんにもよろしく伝えてくれ、とのことです」
羽住くんが見せてくれた画面には九重さんのメッセージが表示されていた。
最後の一文だけ、ちょっと口調が固くて笑ってしまった。
照れ隠しに眉間にしわを寄せながら文字を打っている九重さんの姿がありありと目に浮かぶ。
「……よかった」
「そうですね、よかったですね。人の話を思い切りぶった切ってくれましたけど」
本棚に背を預け、拗ねたようにそっぽを向く羽住くんを見上げて花は首をすくめた。
話を遮ったのは花ではないけれど、内心、ちょっとほっとしていた。
「告白されている最中に他の男に抱き締められるとか、真隅さんもなかなかいい度胸してますよね」
「あれは飼い犬に抱きつくのと同じ感覚だと思うんだけど」
羽住くんの低い声に身構えながらもぼそりと言い返す。
何の話ですか、と首を傾げてから羽住くんは額を押さえて深々とため息をついた。
「前言撤回です。家族や妹や、飼い犬感覚でも抱き締めるのはなしです。よくわかりました」
花自身が言ったこととはいえ、飼い犬感覚というのはちょっとひどい表現だ。
でも、このみに抱きつかれたときに近い感覚なのは確かだ。
西谷くんに対する感情は友情とか、そういう類のもの。
だから抱き締められたことよりも、バシバシと叩かれた背中の痛さの方が残るのだ。
それなら――。
「羽住くんに抱きしめられた、ら……?」
ふと漏れた言葉に花は慌てて口を押さえた。
聞こえてしまっただろうか――。
そろそろと上目遣いにようすをうかがうと、羽住くんは目を大きく見開いて花を見つめていた。
反射的に目を伏せると、くしゃりと髪を撫でられた。
少し乱暴な撫で方に心臓が跳ねた。
「試してみましょうか」
いいともダメとも言う前に背中に腕をまわされ、羽住くんに抱き締められていた。
「……っ」
よろめいた拍子にガラス戸に背中が当たった。
前にも後ろにも逃げられず足に力も入らなくて、花はずるりと床にしゃがみこんだ。
カーテンの影に隠れるようにしゃがみこんだ花を追いかけるように羽住くんもしゃがみこんだ。
花の肩を引き寄せたかと思うと、もう一度、ぎゅっと抱き締めた。
自分よりも高い体温。
見た目は細いのに、ふれてみると思っていたよりも太くて骨張った腕。
耳元で聞こえる小さな呼吸音。
それが羽住くんのものだと意識した途端、気が遠くなってきた。
どうしたらいいかわからない。心臓が痛い。落ち着かない。
でも、逃げ出したいとは思わなかった。
できるなら、ずっと――。
羽住くんの肩に額を押しつけて確かめる。
自分に問いかけて、念を押して。
花は一つ、深呼吸した。
ようやく答えが出た。
「羽住くんが自分と魔法使いを重ねてたみたいに、多分、きっと、私も自分と人魚姫を重ねてたんだ。……絵本の最後、人魚姫は微笑んで王子さまとお姫さまを祝福してた。だから、羽住くんと九重さんが付き合うことになったら、笑って祝福するって答えた」
羽住くんはしばらく考えて、あぁ……と、呟いた。
人魚姫の絵本の最後の一ページを思い浮かべたのだろう。
人魚姫が海の泡となって消えたあと。
そのことを知らないはずの王子さまとお姫さまが泣きながら抱き合っているシーン。
そこには人魚姫の姿も描かれていて、抱き合う二人の額に祝福のキスを落としている。
大切な人も命すらも失ったというのに、人魚姫は穏やかで見惚れるくらいきれいな微笑みを浮かべていた。
人魚姫は泣いたりせずに微笑むのだ。
「でも、私も人魚姫なんかじゃなかったみたい」
羽住くんと九重さんが付き合うことになったら、きっと泣いてしまう。
人魚姫のように微笑んで祝福することはできそうにない。
だって――。
「私は……羽住くんが好き、みたい」
なんとか声を絞り出した。
羽住くんの計画通り、この一週間ちょっとのあいだだろうか。
図書室で本の話をするのが当たり前になっていった、この一年間ちょっとのあいだだろうか。
それとも、入学式のあの日――。
タバコを吸っていた先輩たちに〝本ににおいがつくから〟と羽住くんが注意するのを聞いたあの日。
この図書室で初めて羽住くんを見かけたあの日だろうか。
いつ、どうして好きになったのかはわからない。
それでも、羽住くんのことが好きなのだと、やっとわかった。
どうしてだろう。手が震えた。羽住くんの目も顔も見ることができない。
花は震える手で羽住くんのYシャツの背中の部分をぎゅっと掴んだ。
本当は一瞬だったのかもしれない。
でも、心臓が掴まれたみたいに苦しくて、すごく、すごく長い時間に感じられた。
「……よかった」
深く息を吐いたあと、ぽつりと羽住くんがつぶやいた。
羽住くんの心底、ほっとしたような声に花はゆっくりと顔をあげた。
でも――。
「抱きしめられただけじゃ、わからない。西谷くんともキスして、比較してみないと……なんて言い出したらどうしようかと思いました」
続けて言われた言葉に、花は羽住くんを白い目で見た。
「それ、冗談? 本気?」
「冗談半分、本気半分です」
どれだけ疎いと思われているか、よくわかった。
でも、まぁ、文句も反論もできないのだけれど。
「……と、いうことは俺と真隅さんは両想いということでいいんですよね」
羽住くんに目をのぞきこまれて花は思わずうつむいた。
改まって言われると気恥ずかしい。花はうつむいたまま、小さく頷いた。
「なら、真隅さんの彼氏にしてもらえるとも考えていいということですよね」
すると、花の腰にまわされていた羽住くんの腕に、ぎゅっと力がこもった。
「つまりは正式に妬いて、あれこれ問いただしてもいいということですよね」
そういうものなのだろうか。
首を傾げると――。
「そういうものなんですよ、真隅さん。そういうものだと思っておいてください」
羽住くんがにっこりと微笑んで言った。
また、さらりと心を読んでいる。
でも、花が文句を言うよりも先に――。
「どうして、あそこまで西谷くんと仲良くなったんですか。経緯を聞かせてください。下の名前で呼ばれてましたよね。あれもどういうことでしょう」
矢継ぎ早に質問が飛んできた。
答えるよりも先に次の質問が飛んできて、口を挟む暇がない。
「さっきの耳打ちも、何を言っていたのか教えてもらいましょうか。……て、いうかちょいちょい距離が近いんですよ。西谷くんも西谷くんですが、真隅さんも真隅さんです。お互い、同い年の異性だという自覚が……!」
挙げ句に説教が始まってしまった。
苦笑いしていると、ぽつり……と花の頬に水滴が落ちてきた。
相変わらず雨の音は聞こえているけれど、ここは室内だ。
雨粒が落ちてくるわけがない。
また羽住くんが泣き出してしまったのだろうか。
そう思って顔をあげたけど、羽住くんは泣いていなかった。
でも、驚いたようにメガネの奥の目を見開いていた。
雨漏りでもしているのだろうかと天井を見上げようとして、羽住くんの大きな手が花の頬を包んだ。
「どうして泣いているんですか?」
何の話だろう。
花がきょとんとして首を傾げると、羽住くんが親指の甲で花の目元を拭った。
それでようやく気が付いた。
泣いていたのは花だった。
花は慌てて手の甲で目を拭った。
今までみたいに羽住くんと本の話ができると、ほっとしたせいかもしれない。
今更、羽住くんが九重さんを抱きしめていたときのことを思い出して、胸が苦しくなってきたせいかもしれない。
どうして自分が泣いているのかはわからないけれど、それよりもびっくりした羽住くんが泣き出してしまうことの方が心配だった。
でも――。
「確かに、人魚姫ではなかったみたいですね」
見上げた羽住くんは微笑んでいて、すぐにまた、花は抱きしめられていた。
人が泣いているのを見て嬉しそうに笑っているなんて、羽住くんはやっぱり意地が悪い。
花は唇をとがらせて身じろいだ。
でも、羽住くんの大きな手は花の頭を包み込んで放してくれない。
「雨の音がうるさくて、近くで話さないと声が聞こえませんから」
羽住くんのちょっと無理のある言い訳に、花は苦笑いして身じろぐのを諦めた。
「まずは西谷くんが真隅さんのことを下の名前で呼んでいる件ですが――」
これは嫉妬深いと言うのだろうか。
比較対象がいないから判断がつかない。いや、このみなら比較対象に入れても――。
「話、聞いてますか?」
耳元でした羽住くんの不機嫌そうな声に、花はくすりと笑った。
雨の音はまだ続いている。
図書館司書の小林さんの足音もまだしない。
もうしばらくは、このまま――。
羽住くんの胸に額を預けて、花はゆっくりと目を閉じた。
ぽつりと、花の目からまた一粒、涙が落ちた。
人魚姫は泣かない 夕藤さわな @sawana
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