にじゅうろくわめ。
「俺は、今、真隅さんに好きだと伝えているんです。恋愛感情としての、好きを――」
羽住くんの低い声と怖いくらい真剣な目と、大きな手に頬をふれられて、花は尻もちをついたまま後退りそうになった。
でも、深呼吸して――。
「……」
どうにか踏み止まった。
だって、人魚姫も、あの魔法使いも、未知の世界に飛び出す前には不安と怖さを感じていたはずだ。
それでも、それ以上に未知の世界を知りたくて、未知の気持ちを理解したくて、飛び出していった。
海の外の世界へ。
主人公や仲間たちと別れ、遠く離れた世界へ。
花も同じだ。
不安と怖さを感じてはいるけれど、それ以上に知りたくて、理解したかった。
羽住くんの気持ちを。
何より、自分の気持ちを。
入学式の日――。
羽住くんと王子さまを。九重さんと隣国のお姫さまを。
自分自身と人魚姫を重ね合わせた気持ちを、花は知りたくて、理解したかった。
だから花は顔をあげて、真っ直ぐに羽住くんの目を見つめた。
「どうして……キスしたの」
「真隅さんが、俺がほのかのことを好きだなんて勘違いをするからですよ」
そう言って、羽住くんは困り顔で微笑んだ。
「確かに中学生の慰め方としてはまずかったかもしれません。でも、ほのかは妹みたいなもので、ほのかへの感情も妹への感情と同じようなものなんです。真隅さんへの感情とは全くの別物です。だから――」
不意に唇に指を押し当てられた。羽住くんの大きくて熱を帯びた指。
忘れかけていたキスの感覚がよみがえってきて、花は顔が熱くなるのを感じた。
「日本ではあまり親や兄弟にキスをする風習はないでしょ? 別物の感情だとわかって欲しくて……でも、すみませんでした。自分が思っていた以上に、あの日の俺は頭に血が昇っていたみたいです」
唇から指を、頬から手を離して、羽住くんは頭を下げた。
いつもは見ることのできない羽住くんのつむじに伸ばしかけた手を、花は止めた。
ふと聞こえてきた音に耳を澄ます。
「雨……」
夕立だろうか。大粒の雨がアスファルトに落ちる重たい音がする。
雨足はあっという間に強くなって、ザーッとうるさいほどの音に変わった。
「どうして……泣いてたの?」
雨音に耳を澄ませながら、花は尋ねた。
キスのあと――。
花の顔を見た途端に羽住くんの目からぽつりと落ちた涙は、今日の雨みたいにあっという間に雨足を強くした。
花の問いに羽住くんはくしゃりと前髪を掻き上げた。
「真隅さんがあのときと同じ、あの子と同じ顔をしていたからです。人魚姫の最後について言った、あのときと……」
「……同じ?」
「表情が消えて、なくなって、凍り付いていました。……自業自得ですけど、あの表情はトラウマです」
子供の頃も、キスのあとも、そんなにひどい顔をしていたのだろうか。
うつむく羽住くんを見つめて、花はぽりぽりと頬を掻いた。
「ただ、キラキラした目で人魚姫の絵本を眺め続けているあの子と話してみたかっただけだったんです。それなのに、軽い気持ちで言った言葉があの子を深く傷つけたんじゃないかって……すごく怖かった」
あの子が――小さい頃の羽住くんが、あのときのことをそんなに気にしているなんて思いもしなかった。
「あの子が真隅さんだと知ったとき、あのときの俺の言葉が原因で恋愛ができなくなったんじゃないかって。主人公から恋する心を奪い取った魔法使いと同じなんじゃないかって……まさか、そんなわけがないと思いながらも、思ってしまったんです」
羽住くんが〝マリオネット冒険記〟の魔法使いをそんな理由で気にしていたなんて思いもしなかった。
「それなのに、また真隅さんにあんな表情をさせてしまった。嫌われたかもしれない、避けられて今までのように話せないかもしれないと不安で、怖くて、学校をサボっていたのですが……」
片膝をついていた羽住くんは床に座り直すと、背の高い本棚に寄り掛かった。
困り顔で微笑む羽住くんを見つめて、花もベランダ沿いのガラス戸に背を預けて座り直した。
日除けの暗幕が背中に当たって、衣擦れの音がした。
「でも昨日、真隅さんに会って、あまりにもいつも通りで……俺は本当に魔法使いで、真隅さんは主人公で。本当に恋をする心を失っていて、俺の気持ちは一生通じないじゃないかって……」
昨日、九重さんの家に向かう途中に羽住くんが言った言葉の意味がようやくわかった。
いつも通りならいつも通りで不安――。
羽住くんはそう言っていた。
好きの反対は嫌いではなく無関心だ。
羽住くんにはいつも通りの態度を取る花がキスにも動揺しない、魔法使いに恋する心を渡して失くしてしまった主人公と重なって見えたのかもしれない。
「一応、動揺はしてたんだけどな……」
今にも泣き出しそうな顔でうつむいている羽住くんを見つめて、花は小さな声で言って苦笑いした。
確かに恋愛ごとに疎いけれど、そこまで心配されるほどじゃない。
だって――。
「さっきも言ったでしょ。私は人魚姫を冒険物だと思って読んでた。だから、思ってもみなかった解釈を知ってびっくりして、それでそんな……どんなだかよくわかんないけど、羽住くんがびっくりするような顔になっただけ」
だって、それだけのことだ。
「恋愛に疎いのだって今まで気になるような相手がいなかったってだけだから」
「……幼稚園も、小学校も? 初恋もまだ、ということですか?」
「そういう人だっているでしょ、普通に! て、いうか幼稚園? へぇ……そうなんだ。羽住くんってばマセてる」
信じられないと言わんばかりに目を見開く羽住くんに、花は仕返しのつもりで意地の悪い笑みを浮かべたのだけど――。
「そういう人だっていますよ、普通に。と、いうか幼稚園の頃に俺が好きだった相手が誰だったか、わかってますか?」
羽住くんは困り顔で言った。
花が首を傾げると、羽住くんは肩をすくめてため息をついた。
「じゃあ、キスもびっくりしたから。あの表情の理由はそれだけですか?」
羽住くんの目に真っ直ぐ見つめられて花の心臓が跳ねた。
表情については、たぶんびっくりしたからだ。
だけど――。
「嫌われるのは嫌です。でも、あのキスをなんとも思われていないのも……嫌なんです」
あのキスをどう思ったか。
その答えは、花が羽住くんのことをどう思っているか、好きかどうかという問いの答えと同じだ。
覚悟は決めたつもりだ。だけど、いざ、面と向かって聞かれるとどう答えたらいいかわからなくなってきた。
キスをされたことなんてないのだ。
嫌だったのか、それとも――。
「どう感じたかなんて、わからない……」
花は膝を引き寄せて体育座りすると、小さく丸まった。
「ほのかと付き合うことになっても笑って祝福するというのは? あれは真隅さんの本心ですか?」
背中を丸めて考え込んでいると背後でカーテンが揺れる音がした。
本が日焼けしないようにとベランダに続く窓には厚手のカーテンが掛かっている。
かさの中みたいに薄暗くなった視界に、花はふと顔をあげた。
いつの間にか距離を詰めた羽住くんが花の顔をのぞき込んでいた。羽住くんの少し長めの前髪が、花の額に触れるほど近くで――。
「授業はサボったのに図書室にいるのが見つかると面倒ですから、きちんと隠れようと思いまして」
もっともらしいことを言ってるけど、たぶん言い訳だ。
羽住くんの目からわずかに見える苛立ちの色に花の心臓が早鐘を打った。
と、――。
バタバタと賑やかな足音が近付いてきた。
なんだろうと思うよりも先に――。
「いるか、ハナ!」
スパーン! と、勢いよくドアが開く音がして、西谷くんの声が響いた。
花もだけど、羽住くんも驚いたらしい。肩がびくりと跳ねた。
花は慌てて羽住くんの肩を押しのけて背の高い本棚の影に隠した。
「西谷くん、部活は!?」
「ハナ、いた!」
本棚の影から顔を出した花を見るなり西谷くんは駆け寄ってきた。
このままだと本棚の影に隠れている羽住くんが見つかってしまうかもしれない。
花も小走りに西谷くんの元へと駆け寄った。
「部活はこれから。でも、すぐにでもハナに話したくて! じゃないと部活にならない!」
西谷くんは肩を上下させながら満面の笑顔で言った。
話をしたくらいじゃ落ち着きそうにないけど、話をしなければもっと落ち着かなそうだ。
「どうしたの?」
ボール遊びをしているときの大型犬みたいにぴょんぴょんと跳ねまわる西谷くんに、花は苦笑いで尋ねた。
西谷くんはむにゃむにゃと口を器用に動かして、にやついたあと――。
「部活前に九重と話して、つ、付き合うことになった!」
大きく飛び跳ねてバンザイすると、そう叫んだ。
その言葉を飲み込んで、理解して――。
「お、おめで……!」
西谷くんと同じようにバンザイしようとした花は、奥の本棚で聞こえたバイブ音にどきりと心臓が跳ねて固まった。
羽住くんのスマホだろうか。
なら、相手はきっと〝あのバカ〟――九重さんだ。
羽住くんと九重さんはどんな話をしているのだろう。
気になって羽住くんが隠れている本棚に顔を向けようとしていた花の動きを遮って、西谷くんがガバッ! と、抱きついてきた。
「ありがと~! もう! 真っ先にハナに報告しなきゃって思って!」
西谷くんは花を抱きしめたまま、バシバシと背中を叩いてきた。
「痛い! 西谷くん、痛いってば!」
力加減を忘れていそうな西谷くんの叩き方に、花は悲鳴を上げた。
本気で痛い。
「悪い、悪い! ついうれしくて!」
ようやく解放してくれた西谷くんは相変わらずの満面の笑顔だ。
本当に嬉しそうな顔に背中の痛みをさすりながら花はくすくすと笑った。
「すぐに部活に戻んないとだから今日はムリだけど、今度、ゆっくり話させろー!」
「はいはい、わかりました。聞きます、聞かせていただきますとも」
部活に向かうのだろう。スキップで図書室の出口へと向かおうとして、西谷くんは足を止めた。
引き返してきて花の耳元に顔を寄せたかと思うと――。
「そっちの話も今度、ゆっくり聞かせろよ」
声をひそめて、そう言ったのだった。
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