にじゅうごわめ。
翌朝――。
花が教室に入るとすでに九重さんが来ていた。
友達に囲まれて笑っていた九重さんは、花に気が付くとそっぽを向いてしまった。
九重さんのようすに花は苦笑いで席についた。
もしかしたら今日も一日、針のムシロかもしれない。
肩をすくめていると生暖かい息を首筋にふーっと吹き掛けられた。
「ぎゃっ!」
「九重さんと何かあったのかーい」
振り返ろうとして、それより先に背中に
こういうことをする相手は一人しかいない。
「このみ、重い……」
「花さんや、もうちょい踏ん張りなよ。簡単に崩れ落ちおって」
このみの笑い声が遠退いて、背中が軽くなった。
花が顔をあげると、このみが目の前の席に腰を下ろしたところだった。
「朝練のあと、九重さんから伝言を頼まれました。なおちゃんは今日の授業は休むけど、放課後は来るそうです、だって」
このみの言葉に、花はきょとんと目を丸くした。
そして、すぐに乾いた声で笑い出した。
「本当に授業はサボるのか」
提案したときには人のことを不良だとかなんだとか言ってたくせに。
「ねぇねぇ、なおちゃんって誰?」
苦笑いしている花を見つめて、このみは眉をひそめた。
このみの顔をじっと見つめたあと、そうか……と、花は思った。
このみが羽住くんの下の名前を知っているわけがない。
九重さんと羽住くんが幼なじみだということも話していない。
どこから話そうか。
「席につけー!」
悩んでいるうちに担任が来てしまった。
「げ、来ちゃった!」
あわてて自分の席に戻ろうとするこのみに、ひらひらと手を振っていると――。
「なんか、よくわかんないけど……よかったね!」
このみはそう耳打ちして、まわりを見るよう視線で促した。
花はこのみの視線を追い掛けて教室内をぐるりと見回した。
花と西谷くんの噂も、昨日の花と九重さんの噂も。
あっという間に立ち消えて、好奇の目を向けるクラスメイトはいなくなっていた。
女子バレー部の子たちとも目が合ったけど、ちょっと気まずそうな顔をされただけで睨まれることはなかった。
きっと九重さんがうまく話をしてくれたのだろう。
今日一日、針のムシロかと覚悟していたけど平穏に過ごせそうだ。
このみを見上げてにこりと笑うと、このみもにこりと笑い返した。
「あとで〝なおちゃん〟の件はじっくり聞かせてもらうから。覚悟しておいてね、花」
そう言って自分の席へと戻っていくこのみを見送って、花はごくりとつばを飲み込んだ。
どうやら今日は、別の覚悟をしないといけないらしい。
***
帰りのホームルームが終わると同時に教室を出た。
人がまばらなうちに早足で廊下を抜けて、階段を下り、二階の廊下の突き当たりにある非常ドアに向かう。
非常階段を下りていくと一階の踊り場で名前を呼ばれた。
「よう、ハナ!」
ずいぶんと遠くから、大声で。
振り返ると――。
「今日も図書室に行くのか?」
白い手すり壁から顔だけをのぞかせて、西谷くんがにかりと笑っていた。
思っていた以上の近さに、花はぎょっとして後ずさった。
また全力でダッシュしてきたのだろう。わかってはいても、やっぱり心臓に悪い。
バクバクと鳴っている心臓を押さえながら、花はなんとか笑顔を浮かべた。
「どうも、西谷くん。……九重さん、来てたね」
花の短い言葉に、西谷くんはぐっと唇を引き結んだ。
「おう、言われなくてもわかってるよ。九重の誤解は俺がちゃんと解くから!」
真剣な表情で胸を張って見せる西谷くんに、花は目を細めて微笑んだ。
「そうだ。ちょっと待って。……はい、これ」
花は肩に掛けたカバンからクリアファイルを取り出した。
花が差し出した写真をのぞきこんだ瞬間――。
「これ……!」
西谷くんは顔を真っ赤にして固まった。
写真に写っているのは、クラゲの水槽の前に立つ西谷くんと九重さんだ。
昨日、九重さんに渡そうと思ってコンビニでプリントアウトしたとき、余分に出してしまったのだった。
二人の顔部分を拡大した写真はないけれど――。
「九重さんとお揃いだよ」
花はそう言って、にこりと微笑んだ。
西谷くんは写真を受け取ってポリポリと頬を掻いたあと――。
「ありがとな、ハナ! 俺、頑張って来るから!」
満面の笑顔を浮かべたのだった。
大きく手を振って走っていく西谷くんを見送って、花は一階の廊下に続く非常ドアを開けた。
図書室の前の廊下には羽住くんが立っていた。
窓の外を見つめていたらしい羽住くんが、非常ドアの閉まる音に振り向いた。
「やっぱり西谷くんと仲良くなってるじゃないですか」
羽住くんは花の顔を見るなり、困り顔で微笑んだ。
「昨日、ほのかとどんな話をしたんですか。ほのかのやつが珍しく、ペラペラと喋らなかったんです」
昨日、話したことは羽住くんに話さないでおいてほしい。
花のお願いを九重さんはきちんと守ってくれたようだ。
花は何も言わずにくすりと微笑むと図書室のドアを開けた。
「あら、久々に二人とも揃ってる!」
ドアを開けると図書館司書の小林さんがノートパソコンを抱えて図書室を出て行こうとしているところだった。
「職員会議のあと国語担当の先生たちと打ち合わせもあるんだけど……お願いしてもいい? お願いするわねー!」
「え? あ、はい……!?」
花の返事は小林さんの耳に届いていたかどうか。
小林さんはあっという間に図書室を出て行ってしまった。
ドアが閉まるのを待って、花は羽住くんを見上げた。
「本当に授業さぼったんだ」
羽住くんのクラスの担任は小林さんと仲の良い国語担当の先生だ。
学校を休んだはずの羽住くんが図書室には来ていると知ったら、明日、怒られるんじゃないかと花は気が気じゃないのだけど――。
「続きを読んでしまいたかったので」
当の羽住くんは涼しい顔だ。
カバンから取り出したのは、あの魔法使いが出てくるシリーズ――〝マリオネット冒険記〟の最終巻だった。
表紙に貼ってあるバーコード付きのシールから市立図書館で借りたものだとわかった。
「結局、主人公は女盗賊と結ばれましたね。魔法使いは主人公の元から去ってしまいましたし」
〝マリオネット冒険記〟は主人公と女盗賊の結婚式にあと、新たな冒険に出るところで終わる。
物語そのものはハッピーエンドだ。
幼なじみの命を助ける代わりに魔法使いは主人公から恋する心をもらった。約十年の時を経て、魔法使いは恋する心を主人公に返したのだ。
そして、主人公を含めた仲間たちに別れを告げる。
魔法使いの中から恋する心はなくなってしまったけれど、主人公に恋をしていたあいだの記憶は残っている。
主人公と女盗賊の幸せそうな姿を遥か遠くから見つめ、祝福の花火を打ち上げた魔法使いは微笑みを浮かべると姿を消した。
「恋する心はなくなってしまったのに、恋をしていたときの記憶は残っている。叶うことも報われることもなかった記憶が残り続ける。魔法使いにとって、すごく残酷な結末だと俺は思ったのですが……」
羽住くんは図書室の奥にある背の高い本棚の前にしゃがみ込んだ。
本棚の一番下の段に収まっている人魚姫の絵本を取り出して、ひざの上に乗せた。
「人魚姫は悲恋の物語だと指摘したら驚いてショックを受けてしまうような真隅さんなら、違う風に解釈したのでしょうか」
また恋愛ごとに疎いと子供扱いされているのだろうか。
花はムッとして羽住くんを睨みつけた。
でも、すぐに尖らせた唇を引っ込めた。
人魚姫の絵本を見つめる羽住くんは、今にも泣き出しそうな顔をしていたから。
「うん、私は違う解釈かな」
羽住くんの正面にしゃがみ込んで、花はそっと人魚姫の絵本を撫でた。
「私はずっと人魚姫を冒険物だと思ってた」
「人魚姫が冒険物……ですか」
「そう。不安で怖くても未知の世界に飛び出していく冒険者。魔法使いも同じ。主人公や仲間たちから離れて未知の世界に飛び出していく」
ふと見ると羽住くんは真剣な表情で聞いていた。絵本の読み聞かせに聞き入る小さな子供みたいだ。
花は目を細めて微笑んだ。
「恋する心は主人公に返して、なくなってしまったけど、魔法使いの中には恋をしていたときの記憶が残ってる。主人公との思い出が残ってる。次は主人公との思い出から生まれた魔法使い自身の心で、本当の恋をするんじゃないかな」
話しているうちに楽しくなってきた。やっぱり羽住くんと本の話をするのは楽しい。
花はにこにこと微笑んで羽住くんの顔を見上げた。
「そのために新しい旅に出たんだよ。主人公や仲間たちと別れるのはさみしくて、不安で怖いけど、それでも未知の世界に飛び出した」
「本当の……新しい恋を探しに、ですか」
羽住くんはそう呟いて、人魚姫の絵本に視線を落とした。
口を開いて、また閉じて――。
ためらっているようすの羽住くんだったけど、ようやく続く言葉を話し始めた。
「王子さまは人魚姫とは別の人を好きになって結婚してしまうんだと、人魚姫のラストについて言ったあと。あの子を……真隅さんを、図書館で見かけることはなくなりました。週に何度も見かけたのに、その日からぴたりと……会えなくなってしまった」
そう言った羽住くんの顔は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
花が市立図書館に通っていたのは人魚姫の絵本が見たかったからだ。
家にも人魚姫の絵本はあったけど花が好きな挿絵のものじゃなかった。だから、母親にせがんで市立図書館に連れていってもらっていたのだ。
確かにあの日以来、花は人魚姫の絵本を見に市立図書館に行きたいとせがまなくなった。
冒険物ではなく恋物語だと知って、人魚姫の気持ちがわからなくなってしまったのだ。
でも、そんなことよりも――。
「あの日、話しかけてくるよりも前から、羽住くんは私のことを知っていたの?」
花の方は全然、気づいていなかったのに。
「えぇ、あの日、話しかけるよりもずっと前から見ていました。飽きもせず、キラキラした目で人魚姫の絵本を眺め続けているあの子のことを……小さな真隅さんのことを」
目を丸くしている花を見つめて、羽住くんは困り顔で微笑んだ。
「でも、あの日以来、来なくなってしまった。小さかったからはっきりとは覚えてないんです。何日か、何週間か……そのうちに怖くなって、俺も図書館に行かなくなりました」
「怖くなって……?」
「自分の不用意な一言が原因で、あの子が図書館に来なくなってしまったんじゃないか。人魚姫の絵本を嫌いになってしまったんじゃないか。そう思ったらすごく怖くなったんです」
花がオウム返しに尋ねると、羽住くんは自嘲気味に笑った。
「それが中学で再会してみたらこれです。笑えるくらい恋愛ごとに疎くなってる。まるで恋する心を誰かに奪われてしまったみたいに」
「笑えるくらいって……」
花はじろりと羽住くんを睨みつけた。
羽住くんは一瞬、弱々しい微笑みを浮かべただけで、すぐに真剣な表情に戻った。
「真隅さんは昨日、言いましたよね。俺は魔法使いじゃないって。その言葉で気が付きました。魔法使いがどんな結末を迎えても、俺は新しい恋を探しに行くことなんてできない。西谷くんと真隅さんが付き合うことになっても、笑って祝福なんてできないんです」
「ふえ……!? なんで西谷くんと私が付き合うことになるのさ!」
羽住くんの唐突な発言に花はすっとんきょうな声をあげた。苦笑交じりに怒鳴った花だったけど、すぐに口をつぐんだ。
「水族館のこと、すみませんでした。嘘をついて、真隅さんをだますような形になってしまって……本当にすみませんでした」
羽住くんが頭を下げたからだ。
「夏の大会が始まる前に西谷くんと二人で出かけたい。だから、協力してほしい。ほのかにそう頼まれたんです。でも、自分自身のためでもありました。……気付いてましたか? 去年からずっと、そこそこわかりやすく好意を表していたつもりなんですが……」
顔をあげた羽住くんの困り顔に花は首をすくめた。
全く思い当たる節がない。
「……だと思いました。真隅さんの鈍さはこの一年で嫌になるほど痛感しましたからね。このままだと一生、進展しないと思ってほのかの計画に便乗したんです」
そろそろと目を逸らす花を見つめて、羽住くんは困り顔のまま微笑んだ。
「真隅さんも西谷くんも、嘘も隠し事もできない性格です。すぐに顔に出てしまう。今回の計画で組む相手としては良い相手とは言えません。でも、ほのかには西谷くん、俺には真隅さん以外を誘う選択肢はなかったんです」
羽住くんは絵本を床に置いて片膝をつくと花の目をのぞきこんだ。
身を乗り出してきた羽住くんに、しゃがみ込んでいた花はぺたんと尻もちをついた。
「俺は真隅さんに恋を知って欲しかった。俺の気持ちに気付いてもらいたかった。俺に、恋をして欲しかったんです」
怖いくらい真剣な、いっそ睨むような目。
今まで見たことのない羽住くんの表情にどうしていいかわからなくて、目をそらそうとして――。
「そらさないでください。……逃げないで、ください」
羽住くんの大きな手が花の頬を包んで、それを阻んだ。
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