にじゅうよんわめ。

 緩やかな坂道の途中で右に曲がり、ちょっと歩いたところで――。


「さ、着きましたよ。ここがほのかの家です」


 羽住くんが二階建ての一軒家を指差した。


「ちなみにこっちは俺の家です。お茶でもしていきますか?」


 続いて隣に建っているよく似たデザインの一軒家を指差して、にこりと笑った。


「門限があるので今日は遠慮しておきます」


「そうですか。次回があるなら楽しみにしてます」


 本気なのか冗談なのか。

 羽住くんはいつも通りのうさんくさい微笑みで言った。


「この時間帯なら家にはほのか一人だと思いますよ」


「わかった、ありがとう」


「俺も一緒にいましょうか?」


 心配そうに尋ねる羽住くんに、花は首を横に振った。

 心配してくれるのは嬉しいけど、女二人の方が話しやすい。羽住くんには見られたくない物も、聞かれたくない話もある。


 羽住くんは微笑んでうなずいた。

 でも――。


「もう少しだけ俺に任せてください」


 玄関チャイムに伸ばした花の手をそっとつかんで止めると、背に隠すように前に出た。

 不思議に思いながらも花は大人しく一歩下がった。


 すぐにチャイムの音と――。


『……はい、どちらさまですか』


 少し間を置いて、九重さんの声がした。


「俺」


『なおちゃん? ちょっと待って』


 ガチャガチャと音がして通話が切れた。


「もう少し、そのまま隠れていてください。……あとで思いきり殴られそうです」


 顔を出そうとしていた花を止めて、羽住くんは空を見上げて盛大にため息をついた。


 殴られるようなことをするつもりなのだろうか。

 花は首をかしげて、しかめっ面の羽住くんを見上げた。


 足音が近付いてきて鍵を開ける音がして――。


「どうしたの? 回覧板?」


 九重さんの声がした。


 教室で聞くよりも乱暴で低い声に花は体を強張らせた。

 勢いに任せてここまで来たけど、ちょっと後悔してきた。


 でも――。


「お届け物です。手をあげないように。あと逃げたり追い出したりもしないように」


 そんな花の緊張とちょっぴりの後悔なんてお構いなしで、羽住くんはぐいっと腕をつかんで引っ張った。

 よろめいたところに追い討ちのように背中を押される。


 転がるように歩み出た花の背後でガチャリと音がした。


「……へ?」


 状況が飲み込めないまま、慌てて振り返ると見知らぬ空間とドアが目に入った。

 ぴたりと閉じた玄関ドアが、目に入った。


「真隅、さん……?」


 さっき羽住くんに話しかけた声よりも、さらに低くて刺々しい声に恐る恐る振り返ると――。


「なんで真隅さんがいるの?」


 眉間にしわを寄せた九重さんが一段高い位置から、花をじろりと睨み下ろしていた。

 ただでさえ背の高い九重さんに一段高い位置から睨まれると威圧感がある。


「は、羽住くんに案内してもらいました」


 上擦った声で正直に答えた瞬間、九重さんが舌打ちした。


 ――……あとで思いきり殴られそうです。


 盛大にため息をついていた羽住くんを思い出す。

 なるほど、確かにあとで殴られそうだ。羽住くんが、九重さんに。


「好きな子相手だと甘いんだ、なおちゃん」


 ぼそりと九重さんが呟いた言葉の意味を聞き返す勇気はなかった。

 余計なことを言ったら速攻で追い出されそうだ。


 泣いていたのか。

 九重さんの目元は赤くなっているけど、羽住くん同様、顔色もよければ足取りもしっかりしていた。


「それで、何? 用事がないなら帰って。体調が悪くて早退したんだから」


 でも、羽住くんと違って、九重さんは体調不良で押し切るつもりのようだ。

 昼休みの図書室でのことが理由で早退したと思われたくないのだろう。花への気遣いじゃなく、九重さんの意地として。


 唇を噛みしめて花をにらみつける九重さんを見上げて、花は心の中で頷いた。

 それなら、九重さんの話に合わせることにしよう。図書室の件をあやまるのもなしだ。


「具合が悪いときにごめん。すぐに帰るから」


 花はそう言いながら学校カバンからクリアファイルを取り出した。


「水族館に行ったときの……?」


 花の手元をのぞき込んでいた九重さんがぼそりと呟いた。花はこくりと頷いた。

 水族館に行ったときに撮った写真をコンビニでプリントアウトしてきたのだ。


「うん、九重さんに渡そうと思って」


「盗撮じゃん」


 九重さんにすかさず言われて花はムッとした。

 プリントアウトしてきたのは、クラゲの水槽の前に立つ九重さんと西谷くんを撮った写真だ。

 盗撮と言えばそうなのだけど――。


「羽住くんといっしょになってうそをついてだましていた九重さんが私のことを責められるの?」


 花はぼそりと呟いて、九重さんを白い目で見た。

 花の冷ややかな目に、九重さんは目を見開くと唇を噛み締めた。九重さんの目にじわりと涙が浮かぶのを見て、花はあわてて目をそらした。

 このままでは昼休みの図書室と同じことになってしまう。


 こほん……と、咳払いして花は写真を差し出した。


「その写真がなんだって言うの?」


 九重さんはバツが悪そうに、ぶっきらぼう口調で尋ねた。

 花は黙って次の写真を見せた。さっきの写真の、二人の顔部分を拡大したものだ。


 でも――。


「だから、これが何?」


 九重さんは眉間にしわを寄せただけだ。

 当事者は気づかないもの、らしい。このみがいつだったか言っていた言葉を思い出して、花はぽりぽりと頬を掻いた。


 それなら――。


「できるなら見せたくなかったんだけどなぁ」


 花は二枚の写真を九重さんの手に押し付けて、カバンから自分のスマホを取り出した。


 スマホに表示させたのは水槽にへばりついてチンアナゴを見つめている花の写真。

 羽住くんが撮って送ってくれた、花とチンアナゴのツーショット写真だ。


 見せた瞬間、九重さんが吹き出した。


「言っちゃあれだけど、あれな顔ね。鼻の下延ばして、デレデレしちゃって」


 自分でもひどい顔をしているとは思うけど、大して仲良くない人に言われるとカチンと来る。

 けらけらと笑う九重さんに花はムッとした。


「そうじゃなくて、ここ!」


 花は画面を操作して、拡大して、写真の隅っこを乱暴に指差した。


「この水槽んところ。ここに羽住くんが写ってるの!」


 九重さんは花の手からスマホを取り上げると、スッと目を細めた。

 かと思うと――。


「ひっどい顔」


 思いきり鼻で笑った。

 水槽に映り込んだ羽住くんを見つけたらしい。


「鼻の下延ばしてデレデレしちゃって。幼なじみとしては見たくなかったわ、気持ち悪っ」


 写っているのが羽住くんだからか、話しているのが花だからか。

 止まらない悪態に花は乾いた声を笑った。


「この写真、なおちゃんが撮ったんだ?」


 ひとしきり眺めたあと九重さんが尋ねた。

 花はこくりとうなずいた。


「このみには、こういう目で見るのは相手のことが大切で大好きだからだって言われた。でも、私はそういうことに疎いから……」


「こんなバレバレな顔してるのに? 当人は気付かないってパターンだろうけど、それにしても鈍すぎ。なおちゃんに同情するわ」


 ため息混じりに呟く九重さんに花は苦笑いした。

 羽住くんの件については反論できない……のかもしれない。


 九重さんからスマホを返され、花は画面を――羽住くんの目をそっと撫でた。


 羽住くんのこの目の意味も。

 このみが言ったことが正しいのかも。

 羽住くんがキスした理由も。


 いまだによくわかっていない。


 でも――。


「九重さんも私のこと、言えないと思うけど?」


 花は澄ました顔で九重さんの手から写真を取り上げた。

 九重さんと西谷くんの顔部分を拡大した写真を、だ。


「羽住くんのこの目がどういう感情なのかわからない私でも、この写真の西谷くんと羽住くんの目が同じだってことはわかったもの」


 スマホの画面と写真を並べて、ほのかの鼻先に突き付けた。


 うまく伝わっただろうか。

 不安に思いながら、花は九重さんの表情をうかがった。


 長い長い沈黙のあと――。


「そう……かな?」


 九重さんはか細い声で尋ねた。


 花と西谷くんの噂を聞いて不安になって、非常階段で羽住くんの前で泣き出したときと同じ。九重さんの黒目は不安げに揺れていた。

 羽住くんや花を睨みつけたときとはずいぶんな差だ。


 今の九重さんはすごくかわいい。

 そう、素直に思った。


「さぁ、どうだろう」


 思っただけで素直に言うつもりはないけれど。

 つんと澄まし顔で言うと、九重さんが目をつり上げた。


「でも……なら、なんで西谷は真隅さんのことを〝花〟って下の名前で呼んでるのよ。真隅さんのことが好きだから、付き合ってるからじゃ……」


「鼻水模様のハナちゃん、らしいよ?」


「はぁ!?」


「それは私じゃなく西谷くんに聞くべきことでしょ。気になるなら明日、西谷くんに聞いてみたら? それから――」


 ムッとした表情になった九重さんを上目づかいに見て、花は意地の悪い笑みを浮かべた。


「羽住くんのことは明日、私が羽住くん本人に聞くし言うから。だから、今日は聞かないし話さないでね。私にも、羽住くんにも」

 

 九重さんは目を瞬かせたあと――。


「さぁ、どうだろう」


 さっきの仕返しだろう。そう言うと眉間にしわを寄せてそっぽを向いてしまった。

 九重さんの機嫌は最悪だけど、きっと羽住くんにも聞かないし話さないでおいてくれるだろう。


 花はくすりと笑ったあと、真顔で首を傾げた。


「そうだ。一つ、聞いてもいい?」


「こっちには聞くなって言っておいて、そっちは聞くの? ちょっと図々しいんじゃない?」


「どうして羽住くんといっしょになって、まどろこしい計画まで立てて、水族館デートなんてしたの?」


「人の話、聞いてる!?」


 気にもせずに尋ねて首をかしげる花に、九重さんは怒ったウサギのようにダン、ダン! と、足でフローリングを叩いた。

 でも――。


「うそが苦手な西谷くんまで巻き込んで、共犯にして」


「共犯って……!」


 ひるむことなく、じーっと見つめる花に根負けしたらしい。


「あぁ、もう! わかったわよ!」

 

 九重さんはガリガリと髪の毛を掻きむしると、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。


「夏の大会が始まる前に西谷とどこかに行きたかったの! 二人で! うそをついてでも! ……夏の大会が始まったら部活も減って、あんまり会えなくなるから」


「うそなんてつかなくても、普通に誘えばいいのに」


「断られて、気まずくなって。今までみたいに話せなくなったらどうすんのよ。折角、私も西谷もレギュラーになれて、いっしょにがんばろうって約束したのに……」


 そう言いながら、九重さんはうつむいた。


 今までみたいに話せなくなったら――。


 今なら花にも、その気持ちが少しだけわかる。

 花は目を細めて微笑むと、九重さんと西谷くんが写っている写真を指さした。


「これはあげるね」

 

 九重さんは眉間にしわを寄せて花をにらみつけた。

 でも――。


「……ありがと」


 ぼそりとつぶやいて、大切そうに写真を抱きしめた。


「明日は学校に来てね。授業は……まぁ、サボってもいいけど」


「何しに学校に行くのよ、それ」


 渋い顔の九重さんを一瞥いちべつ。花はにやりと笑うと――。


「……部活? それじゃあ、また明日!」


 九重さんの家をあとにしたのだった。


 ***


 九重さんの家を出た花はゆっくりとあたりを見まわした。

 九重さんの家の前にも、隣に建っている羽住くんの家の前にも、羽住くんの姿はなかった。


 ほっとしたような、少しさみしいような気持ちで歩き出した。

 急がないと門限に間に合わないかもしれない。夕飯に遅れると母親には怒られ、お腹を空かせた兄には嫌味を言われてしまう。


 それなのに、一歩、二歩と歩いたところで花は足を止めて振り返った。


 羽住くんの家の窓からは明かりが漏れていた。

 明かりがついている部屋のどこかに羽住くんがいるのだろう。


 明日は学校に来るだろうか――。


 来てほしいと思う。多分、来るだろうと思う。

 でも、少しだけ羽住くんと会うのが怖くもあった。


 きっと明日、羽住くんと会って話をしたら本当のことがわかる。

 この一週間ちょっとのあいだに起こったことや、その理由がはっきりとする。


 早く知りたいと思う。

 でも、はっきりさせたことで羽住くんとの関係が変わってしまったら。

 そう思うと怖いとも――少しだけ思っていた。


 恋愛小説に出てくる登場人物たちもこんな気持ちだったのだろうか。

 西谷くんも、九重さんも、それから羽住くんも――こんな気持ちなのだろうか。


 今、恋愛小説を読んだら少しは共感できるかもしれない。

 でも、まだ、恋愛小説を読みたい、読んでみたいという気持ちにはなれそうになかった。


 花はもう一度、羽住くんの家を見上げたあと、背を向けて歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る