にじゅうさんわめ。
西谷くんが部活に戻るのを見送って、花もすぐに図書室を出た。
花と西谷くんが付き合っているなんて根も葉もないうわさを、それでも九重さんは信じている。
少なくとも本当かもしれないと不安に思っている。
誤解を解くのは西谷くんに任せると約束した。
でも、昼休みにきつい言い方をしたことについては、花からきちんとあやまらないといけない。
それと……大きなお世話かもしれないけど、九重さんに見せたいものもあった。
靴を履き替え、昇降口を出て、スマホを出した。
このみに電話してみたけど、九重さんの連絡先も住所も知らないらしい。
それなら、女子バレー部の子たちに聞いてみてほしいと頼もうとしたのだけど――。
「部活中なんだよ! 練習試合が始まるんだよ! 切るぞー!」
と、切られてしまった。
電話口から、このみを呼ぶ声が聞こえていた。
もう一度かけたら怒鳴られて、明日、どつき回されそうだ。
少し迷ったあと――。
「あと、九重さんの連絡先を知ってそうな人と言えば……」
花はスマホの画面を操作して目的の人物を探した。
悲しいかな、花のスマホに登録されている人数は多くない。すぐに目的の人物は見つかった。
あとは受話器マークを押すだけ。
それだけなのに、いざ画面に名前が表示されると指がなかなか動かない。
花はぎゅっと目をつむると――。
「ていっ!」
やけっぱちで受話器マークを押した。
恐る恐るスマホを耳に当てる。
呼び出し音が一回、二回と鳴った。五回目の呼び出し音が鳴って、やっぱり切ろうかと思い始めた頃――。
『……珍しいですね』
羽住くんは開口一番、そう言った。
図書室で本の話をしているときよりも固くて低い声。
何か言わなくちゃと思うのに、言葉が喉につかえて出てこない。うまく声がでない。
『……もしもし?』
どうしよう、どうしよう……と、思っているうちに羽住くんの声がさらに固くなった。
「あ……!」
今にも切られそうで花は慌てて声をあげた。
でも、やっぱりあとの言葉が続かない。
『何か用ですか』
羽住くんの声が固い理由はなんとなく思い当たる。
図書室で羽住くんにキスされてから一度も会っていないし、話していない。あれ以来、初めて話すのだ。
花だって気まずい。
どんな態度で、どんな口調で話したらいいかわからない。
花が口をパクパクさせていると羽住くんのため息が聞こえてきた。
そして――。
『すみません、態度がきつかったですね。……どうしたんですか?』
そう言った。
いつも通りとはいかないけれど、少しだけ柔らかくなった声に花はほっと息をついた。
「九重さんの……」
ほっと息をついたら、やっと声が出た。
「九重さんの連絡先か、住所を教えてほしくて……!」
声が上擦ってしまったけど、なんとか用件を言い切れた。
『ほのかの、ですか?』
「……知ってる?」
疑問形で聞いたけど、水族館に行ったときにメッセージのやり取りをしていたのは知っている。
少なくとも連絡先は知っているはずだ。
『真隅さん、何をするつもりですか?』
「何って……」
『ほのかから今日、図書室であったことは聞いてます。多少、ですが』
今日の昼休みにあったことを、九重さんはもう羽住くんに話したらしい。
電話に出てすぐの羽住くんの固い声を思い出す。てっきり気まずいからだと思っていたけど、もしも九重さんを傷つけたことを怒っているからだとしたら?
そう思ったら、花の胸がちくりと痛んだ。
『あやまりにでも来るつもりですか?』
「……来るなってこと?」
尋ねて、花はこくりと唾を飲み込んだ。そうだと冷たい声が返ってきたらどうしようか。
痛くなるほどスマホを耳に押し付けて、羽住くんの次の言葉を待っていると――。
『それなら必要ないってことです。ほのかも頭に血が昇っていたでしょうから、真隅さんは気にしなくていいです』
花の想像に反して、羽住くんは呆れたような、ため息混じりの声で言った。
花はきょとんとした、でも、すぐにほっと息をついた。
羽住くんに嫌われたんじゃないかと不安だった。不安になるくらい、花は羽住くんに嫌われるのが嫌らしい。
震える手をそっとなでて苦い笑みを浮かべたあと――。
「あやまるのもだけど……それ以外にも話したいことがあるの」
花はきっぱりと言った。
羽住くんはしばらく押し黙ったあと、
『わかりました』
そう言った。
『連絡先を教えてもいいんですが、今、ほのかに電話を掛けても出ないと思います。住所……を教えても、真隅さんが辿りつけるかあやしそうですね。案内しますよ』
「そんなにややこしいところに住んでるの?」
『いいえ。……真隅さん、方向音痴だと思っていたんですが?』
しれっと意地悪を言う羽住くんに、花は眉間にしわを寄せた。
ただ、残念なことに反論できないのだ。全く。微塵も。
「九重さんの家も知ってるんだ」
だから、花は話を逸らすことにした。正確には戻す、か。
『もちろん』
羽住くんは短く肯定した。
家まで知ってるなんて、やっぱり仲がいい。
また、胸がちくりと痛んだ。
でも――。
『すぐ隣なんだから知っていて当たり前です』
羽住くんは、またもやあっさりと言った。
『ほのかとは幼稚園の頃からの幼なじみなんですよ』
「へ、え……幼なじみ!?」
『えぇ、幼なじみ。ただの幼なじみです。……で、今、真隅さんはどこにいるんですか?』
花が素っ頓狂な声をあげるのを聞いて、羽住くんは刺々しい口調で繰り返したあと、苦笑いをもらした。
「え、えっと……まだ学校」
『それなら……バス通りの十字路はわかりますか。角にコンビニがある十字路です』
「うん、大丈夫」
『そのコンビニで待ち合わせましょう。着替えてから向かうので……三十分ほどで着くと思います』
「う、うん、わかった」
花が答えると、羽住くんはそれじゃあ……と、言って電話を切った。
電話自体も慣れていないし、羽住くんと話すのも久々だ。思っていたよりも緊張していたらしい。
思わずため息をもらしたあと、花はスマホの画面をじっと見つめた。
学校から約束のコンビニまでは歩いて十分ほどだ。のんびり歩いても羽住くんよりもかなり早く着くはずだ。
花は少し考えて、小走りに学校の正門を出た。
***
自動ドアが開く音がして、聞き慣れた電子音が流れた。
顔をあげると羽住くんが入ってきたところだった。
コンビニの入り口近くに置いてあるプリンタの前に立っていた花を、羽住くんはすぐに見つけた。
私服姿の羽住くんは、前髪は下ろしているけどメガネはかけていない。
ジーパンに黄色のTシャツ姿で、高校生みたいに高い身長と子供っぽい服装がアンバランスだ。
水族館に行ったときの大人っぽい服装とはずいぶんと違う。
あの日の服装は完全に九重さんのセンスだったらしい。
花はモヤモヤする胸を押さえて、羽住くんから目を逸らした。
「何を印刷していたんですか?」
花の手元をのぞきこんで、羽住くんが尋ねた。
「水族館に行ったときの写真をプリントアウトしてたの」
「ニシキアナゴとチンアナゴのですか」
「ううん、西谷くんの」
「好きな相手だから、ですか。……いえ、行きますよ」
印刷したばかりの写真を見せようと花が振り返る前に、羽住くんはさっさと背中を向けて歩き出してしまった。
大股でコンビニを出ていく羽住くんを花はあわてて追いかけた。
羽住くんの声がまた固く低くなったような気がしたけど、気のせいだろうか。
「体調が悪くて休んでるって聞いたけど……?」
信号待ちをしている羽住くんにようやく追いついて、花は隣に並んだ。
羽住くんの顔を見上げる。顔色も良いし、足取りもしっかりしているようだけど――。
「仮病に決まってるでしょう」
「……そっか、仮病に決まってるんだ」
悪びれたようすもなく言う羽住くんに花はくすくすと笑った。
そんなこと、堂々と胸を張って言うようなことじゃない。
真面目で大人しい生徒に分類される羽住くんがそんなことを言っているなんて知ったら、先生たちは頭を抱えてしまうかもしれない。
「本当にいつも通りですね、真隅さん」
くすくすと笑っている花を見下ろして、羽住くんは困り顔で微笑んだ。
「ほのかから真隅さんの様子は聞いてたんです。でも本当に……今、こうして俺と喋っててもいつも通りなんで……びっくり、しました」
羽住くんは自嘲気味に笑ったかと思うと、ついと目を逸らした。
「真隅さんを怒らせてしまったんじゃないか。嫌われてしまったんじゃないか。今までのように話したりできなくなるんじゃないか。そう思うと不安でした。でも、いつも通りならいつも通りで不安になるものなんですね」
今までに羽住くんが困り顔で微笑むのは何度も見てきた。
その微笑みには暖かい色が滲んでいて、見るたびにくすぐったいような、嬉しいような気持ちになった。
でも今、羽住くんが浮かべている微笑みは、自嘲混じりの微笑みだ。
見ている花まで胸が痛くなってくるような笑みだった。
「仮病なんて使って休んで、何してたの?」
羽住くんの微笑みを見ていられなくて、花は空を見上げた。
今日は朝から快晴だ。青い空に綿菓子をちぎったような雲が浮いていた。
雨が降る気配はない。
「普通に落ち込んでいたとは思わないんですか。……真隅さんに恋愛事で普通の感覚を求めるのは間違ってますね」
「さらっとひどいことを言うね、羽住くん」
「ずっと本を読んでたんですよ。魔法使いの末路を知りたくて」
花の苦情をさらりと無視して、羽住くんは言った。
末路という言い方もひどい。花は苦笑いした。
「真隅さんが土日で読むと言っていたので、先週末で読み切れるかと思ったのですが。……そういえば真隅さん、読むのが速いんでしたね。すっかり忘れてました」
羽住くんが深々とため息をつくのを聞いて、花はぽりぽりと頬をかいた。
花に自覚はないけど、そうらしい。
「あとどれくらい?」
「あと二冊です」
「じゃあ、女盗賊も出てきてるね」
「えぇ、魔法使いに奪われたままの主人公の恋心をどう解決するかは見えていませんが、主人公と女盗賊が結ばれるラストは予想できる展開になってきてますね」
「でしょ! 幼なじみが主人公に対して指摘する前に気付けたんだから、私!」
「いえ、女盗賊が出てきてすぐに気が付いてもいいくらい露骨に描写されていたと思いますよ?」
「え、あれ……?」
「それで研究の成果が出たと胸を張られても、ちょっと」
にっこりと意地の悪い微笑みを浮かべる羽住くんに、花はふくれっ面でそっぽを向いた。
でも、勝手に口元が緩んで笑みの形になったのを感じて、花はあわてて唇の両端を指で押さえた。
羽住くんと本の話をするのはやっぱり楽しい。
ほんの一週間前までは毎日のように、当たり前のように、図書室でしていたことなのに。
ただ、それだけのことがすごく楽しくてうれしかった。
「ちょっと西谷くんに似ていますね」
不意に羽住くんが言った。
誰が? と、花は首を傾げた。
「女盗賊ですよ。……いえ、性格です。性別でもスタイルでもなく。むしろ、なんでそっちだと思ったんですか」
花のジェスチャーに羽住くんは眉間にしわを寄せた。
女盗賊は小柄だけど引き締まった体付きのグラマラスなキャラクターだ。
羽住くんが本気で不愉快そうにため息をつくのを見て、花は声を出して笑った。
「元気で明るくて無邪気で、なんの
「魔法使い推しとしては残念?」
羽住くんは読む前から魔法使いに肩入れしているようだった。
主人公が女盗賊に心惹かれていく展開にがっかりしているかと、からかうつもりで言ったのだけど――。
「自業自得ですよ」
羽住くんは自嘲気味に、吐き捨てるように言って目を伏せた。
花は羽住くんの顔をじっと見つめた。
やっぱり羽住くんは魔法使いに肩入れしているみたいだ。それもずいぶんと。
花は首を傾げたあと、目を細めて微笑んだ。
「主人公と女盗賊がどうなったか、魔法使いがどうしたか。ネタバレはしないでおくよ。読み終わったら、また話をしよ」
羽住くんが魔法使いに肩入れする理由はわからない。
その理由を話してくれるか、花が理解できるかもわからない。
でも、最後まで読み終えた羽住くんがどんな感想を抱くのか、聞いてみたかった。
花はカバンを漁って、チンアナゴのしおりを差し出した。
「だから明日は図書室に来てね」
今日の昼休み、九重さんが返却しに来た本にはさまっていたしおりだ。
羽住くんは目を見開くと、
「……よかった」
ぽつりと呟いた。
「探していたんです。本にはさまったままになっていたんですね」
花の手から受け取って、羽住くんが大きな手で大切そうにしおりを包み込んだ。
「前に使ってたステンレス製のしおりの方が羽住くんっぽいのに」
「でも、これは……色違いでおそろいですから」
「色違いでおそろい……?」
花が不思議そうな顔で首を傾げると、羽住くんは困り顔で微笑んだ。
暖かい色が滲んだ微笑みだ。
くすぐったいような、嬉しいような気持ちに、羽住くんが言った言葉の意味もわからないまま、花はくしゃりと笑った。
「あと二冊、今夜中に読み終わりますかね」
明日までに〝マリオネット冒険記〟を読み終えるつもりらしい。
花はにやりと笑って羽住くんを見上げた。
「授業はさぼってもいいよ」
「不良ですね、真隅さんは」
「仮病で何日も学校を休んでいた人が何を言っているのやら」
「すみません、訂正します。不良ですね、真隅さんも」
羽住くんは唇の片端を上げて微笑んだ。
まだ少し固さは残っているけど、いつも通りの羽住くんに戻った気がする。
優しそうに見えて意地が悪くてちょっとうさんくさい、いつも通りの羽住くんに。
おかげで心が軽くなった。
心だけじゃなく、口も――。
「羽住くん。一つ、聞いてもいい?」
思っていたよりも言葉はすんなりと出てきた。
「なんでしょう」
首を傾げる羽住くんの目を、花は真っ直ぐに見上げた。
「羽住くんは、九重さんのことが好きなの?」
羽住くんは大きく目を見開いたかと思うと――。
「真隅さんが言う好き、というのは?」
あの暖かい色が滲む困り顔で微笑んだ。
これはお子ちゃま扱いされてるときの微笑みだ。
察して、花はムッとふくれっ面になった。
「恋愛感情!」
「ずいぶんとはっきり返しましたね。……そういう意味合いなら、いいえ」
くすくすと笑いながら、羽住は首を横に振った。
「ここ二週間ほどの件はすべて西谷くんのことが好きなほのかに協力した……と、いうより無理矢理手伝わされたと言ったところです。真隅さんが邪推するような感情ありませんよ」
「そっか、よかった」
満面の笑顔でそう言う花を羽住くんはまじまじと見つめた。
「……よかったんですか?」
「うん、よかった。だって、今から九重さんに話そうと思ってることって、西谷くんの応援になるような話だから」
羽住くんの答えがどうであっても、九重さんに会って話すつもりではいた。
でも、これで心置きなく話すことができる。
目をキラキラさせて答える花に、羽住くんは目を丸くしたあと――。
「そういう意味ですか。期待して損しました」
深々とため息をついた。
「期待? 損?」
「真隅さんにはがっかりさせられてばかりだ、という話です。……気にしないでください。こちらの話ですから」
ひらひらと手を振る羽住くんを見上げて、花は首をかしげた。
じっと見つめてみたけど、羽住くんは何も言わずに微笑んでいるだけ。〝こちらの話〟について、これ以上、話す気はないらしい。
羽住くんの無言の微笑みに負けて、花は首をすくめた。
でも、羽住くんの正面にまわりこむと、背伸びして目をのぞき込んだ。
「あの話が……魔法使いの物語がどんな風に終わってもへこまないで、明日はちゃんと図書室に来るんだよ」
花は〝マリオネット冒険記〟をすでに読み終えている。
物語的にはハッピーエンドだったけど、魔法使い推しの羽住くんにはちょっと辛い結末かもしれない。
花はバシバシと羽住くんの背中を叩いた。
「羽住くんは魔法使いじゃないんだから、大丈夫だよ!」
羽住くんは花の顔をまじまじと見つめたあと、くすりと苦笑いした。
「それも特に深い意味もなく言ってるんですよね」
「深い意味……?」
「いいえ、なんでもないです。本当に、真隅さんにはがっかりさせられてばかりです」
羽住くんの言葉に、花は眉間にしわを寄せた。
でも、言葉のわりに羽住くんの表情は柔らかくて、あの暖かい色がにじむ困り顔で微笑んでいるのを見て、花もつられるように笑顔になった。
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