にじゅうにわめ。

 昼休みに図書室で九重さんと言い合いになって。

 教室に戻ってみたら九重さんは早退していて。


 そんなこんなで午後はずっと針のムシロだった。


 九重さんと仲の良い女子バレー部の子たちには睨まれるし。

 噂が広まって他の同級生たちからも好奇の目で見られるし。


 遠巻きに見られてひそひそと噂されるのも困るけど、何があったのかと聞かれても困る。

 九重さんと言い合った内容を人に話すわけにはいかない。


 花は唇を引き結んで授業と帰りのホームルームを終え、図書室へと向かった。

 図書室に入って本の香りを吸い込んだ瞬間――。


「……」


 花はようやくほっと息をつけた。


 図書館司書の小林さんが職員会議のために出て行くと、図書室には花だけになった。

 しん……と、静まり返ったいつも通りの――でも、花一人きりの図書室。

 花の口からため息がもれた。


 貸出カウンターに入ると足元の棚に隠していた本を取り出した。

 羽住くんが手続きしないまま借りて行き、九重さんが今日の昼休みに返しに来た本。あの魔法使いが出てくるシリーズ――〝マリオネット冒険記〟だ。


 本当は昼休み中に返却手続きを終えようと思ったのだけど、九重さんとのやり取りにへこんでいて手をつけられなかったのだ。


 裏表紙をめくって貼り付けられた紙ポケットから貸出カードを取り出す。

 羽住くんの名前を書いて、貸出カードを元に戻す。


 巻数順に手続きをしていき、六冊目を開いた花は目を丸くした。

 白地に黒の斑点模様のチンアナゴが描かれたしおりが挟まったままになっていた。


 水族館に行ったとき、おみやげとして羽住くんが買ったしおり。

 花がもらったニシキアナゴのしおりとお揃いと言えばお揃いのしおりだ。


 羽住くんが使うにはやっぱり子供っぽくて可愛すぎる。

 前に使っていたステンレス製のしおりの方が羽住くんには似合っている。


 花はチンアナゴのつぶらな瞳をぼんやりと見つめていたが、ふと顔をあげた。

 バタバタと賑やかな足音が近付いてきている気がする。


 何事だろうと顔をあげると――。


「ハナ、いるか!」


 西谷くんが勢いよく図書室のドアを開けた。

 今日も部活があるのだろう。西谷くんは体操服姿だ。

 花を見つけるなり、西谷くんは貸出カウンターに駆け寄ってきた。


「九重と取っ組み合いのケンカをした挙げ句、ハナが勝ったって本当か?」


「大嘘です!」


 ずいぶんと噂に尾ひれがついている。

 大真面目な顔で尋ねる西谷くんに、花は全力で首を横に振った。


「……本当に?」


 大真面目な顔で首を傾げる西谷くんに、花は全力で首を縦に振った。

 でも――。


「昼休みにちょっとあったのは……本当、です」


 小声でそうも言って、うつむいた。

 肩を落とす花を西谷くんはじっと見つめたあと――。


「……そっか」


 と、つぶやいた。


 西谷くんは貸出カウンターの脇に避けてあった丸椅子を引っ張ってきて、花の正面に腰かけた。


「俺、昼休みに九重と会ったんだ。カバンを持ってたし帰るみたいだったから、大丈夫かって声かけた。でも、泣かれた挙句に無視された」


「泣いてたのは西谷くんのせいじゃなくて、私とのことで……!」


「うん、そうなのかもしれない。ハナの言うとおりなのかもしれない」


 西谷くんは頬杖をついて、困り顔で笑った。


「でもさ、今日のことだけじゃなくって……なんか前よりも距離がある気がするんだよな。水族館に行ったあとから全然、口きいてないし。顔もろくすっぽ見てないし」


 西谷くんが寂し気に微笑んでつぶやく言葉に、花は目を伏せた。


 同じだ。

 花も水族館に行ってから何回、羽住くんと話をしただろう。


 放課後の図書室で好きな本や今日、読んだ本の話をするだけ。

 毎日、毎日――ただ、本の話をしていただけなのに。


 ただ、それだけのことがなくなっただけでさみしくなる。

 大好きな本も読めなくなるほど落ち着かなくなる。


 ――なら、今日は真隅さんが恋愛物を読めるように恋愛の研究をしましょうか。


 羽住くんにそう言われて、西谷くんと九重さんを見に体育館裏に行ったときにはこんなことになるなんて思わなかった。


「水族館に誘われたときは、こんなことになるなんて思わなかったんだけどな」


 西谷くんも似たようなことを考えていたらしい。

 カウンターに突っ伏した西谷くんを見下ろして、花は頬杖をついた。体育館裏から見た西谷くんと九重さんのようすを思い出す。 


 緑色のネットを挟んで背中合わせに座って、ふざけたことを言い合っているだけだった。

 目が合うとはにかんで笑ったり、たまに小突き合ったりしているだけだった。


 なのに、それだけのことがなくなっただけで西谷くんはこんなにも小さくなってしまうのだ。


「西谷くんは、九重さんのどこが好きなの?」


 小さくなっている西谷くんを見つめて、花はぽつりと尋ねた。


「ど……どこが好きって……!」


 西谷くんはガバッと顔をあげたかと思うと、すぐさまカウンターに突っ伏した。

 なかなか、いい音がした気がする。多分、額をぶつけたのだろう。


「……そういうこと聞く?」


「聞いちゃまずかった?」


「本気で言ってる? あ、本気っぽいな」


 花の顔をちらりと見上げた西谷くんは、呆れたようにため息をついた。

 よく見ると顔どころか耳まで真っ赤になっている。


「そういう話するのってめっちゃ恥ずかしいんだよ。わかるだろ?」


「そうなの?」


「そうなんだよ! 羽住から疎い、疎いとは聞かされてたけど、予想以上の疎さだな!」


 カウンターにあごを乗せたまま、西谷くんは髪をくしゃくしゃと掻きむしった。


「羽住くん、西谷くんにまでそんなこと言ったんだ。そこまでじゃないと思うんだけど」


 花は花で西谷くんの言葉に仏頂面になった。

 そんな花を見て、西谷くんは苦笑いした。


「そこまでだぞ、ハナ。……話してやるけど笑うなよ」


 そう前置きして、西谷くんはようやくぽつぽつと話し始めた。


「去年の夏の大会、九重は一年生でレギュラー入りしたんだ。部活でよく喋ってたし、一年同士だし。女バレと男バスの一年で応援しに行ったんだよ」


 そう言いながら、西谷くんはゆっくりと体を起こした。


「うちの女バレってあんま強くないからさ、地区大会で初戦勝っただけで即敗退。それでも先輩たちは一勝したんだから万々歳って感じで、九重も先輩や俺らといっしょにいるあいだは笑ってたんだけど……」


 ぽりぽりとほほを掻いて、西谷くんはくすりと笑った。


「みんなと別れて、家に帰って。買い物頼まれて出かけたらさ、九重が公園で一人で大泣きしてて。それ見た瞬間、なんか……いいなって」


 そう言って微笑む西谷くんを、花はじっと見つめた。


 西谷くんの表情を見ているとむずむずしてくる。

 でも、同時に胸が温かくなって、いつまででも見ていたい気持ちになってくる。


 同じような微笑みを、目を、どこかで見た気がする。

 記憶を探って――。


「……そっか」


 花は小さな声で呟いた。


 水族館で見たのだ。

 水槽の中を漂うクラゲを見ようともしないで、九重さんの横顔をじっと見つめていた西谷くん。

 あのときの西谷くんの微笑みと同じ。目と同じ。


 優しい微笑み。優しい目だ。


 それから――。


「羽住くんとも、同じ……」


 花は足元のカバンに視線を落とした。

 カバンの中にはスマホが、スマホの中には水族館で撮った写真が入っている。


 チンアナゴと花のツーショット写真も入っている。

 水槽に羽住くんも映り込んでいるから、スリーショット写真だろうか。


 水槽に映り込んだ羽住くんの目を見たとき、よく似た目をどこかで見た気がした。

 それは、九重さんの横顔を見つめる西谷くんの目だったらしい。


 西谷くんが九重さんを見つめる目と、羽住くんが花を見つめる目は――よく似ていた。


「……」


 先週、羽住くんに最後に会ったとき。キスされる直前。

 羽住くんは〝いい推理だけど、肝心なところが間違っている〟と言っていた。


 花は、羽住くんが九重さんとの仲を進展させたくて水族館デートを計画したのだと思っていた。

 そう、推理した。


 でも、もしも、そうじゃないとしたら――。

 羽住くんが言うとおり、大きな勘違いをしていたのだとしたら――。


「あいつ、今年もレギュラーなんだよ」


 ぼんやりと考え込んでいた花は、西谷くんの声にハッと顔をあげた。


「すごい張り切ってるんだ。俺もレギュラーになれたから、今年はいっしょに頑張ろうって……言ってたのに」


 西谷くんは言葉を切って唇を噛みしめた。


 水族館の帰り道、西谷くんが九重さんを誘ったのはスポーツの必勝祈願で有名な神社だった。

 告白するのかも、なんて邪推もいいところだ。


 神社に誘った西谷くんの気持ちも。ずいぶんと長いあいだ、手をあわせていた気持ちも。

 もっと純粋なものだったのに。


 ただ、九重さんに勝ってもらいたかっただけ。

 去年の分まで笑顔になってもらいたかっただけなのに。


「このまま、九重と……普通に話すこともできなくなっちゃうのかな」


 顔をあげた西谷くんはハハ……と、ぎこちない笑みを浮かべた。

 西谷くんの辛そうな表情に、花の胸はずきりと痛んだ。


 羽住くんが好きなのは、九重さんのはずだ。

 九重さんと結ばれるのは、羽住くんのはずだ。


 だって、入学式の日に見たあの光景は――。

 床に倒れている羽住くんと、羽住くんの顔を心配そうにのぞきこんでいる九重さんは、やっぱり人魚姫に出てくる王子さまと隣国のお姫さまそのものだった。


 人魚姫の物語の最後は、王子さまと隣国のお姫さまが結ばれて終わるのだ。


 だから、九重さんと結ばれるのは、やっぱり羽住くんで。

 西谷くんは――……。


 ――いい推理でしたが残念です。肝心なところが間違っています。


 不意に羽住くんの声が聞こえた気がして、花はハッと顔をあげた。

 もちろん気のせいだ。

 目の前にいるのは辛そうな微笑みを浮かべてうつむく西谷くんだけ。


「肝心なところ……」


 ぽつりとつぶやいて、花はじっと西谷くんを見つめた。

 前に考えたことがあった。


 羽住くんと九重さんは、王子さまと隣国のお姫さま。

 そんな二人のようすをうかがっていた花は、海の波間から王子さまとお姫さまのようすをうかがっていた人魚姫。


 それなら、西谷くんは人魚姫の物語のどんな役だろうか、と――。

 どんな役も何もない。肝心なところが間違っていた。


 羽住くんが好きなのが誰なのかはわからない。

 九重さんと結ばれるが誰なのかもわからない。


 ただ一つ、言えることは――。


「私は……人魚姫なんかじゃない」


 これは人魚姫の物語なんかじゃない。


「ハナ?」


 両手で顔を覆ってため息をつく花を、西谷くんは心配そうな顔でのぞき込んだ。


「ごめん、なんでもない」


 花はゆるゆると首を横に振ると、真剣な表情で西谷くんを見つめた。


「私、今から九重さんに謝りに行ってくる。それで今度こそちゃんと、私と西谷くんの噂は誤解だって話してくる!」


「な、なんだなんだ、急に!」


 身を乗り出して鼻息荒く言う花に、西谷くんは目を丸くした。

 でも、首をかしげて少し考えたあと、勢いよく首を横に振った。


「誤解を解くのは俺の役目だ。九重には俺がちゃんと話す。ハナは今日のことを謝るだけにしといて。それにハナが誤解を解かなきゃいけない相手は羽住だろ?」


 西谷くんはイスから勢いよく立ち上がって、にかりと笑った。


「部活、行ってくる! で、九重の誤解は明日、絶対に解く!」


「明日?」


「練習サボったら約束を破ることになっちゃうだろ。今年はいっしょに頑張ろうって約束!」


 にやりと笑って西谷くんは右手の拳を突き出した。

 なんだろうと首を傾げる花に、西谷くんがほれ! と、再び拳を突き出した。

 戸惑いながら花が手を握ると――。


「お互い、頑張ろうな!」


 西谷くんは満面の笑顔で、こつんと拳をぶつけてきた。


 快活な笑顔。

 体育館でバスケットボールを追いかけていたときに浮かべていたのと同じ笑顔だ。


 九重さんに向けるのとは全然違う西谷くんの笑顔に、花は目を細めて微笑んだ。


「うん、頑張ろう!」

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