にじゅういちわめ。

 土曜も日曜も快晴だった。


「いい天気なんだから部屋から出てきて手伝いなさい!」


 花が部屋で本を読んでいると母親がいつものように大声で言った。

 本を開いても内容が頭に入ってこない。

 ちょうどいいかと大人しく部屋から出ると、リビングにいた母親と兄も青い顔になった。


「ど、どうしたのよ、花……!」


「もしかして、お前……病気か? 風邪でも引いたのか!?」


 部屋から出てこいというから出てきたのに失礼な反応だ。

 ムッとする花をよそに母親と兄はうろたえ続け、寝ていろと言われて結局、二日間とも部屋にこもっていた。


 ……いつもどおりの週末だ。

 本を読み進められなかったことを除いて、だけど。


 ***


 週が明けて月曜――。


 十分休みに隣のクラスをのぞいてみたけど、羽住くんの姿は見当たらなかった。

 ただ、席にいないだけなのか。今日も休んでいるのか。


 昼休み――。


 花はお弁当を食べ終えると図書室に向かった。

 本を返却したかったのもあるけど、羽住くんが来ているかもしれないと思ったからだ。


 図書館司書の小林さんは花が来るなり裏の図書準備室に引っ込んでしまった。

 来月の図書館だよりを作りたいんだそうだ。


 花は貸出カウンターに入ってイスに腰かけた。

 結局、読まなかった本の返却手続きをして、最初のページからニシキアナゴのしおりを抜き取る。


 今日の図書室は静かだ。

 花以外、誰もいない。


 羽住くんは今日も図書室に来ないつもりなのだろうか。

 そもそも学校に来ているのだろうか。


 花は自分の唇をそっと撫でた。

 先週の水曜にこの図書室でキスされて以来、羽住くんとは一度も会っていない。


 なんで羽住くんはキスなんてしたのだろう。

 それが理由で学校を休んでいるのだろうか。


 顔を合わせるのは花も少し気まずい。

 でも、このままというのは……前みたいに本の話をすることすらできなくなってしまうのはさみしい。


「気にしてない、なかったことにしようって言ったら……そうしたら……今までどおり、羽住くんと本の話ができるかな」


 ぼそりと花がつぶやくのと――。


「……っ!」


 ダン! と、大きな足音が響くのとは、ほとんど同時だった。

 羽住くんが来たのだろうかと顔をあげた花は、ぎょっとして固まった。


 そこにいたのは九重さんだった。

 九重さんが睨むように花を見つめていた。


「……」


「……」


 重苦しい沈黙と鋭い視線に耐えられなくなって、花は黙って目をそらした。


 九重さんが苛立たし気にため息をつくのが聞こえた。

 それから、遠のく足音も――。


 手元にある本を開いて顔を隠しながら、花は九重さんのようすをうかがった。九重さんの背中は本棚の奥へと消えていく。

 図書室に九重さんが来るなんて珍しい。


 入学式の日に倒れた羽住くんといっしょにいるのを見たけど、そのときだけだ。

 それ以来、一度も図書室で見かけたことはなかった。


 何を探しているのだろう。

 九重さんは本棚と本棚のあいだを行ったり来たりしている。


 抱えている本の背表紙がちらっと見えた。見覚えのある背表紙。あの魔法使いが出てくるシリーズ――〝マリオネット冒険記〟だ。

 先週の水曜に羽住くんが貸出手続きをしないまま持って帰ってしまった本を、羽住くんに頼まれてこっそり本棚に戻しに来たのだろうか。


 でも、羽住くんの図書カードには花が本のタイトルを書いてしまった。

 本の裏表紙に付いている貸出カードに羽住くんの名前を書かないと帳尻が合わなくなってしまう。


 それに九重さんの探し方では、目的の本棚にたどり着く前に昼休みが終わってしまう。

 気まずいけれど、仕方がない。


「あの……九重さん。その本、返却手続きするからこっちに持ってきてください」


 九重さんはぎょっとして固まったあと、露骨に嫌そうな顔をした。

 でも、渋々といったようすでカウンターにやってくると、ドサリと乱暴に本を置いた。


 大きな音に花の肩がびくりと跳ねた。


「は、羽住くんは今日もお休みなんですか?」


 沈黙に耐えられなくて思わず口走ったあとで、余計なことを言ってしまったと後悔した。

 九重さんの表情がさらに険しくなったのを見て、花はあわてて口をつぐんだ。

 返却手続きはやっておくから教室に戻っていいと言うタイミングも完全に逃してしまった。


「真隅さんはずいぶんと平然としてるんだね」


 返却手続きをする花の手元を睨みつけていた九重さんが低い声で言った。

 怒りの色がにじむ声に花は身構えた。


「なおちゃんから聞いたよ。先週の水曜、非常階段で私となおちゃんがいっしょにいるところを見てたんだって?」


 なおちゃん? と、首をかしげる。

 少し考えて、貸出カードに書かれた羽住くんのフルネームが〝羽住 直哉なおや〟だったことを思い出した。

 そういえば、羽住くんも九重さんのことを〝ほのか〟と呼んでいた。


 下の名前で呼んだり、ちゃん付けで呼んだり――。


「そんなに親しい仲になってたんだ。……知らなかった」


 九重さんには聞こえないように小声でつぶやいて、花は苦い笑みを浮かべてうつむいた。

 でも――。


「盗み見してたんだ」


 九重さんの責めるような声に、花はゆっくりと顔をあげた。

 盗み見と言われれば、確かにそうだ。そのとおりだ。


 その通り、なのだけど――。


 でも、西谷くんまで巻き込んで、羽住くんと二人して花をだましていた九重さんに言われたくない。

 責められたくなんかない。


「なおちゃん、あれからずっと部屋に引きこもって本を読んでる。真隅さん、なおちゃんに何したの? 何、言ったの!?」


 九重さんの金切り声が静かな図書室に響く。


「なおちゃんはあんなに悩んでるのに、真隅さんは平然として……起こったことをなかったことになんてできるわけないじゃん! 今までどおり、本の話ができるかなって……そんなに本が大事? なおちゃんの気持ちよりも本の方が大事!?」


 花の独り言を、ちょうど図書室に入ってきた九重さんは聞いていたらしい。

 なんてタイミングが悪い、とは思わなかった。


「なおちゃんにキスされたことも、真隅さんにとってはその程度ってこと? それとも、何? 西谷と付き合ってるから、なおちゃんとの間に何かあったって気にもしないってこと? それって、なおちゃんが可哀そ……!」


 ガタン、と――。


 九重さんの言葉を遮るように、花は大きな音を立ててイスから立ち上がった。

 背筋を伸ばして、花よりもずっと背の高い九重さんをにらみ上げる。


 九重さんには花が全く気にしていないように見えるらしい。


 花に気にしていないのかと聞いたわけでもないくせに。

 花から気にしていないと聞いたわけでもないくせに。


 羽住くんのように心が読めるわけでもないくせに。


 羽住くんにキスされた水曜の放課後から、ずっと。

 水曜の夜も、木曜も、金曜も、土曜も、日曜も、今日だって――。


「本を読んでても、少しも楽しくなかったのに……」


 羽住くんにキスされたことを気にしていないわけじゃない。

 羽住くんがキスのことを、九重さんに話したことにショックを受けていないわけじゃない。


 水族館デートの件でうそをつかれていたことや、羽住くんが九重さんを抱きしめていたことも。

 胸がズキンと痛まなかったわけじゃない。


 花が全く気にしていないように見えるなら、見えるだけだ。


「西谷くんと私が付き合っているのか、とか。西谷くんのことが知りたいなら西谷くん本人に聞いたらいいじゃない」


 棘が刺さったみたいに痛む心のまま、花は棘のある口調で言った。


 素直で正直者で、羽住くんとは違って隠し事が大の苦手な西谷くんのことだ。九重さんに聞かれれば全部、答えてしまうはずだ。

 花が答えることじゃない。答えてあげる義理なんてない。


 それから――。


「私が気にもしてないとか、どう思ってるかとか。それは羽住くんと私の問題で、羽住くんが聞くべきことだから。私が羽住くんに話すべきことだから」


 花はあごを引いて、九重さんを冷ややかな目で見上げた。


「九重さんには関係ない。余計な口出ししないで」


 ***


 花が図書室から教室に戻ってきたのは昼休み終了間際だった。

 席に着くと同時に机に突っ伏すと、すぐにチャイムが鳴った。


 のろのろと顔をあげた花は首をかしげた。

 次の授業は保健体育の〝保健〟で、女子の体育担当のゴリ美が来るはずだ。

 なのに、教壇に立っているのは男子の体育担当のゴリ男。


 黒板にはチョークでデカデカと〝自習〟と書かれている。

 五時間目は急遽、自習になったらしい。


「お前ら、騒ぐなよ!」


 ゴリ男はプリントを配り終えると、念押しして教室を出て行った。

 でも、口で注意したところで無駄だ。


 教室が静かだったのはゴリ男が出て行って二、三分ほど。

 誰かの声がぽつりと聞こえてきて、そのあとは一斉にお喋りが始まった。席移動も、だ。

 仲の良い子同士が集まってプリントをやり始めるようになると、教室内は一気に賑やかになった。


「で、なんで落ち込んでるのさ」


「……っ」


 いきなり肩を叩かれて、花は声にならない悲鳴をあげた。

 振り返るとこのみが意地の悪い笑みを浮かべて立っていた。


「落ち込んでるように見える?」


「まぁね」


 花の前の席の子は友達のところに行ったようだ。空いているイスに座ると、このみは花の頬を突いてきた。

 なすがまま、されるがまま。このみに突かれながら花はうつむいた。


 ――九重さんには関係ない。余計な口出ししないで。


 花がそう言い放った直後、九重さんは何も言い返さずに図書室を飛び出して行ってしまった。

 顔を真っ赤にして、目には涙を浮かべていたように見えた。


 九重さんと教室で顔を合わせるのが気まずくて、花は授業が始まるギリギリまで図書室にいたのだ。

 でも――。


 花は教室をぐるりと見回した。

 九重さんの席にも、いつもいっしょにいる女子バレー部の子たちの輪の中にも九重さんの姿がない。


「当てて見せようか。九重さんと図書室でなんかあったんでしょ?」


「な……!」


 なんで知ってるの!? と、叫びそうになって花は慌てて口を押さえた。

 ここで目立つようなことをしたら、また九重さんと仲の良い女子バレー部の子たちににらまれてしまうかもしれない。


 このみも同じことを考えたのだろう。花の耳に顔を寄せ、声をひそめて言った。


「このみさんの目を誤魔化そうったってそうはいかないわよ。……と、言いたいところだけど、ちょっとあったから」


「ちょっと……?」


「泣きながら教室に戻って来て、そのまま早退したんだよ」


「九重さんが?」


「そ、九重さんが」


 このみがこくりと頷くのを見て、花は頭を抱えて机に突っ伏した。


 ちょっときつい言い方をしてしまったとは思う。

 だけど、まさか、そこまで傷つけていたとは――。


「花さんには小学校の頃から何度も言ってきたと思います」


「何をでございましょう、このみさん」


「教室でいつも本を読んでいる花さんは、ろくすっぽ喋ったことのない人たちには大人しくて物静かな子だと思われているのです。普段、大人しくて物静かな子がキレると、まわりを予想以上にビビらせてしまうのです」


 確かに、小学生の頃から何度も言われてきた。

 続きもきちんと覚えている。


「だから、定期的にちっちゃく怒ったり、バカ騒ぎしたりしておきなさい、と」


「このみさんには小学校の頃から何度も言ってきたと思います。だから、何その不思議なアドバイス、と」


「意外と有益なアドバイスだったかもって思い始めてるんじゃない?」


 にんまりと笑うこのみに花は額を押さえた。

 手放しで頷くことはできないけど、ちょっと揺らいでいる自分もいる。


「友達に図書室に行ってくるって言ってたみたいだし、西谷とのこともあるし。もしかしたら、女バレの子たちになんか言われるかもね」


 このみはちらっと、九重さんと仲の良い女子バレー部の子たちを見た。

 花とこのみのようすをうかがっていたらしい。視線が合ってしまった。

 でも、女子バレー部の子たちは視線を逸らさず、むしろ花とこのみをキッ! と、にらみつけてきた。


「なんか言われるくらいなら……まぁ、いいけど」


 睨み合いをしていても仕方ない。

 花は女子バレー部の子たちから目を逸らすと、頬杖をついてうつむいた。


「まぁ、なんかあったらすぐに相談しなさい。とりあえず、今は……こうだ!」


「……っ」


 うつむく花の頭を、このみはくしゃくしゃに撫でまわした。

 あまりの勢いに目を白黒させていると――。


「一組、うるさいぞ! 大人しく自習しろ! 席に戻れ!」


 隣の教室で授業をしていた数学担当の先生が教科書片手に怒鳴り込んできた。

 クラスメイトたちは蜘蛛の子を散らすように席に戻っていく。


「やばっ!」


 このみもイスから立ち上がると、慌てて自席に戻ろうとした。


「このみ!」


 そんなこのみを呼び止めて、花は身を乗り出した。


「ありがと!」


 このみはきょとんと目を丸くしたあと、ニカリと笑ってみせたのだった。

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