03 Mizuki

 「ただいま」

 玄関を開けると、誰に向けてでもなくそう言って、私は自分の部屋に飛び込む。

 ママがキッチンの方からなんか言ってたみたいだけど、無視した。

 クローゼットの一番奥に重ねられた収納ケースの一番下段。そのさらにずっと奥の方に仕舞い込んだ服を、引っ張り出す。

 もう長い間そこに入れられっぱなしで、防虫剤臭くなったそれを、ばんばんとはたいてシワを伸ばしてから、目の前に翳した。

 ちっちゃい子供向けの、淡いクリーム色のワンピース。

 私が私の記憶を、消し去ろうとしたきっかけになった一着。

 心の、ずっとずっと深いところに押し込んでいた、当時の同級生から向けられた、あの言葉。嘲笑。それが耳の奥のほうで、じわりとおぼろ気に、甦ってくる。

 私は忘れてた。

 あえて、忘れようとしてた。

 私の“好き”は、ずっと、このクローゼットの奥に封印されてたんだってこと。


 きっかけは、私が小学校に入学して初めて迎えたお正月だから、もう一昔前だ。

 毎年三が日の最終日、母方の親戚が祖母の家に、一同に会す習慣があった。そこでママの妹、真奈美さんと出会った。

 忙しい人らしく、その年も、祖母の家にくるのは数年ぶりだったらしい。

 きらきらした人だった。

 部屋着に毛が映えた程度の服装だった親戚たちの中で、真奈美さんだけは、綺麗な、ある意味気の張った格好をしてた。

 白いブラウスに、薄いベージュのロングスカート。生地は滑らかで、ブラウスとスカートの中央に、すっと線が引かれたように濃いブラウンの大きめのボタンが並ぶ。

 絶妙な、色合いと、バランス。

 子供の目線でも、すごく整った感じの綺麗さだった。だからそれはそのまま、「きれい」と無意識に、言葉になって私の口から零れ落ちた。

 「あらミズキ、興味ある?綺麗なお洋服とか」

 私は、力強く頷いた。


 それから毎週一度、私は真奈美さんの家に通った。

 通い初めてから、真奈美さんは、大手アパレルブランドのアルバイトの販売員から、独学で服飾を勉強して、フリーランスのデザイナーにまで成りつめた人なのだと知った。

 全体的に派手さはなく、落ち着いた雰囲気ではあるれど、そのデザインの中に、さりげなく、でも斬新なアクセントを、するりと差し込むバランスの絶妙さが、真奈美さんの服の特徴で、それが、人気の要因だった。

 そんな真奈美さんは、まだ小学一年生の私に、ものすごく丁寧に、でも、今思えば小学生には本格すぎるくらい専門的な、服作りの在り方を教えてくれた。

 そしていつも、デザインを起こした型紙を切るときに、言うのだ。

 「いつもこの瞬間に、思い描いた服に命が宿る気がするの。多分これって、凄いこと。だからこの瞬間に私は私を、すごく誇らしく思えるんだ」

 その言葉は果たして、まだ幼かった私に向けていたのか、本当は他の何か、或いは誰かに向けていたのか、それがわからないくらい言葉の矛先がふわりとしていた。でも、私の胸には届いた。響いた。だからその頃の私は、服作りに夢中になった。

 無我夢中で、服作りに没頭している瞬間が、私は一番好きだった。

 真奈美さんと同じように、私は私を、誇らしく思っていた。


 ガクトの小学校三年生の時の誕生日の直前、私は、真奈美さんの手も借りつつ、ガクトにプレゼントするつもりで、ひとつシャツを縫い上げた。

 真奈美さんの家に通い初めてから3年。それなりに、服作りの在り方がわかってきた頃だ。

 以前にも、まだ実験中だから、みたいな言い訳を添えて、Tシャツみたいな簡単なものをガクトに渡した事は何度かあったけど、その時のそれは、集大成みたいなものだった。

 淡い赤と、黒と白が交錯したネルシャツ。

 今までのどの作品より、数段、難しかった。その分、気持ちは込められた。

 私も私で、自作のワンピースを着て登校したその日の放課後、帰り道の途中で、ガクトにそれを渡した。

 「なんだよこれ、めちゃくちゃかっけーじゃん!」

 ガクトは喜んでくれた。

 不器用な人だから、嘘はつけない。本当に本心から、喜んでくれたんだと思った。

 でも、渡す場所とタイミングが、悪かった。

 ちょうど、サッカーボールを持って公園に向かう、クラスの男子の一団と、遭遇した。

 「ガクト、何それ?」

 そのうちの一人が、ガクトの手にあったシャツを見て、問いかける。

 「すげえだろ、ミズキの手作り。俺今日、誕生日だからくれたんだよ」

 「手作り?プレゼントって普通買うもんだろ」

 別の男子が言う。

 「ナカオカが着てるそれも手作り?なんかダサくね?」

 と、また別の男子。

 「お前んちってもしかして、服買ってもらえないくらい、ビンボー?」

 さらにまた別の、男子。

 言葉自体は多分、気にかけるほどでもなかったんだ。それ自体はあくまで、ただのきっかけだった。

 私を打ちのめしたのは、それを追っかけてきた、ガクトを除く、その場にいた男子たち全員の弾けるような、笑い声のほうだ。

 八方から、エフェクトがかかったみたいな誇張された響きで、それは私の耳と言うより胸に覆いかかってきて、締め付けた。

 世界の常識からお前は逸脱しているんだと、私以外の世界の皆が、蔑んでいると思い込んでしまうような、錯覚。その暗い闇に、突き落とされる。

 痛かった。

 私が存在する意味そのものを、私の家族ごと、真奈美さんごと、嘲笑われた気がした。

 卑下する側の容易さと、それを受ける側の傷の深さの、ギャップ。

 そのギャップが傷ついた胸を更に締め上げるように、とどめを刺しにやってくる。

 大切にしていたものを蔑まされること。踏みにじられること。それがこんなにも苦しいなんて、私は知らなかった。

 「お前らやめろ、ふざけんな」

 ガクトが凄むと、笑い声が止む。

 でも、胸苦しさは、私を解放してくれない。

 ガクトの手からネルシャツをむしりとり、私はみんなに背を向けて駆け出した。


 その日から私はガクトをガクトと呼ばなくなり、しばらくしてガクトも、私をナカオカと呼ぶようになった。


 たった、それだけの事だったのだ。思い返してみれば、たった、それだけの。

 ただ私が、弱かっただけ。

 収納ボックスに手をつっこんで、もう一着を取り出す。

 ちっちゃなネルシャツ。ガクトに、着てもらうはずだったもの。

 それも同じように目の前に翳すと、はらりと、紙片のようなものが、シャツの隙間から漏れ落ちた。

 ベージュ色の、型紙のかけら。

 ―――この瞬間に私は私を、すごく誇らしく思えるんだ。

 真奈美さんの言葉が、脳裏に甦る。

 そう。

 胸を張っていればいい。誇りを持てばいい。

 やっと思い出した。その、大切な気持ち。

 悔しさが姿を変えて、胸の奥からこみ上げてくる熱みたいなものになる。それを振り払うように、私は両の頬を平手で叩いた。

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