02 Mizuki

 「お前さ、帰りのホームルームくらい出てこいよ。カバン届けようとすると、クラスの連中冷やかしてきて、面倒くせえんだよな」

 保健室を出ると、少し不機嫌そうに、その人は言った。

 こうやって、並んで廊下を歩くだけで、胸がとくんとくんして、ちょっと痛い。

 触れそうで触れないくらいの距離の二の腕が、ちりちりする。

 「聞いてる?」

 私が何も返さないでいると、イライラが少し増した感じの声が返ってくる。

 「別にさ、レイナに頼んでくれればいいじゃん」

 私はわざと、望んでもいない言葉で返す。素直に、ありがと、が言えない。憎まれ口みたいになっちゃうのが、もどかしい。

 「アイツがそもそも運ばせるんだよ、率先して。保健室にカバン届けるのに、家が近いとかカンケーないじゃんかよ」

 ぶつぶつと言ってその人は、溜め息を吐く。面倒そうな感じを醸し出してはいるけれど、不思議と棘はない。そういう、優しさのある人。

 「で、体調大丈夫か?最近お前、保健室に籠っちゃうこと、多いだろ」

 少し照れ臭そうに、その人は聞いてくる。

 絵里先生とは違って、鈍感な人なのだ。私の仮病に気づいてない。そんなところがちょっとだけ、かわいい。そしてそう勘違いさせてしまっていることに、ちょっとだけ、罪悪感も感じる。

 「多分、受験のストレスみないなものなんだと思う。よく目眩はするけど、心の問題?みたいな。だから、多分、大丈夫」

 とは言え女は、ここぞとばかりに武器を使う。大丈夫と言いつつも、取り繕ったニセモノの顔色の悪さを、ちらつかせる。

 「お前、今日もバスで来たんだろ。送ってくからチャリの後ろ、乗ってけよ」

 作戦成功。


 片側二車線の、歩道と自転車の走行路が別れた広い幹線道路を、その人の背中にぴったりと張り付いて、自転車で走る。

 「よっと」

 胸を背中に押し付けると、さりげなく逃げるように、その人は立ち漕ぎを始めた。

 さりげないフリをしてるけど、赤くなった耳の裏側を見て、照れてるのがわかる。

 ウブな人なのだ。

 「受験勉強ってさ、やっぱ大変?」

 吹き抜けていく風にかき消されないように、その人は声を張って聞いてくる。

 「めっちゃ大変!病んじゃうくらい!」

 負けじと私も、声を張る。

 「何も助けてやれないけどさ、あの―――がんばれよ」

 張っていた声の、語尾の方は弱くなって、車道をひっきりなしに走る車の音でかき消されそうになる。でも、ちゃんと聞こえてるよ。

 「ありがと」

 ぼそりと言う。

 「え?!何?」

 私のその一言を聞き直そうと、その人はまたサドルに腰を下ろして、顔を半分だけこっちに向ける。

 「何でもなーい!」

 言いながらもう一度、その人の背中に胸を当てる。

 今度は立ち上がらずに、その人はそのまま、ペダルを踏み続ける。

 この道が、ずっとずっと、地の果てまで続いていけばいいのに、と思う。


 「じゃあ俺、買い物してから買えるから」

 家から最寄りのスーパーに着くと、私を自転車から降ろして、その人はそう言った。

 自転車を停めてスーパーに入ろうとするその人の制服の袖を、摘まむ。もうちょっとだけ、一緒にいたい。その想いが、衝動的に、反射的に、私の手を動かした、そんな感じだった。

 「家のこととか、忙しいのはわかってんだけどさ、小腹減っちゃって。ちょっとだけ、付き合ってよ」

 緊張しながら言った。やめとく、の一言をぶつけられるかもと、内心怯えながら。

 「そうな。俺もちょっと、腹減ったわ」

 以外にも肯定の返事が帰ってきて、私は私の顔が綻びそうになるのを実感する。でも、緩ませない。悟られないように、無表情を貫く。

 ふたりでベーカリーコーナーへ向かって、私はベーコンエピ、その人はカレーパンを買って、スーパーの隅っこの、イートインコーナーで向かい合って腰かけた。

 座るなり、その人はカレーパンに噛りつく。ちょっと野蛮な感じ。でも、それがいい。私はいちいち、胸を高鳴らせる。

 「そういえばさ」無言の空間を埋めるように、私は口を開く。「受験、しないんだよね?卒業したら、どうするの?」

 ついでの勢いで、前から気になってた事を聞いてみる。

 「調理師の専門」

 結構勇気を出して聞いてみたのに、その人はあっさり返す。

 でも、調理師なんだ。意外。

 「料理、好きだったっけ?」

 「んー、嫌いではないけど、別に死ぬほど好きってわけでもないかな」

 「じゃあなんで?」

 「とりあえず、手っ取り早く稼げそうだし、調理師の資格持ってたら、食いっぱぐれはなさそうじゃん」

 「でもさ、好きでもないことで、いいの?」

 「仕事ってそんなもんだろ」

 その一言で、私は言葉を継げなくなる。

 ―――仕事ってそんなもん。

 確かに、その通りだ。

 働くってことに、私は何を期待してるんだろうか。

 考えても、答えは出ない。

 いや、そもそも何をどう考えればいいのかすら、わかってない。

 今は大学に入り込む事だけに必死で、入った後のキャンパスライフまではあれこれ妄想できても、更にその先の、卒業した後のイメージは、とてつもなく濃くて白い、靄の向こう側にあって、何も象らない。

 “そんな”ふうで、いいのだろうか。

 思考はまた、そのループに嵌まる。

 「お前はどうなの?」

 逃げ場のない思考の沼から私を引き摺り上げてくれたのは、その人の声だった。

 私は、我に返る。

 「私?」

 「目指してないの?デザイナーとか」

 ―――デザイナー。

 その言葉はすぐに、私の頭の中で像を結ばない。

 「ほら、ガキの頃よくさ、手作りの服、くれたじゃんか。今はもうそういうの、やってないのかって。お前の言う好きなことって、そういうことだろ?」

 古い記憶が甦る。

 私の胸のずっと奥の方に仕舞い込んだ、熱。

 それが燻る。

 忘れた記憶。忘れたかった記憶。忘れてやると思い込んで、本当に忘れてしまった記憶。それがその人のその一言で、フラッシュバックした。

 「俺、なにげにお前が作ってくれるアレ、気に入ってたんだけどな」

 その人のその言葉に、私は眼差しを上げて、その人を見据える。

 アレ。

 もやもやを晴らすヒントが、“そんな”を打ち消すヒントが、そこにあるような気がしてくる。

 確かめたい。衝動的に、そう思った。

 私は勢いよく立ち上がり、スーパーの出口へと足早に向かう。

 「お、おい・・・」

 背中にその人の声がぶつかる。

 振り返り、その人に向けて言う。

 「ありがと、ガクト」

 久しぶりに、下の名前で呼んだ。自然とそれが、口をついた。

 その私の言葉に一瞬ためらった後、その人は、笑顔で返してくる。

 「なんだかわかんねぇけど、がんばれよ、ミズキ」

 私も久しぶりに、下の名前で呼ばれる。それが嬉しくて、くすぐったくて、今度は躊躇わず、顔を綻ばせた。

 そして私は再び踵を返し、スーパーを飛び出す。

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