ある秋の朝、みーちゃんのお父さんは亡くなりました。

 肝臓の病気で、お酒の飲み過ぎが原因でした。みーちゃんはもちろんのこと、お母さんの落ち込みはひどいものでした。


 その3ヶ月後に、今度はお母さんが体調を崩しました。検査をすると、大腸の病気にかかっていると分かり、入院することになりました。



〝お前の家、呪われてるんじゃねぇか?〟



 男は、みーちゃんに言いました。

 このような暴言と、そして暴力は日常茶飯事になっていました。

 しかし驚くことに、この男はみーちゃんとの結婚を考えているようでした。


 お前は負け組だ。男に縋って生きるしかない。俺が養ってやるから感謝しろよ。


 これがプロポーズの言葉でした。






 みーちゃんは、仕事場と病院を行き来する日々が続きました。


 お母さんは難しい手術を乗り越え、助かりました。みーちゃんは嬉しくて涙が出ました。男に何をされても泣かないのに、この時ばかりは涙が止まりませんでした。


 お母さん。

 みーちゃんが不登校になっても怒らずに、そっと見守ってくれたお母さん。


「仕方がなかったのよ」


 みーちゃんは、お母さんを愛しています。

 

「この世界で生きていくためには、私やお父さんみたいな人が、変わるしかなかったのよ」


 お母さんはみーちゃんではなく、壁を見ています。手術後、お母さんはこうして独り言を呟くようになりました。


「人間って勝手よね。平気で人を傷つける、マウントをとる、仲間外れにする。……自分がやられて嫌なことは、他の人にもやらない。そんなの当たり前なのにね? なのに、どうして分からないのかしら? どうして理不尽をやめられないのかしら?」


 みーちゃんはじっと耳を傾けます。


「残念だけど、他人は変えられない。他人に変化を期待をしても無駄だから、私とお父さんは自分を変えることにしたの。他人の悪意に対して、受け止め方を変えたのよ。いろんな嫌なことがあったわ。そのたびに私たちは変わっていった。変わって、変わって、変わって変わって変わって変わって変わって、変わっていったのよ」


 元々の私たちって、どんな人間だったのかなぁ?

 変わりすぎて、もう分からなくなっちゃった。


 お母さんはそう言い残して、夢の世界の住人になりました。

 体は現実にあっても心は夢の中です。みーちゃんがお見舞いに来ても、ぼんやりしています。


 それでもみーちゃんは、お母さんが大好きでした。




 みーちゃんは25歳になりました。

 お母さんは精神病棟に入り、そして男とはまだ付き合っています。


 みーちゃんは、例の夢を見る夜が増えていました。

 みーちゃんが殺し続けてきた〝過去のみーちゃんたち〟が眠る、あの墓地の夢です。




 どうするの


 もうないよ


 埋める場所


 もう無イよ




 数年前、初めて会った被害者はそう言いました。


 彼女の言う通り、埋葬するスペースはありません。墓石がまるで、夏祭りの人混みのようにひしめき合っています。

 それでも殺人をやめられなかった結果、死体の山が出来ました。地中に埋められないから、地上に積んでいったのですが、5つ目の山でとうとう限界になりました。


 いろんな服を着て、いろんな箇所から血を流しているみーちゃんの無残な死体が、月に届きそうなほど高く重なっています。


 どうしたものかと悩んでいると、目が覚めました。

 みーちゃんを起こしたのはアラームではなく、男からの着信でした。

 時刻は午前2時25分。今すぐマンションに来い、という一言だけで電話は切れました。

 外は雨が降っていました。



 部屋に着いた途端、みーちゃんは灰皿を投げられました。幸いにも灰皿はドアに当たりました。

 みーちゃんは、男がかなり酔っていることに気がつきました。ローテーブルの上にはワインや焼酎がたくさん並んでいます。


「どいつもこいつも死んじまえ!!」


 男は荒れている理由を話し始めました。

 会社の昇級試験に落ちたそうです。そして彼の同期が受かったそうなのです。その同期の人の名前は、みーちゃんも知っていました。〝あいつは仕事が出来ない役立たずだ〟と、ずっと男から聞かされていたのです。

 会社への恨みつらみを吐いた後、男は叫びました。


「お前のせいだ! お前の家の不幸が俺に移ったんだ! お前の父親が死んだのも、お前の母親がバカになったのもお前のせいだ!」


 男はソファーからベランダに向かい、そして手すりの上に座りました。


「死んでやる! お前のせいで俺は死ぬんだ!」

 

 みーちゃんはハッとなりました。

 男のすぐそばに、自分と同じ姿の女性がいたのです。ベランダに座り込む彼女は、みーちゃんを見ながらカタカタと震えていました。



––––〝あぁ、あんなに怯えて〟



 みーちゃんには分かりました。

 彼女は、自分自身なのだと。

 今夜、彼女は私に殺される。

 押し込められて、無理やり消されてしまう、自分の〝心〟。

 今まさに男から受けている仕打ちを、みーちゃんはいつも通り我慢します。

 つまり彼女は殺されて、男は生きるのです。


––––〝生きる?〟



 この男の方が、生き残る?



 みーちゃんは、男と彼女を交互に見ました。それをしばらく続けていると、男が視線に気付きました。


「何だ? 文句あるなら言ってみろよ」


 男は鼻で笑います。


「って、言えるわけないか。お前バカだもんな。自分の考えを言葉に出来ないもんな。お前の両親もそうだったよな」


 相手の機嫌を窺うようにヘラヘラ笑ってよぉ。

 つまらねぇ人間だったな。

 お前の両親ってさ、生きてて楽しかったのか?

 あんな人生、俺は絶対に嫌だね。


 その瞬間でした。


 みーちゃんの心にふんわりと、だけどしっかりとした〝思い〟が生まれました。


 ゆっくりと、男へ近づいていきます。


「あの、私ね」


 足の裏がベランダの冷たい床に着くと同時に、みーちゃんは口を開きます。


「貴方はすごいと思うの。私と違って、頭の中に浮かんだ〝思い〟をすぐに言葉に出来るでしょう。お父さんとお母さんも〝頭の良い人だ〟って褒めていたよ」


 みーちゃんの両親は、男の本性を知りませんでしたから。


 男は、まんざらでもなさそうな顔をしていました。傷ついた自尊心に、みーちゃんの発言が響いたみたいです。


 一方、男とみーちゃんの間に座る彼女は、キョトンとしています。


「まぁ、アレだな。今回は俺を選ばなかった奴らが無能だったんだよな?」

「うん」

「次は俺が受かるよな?」

「うん」

「だよな、そうだよな。あぁ美優みゆ、やっぱりお前だけだよ。俺を理解してくれるのは」

「死ねよ」

「え?」

「死ね」



 トン。



 軽い音でした。


 弱い力でした。


 それでも不安定な姿勢で手すりに座っていた男は簡単に突き落とされ、黒に染まる真下へ落ちていきました。


 みーちゃんは、彼女の方へ目線を変えます。

 彼女は目を見開いていました。この部屋は12階なので、男は確実に死んでいるでしょう。てっきり自分が死ぬと思っていた彼女は、キョトンとしていました。


 みーちゃんは彼女を抱きしめました。


「頭の中に浮かんだ〝思い〟をすぐに言葉に出来る人ってすごいと思うの。それは本心よ。……だけどね、言葉に出来なかった〝思い〟をあざ笑う人や、想像出来ない人はバカよ」



 もう大丈夫よ。

 私は殺さない。

 は殺さないから。


 いつのまにか彼女の姿は腕から消えていました。

 体温も感触も残っていない右手で、みーちゃんはスマホを取り出します。


「もしもし! あの、恋人が酔って、ベランダから落ちてしまって……」




 男は即死でした。


 男の酒癖の悪さは、彼の親も同僚もみんな知っていました。なので飲み過ぎで起きた事故だと処理されました。


 みーちゃんは今日もお母さんのお見舞いに来ています。

個室の部屋のベッドで、お母さんは壁を眺めています。


「うるせぇんだよ、クソババア」


 お母さんがまた、叔母さんに言っています。きっと夢の中で、大嫌いな叔母さんに言い返しているのでしょう。


「やめて。私の可愛いみーちゃんをいじめないで。みーちゃんの靴下を取らないで。返して。いじめないで」


 今度は、昔のみーちゃんを必死に守ってくれています。今、目の前にいるみーちゃんを認識出来ないのに。


 みーちゃんは、お母さんのお腹にそっと触れました。


 お母さんの大腸がまた悪くなりました。体力が衰え、わずかな期間で10キロ近くも痩せました。もう投薬には耐えられず、あまり長くはないだろうと先生は言っていました。


「お父さんは肝臓の病気だったね」


お父さんも最後は痩せ細っていました。


「大腸や肝臓みたいに〝こころ〟っていう臓器があれば良いのにね。心が傷ついた時には、そこから血が流れたらいいのに」


 いつだったか、みーちゃんは誰かに言われました。〝悲しい時は泣きなさい〟と。


「泣いても、鬱陶しがられるだけよ」


 涙じゃない。血だ。

 流したいのは血なのです。


 誰かの心が傷ついていることが、誰の目から見てもハッキリと分かるように。


「私、これからどうなるんだろう」


 みーちゃんは男を殺しましたが、驚くほど罪悪感がなく、警察に捕まる不安も感じませんでした。

 みーちゃんが心配していることは、これから自分が何者になるのかということです。


 みーちゃんは、痛みや苦しみを言葉にする能力を持たない大人になりました。言葉にならない怒りを、我慢することで平穏に生きてきました。でもみーちゃんにはもう、我慢の力は残っていません。


 何となくお母さんを見てみます。目を閉じて眠っていました。どんなに痩せても、お母さんの横顔には慈愛が残っていました。


「お父さんの死に顔もキレイだった……。この前、お母さんは言っていたよね? 他人を変えることは出来ないから、お父さんとお母さんは自分たちを変えてきた。変わって、変わって、変わってきた」


 どれだけ変化を繰り返しても2人は美しく優しいと、みーちゃんは思いました。


 みーちゃんは、次は辺りを見回します。

 います。うじゃうじゃいます。


 これまで殺してきた〝みーちゃん〟たちが、墓地から蘇ったのです。彼女たちはゾンビのような風体で、病室を徘徊しています。数は非常に多く、ここに入りきらなかった者たちが、病院の廊下やロビー、駐車場にまで溢れています。もはや病院の敷地を越えて、町中にみーちゃんのゾンビが蠢いています。

 みんな嬉しそうです。


 あの男だけでは足りない。

 これからは、もっとたくさんの〝理不尽〟を殺そう。

 私たちは自由だ。



「うん、大丈夫。もうお墓は作らないよ」



 今年、みーちゃんは25歳になりました。

 人間が生きた時間としては短いですが、いろいろなことに耐えてきた期間としてはあまりに長すぎました。

 みーちゃんは予感します。自分は両親のような人間にはなれないと。

 2人は最期まで人間の姿を保ちましたが、自分の末路はきっと化け物だろう。



「行こう、みんな」



 立ち上がったみーちゃんに、ゾンビたちは嬉々としてついて行きます。




「……みーちゃん」


 お母さんの唇が動きました。


「大好きよ。お父さんも、みーちゃんも、だいすき」


 小さな寝言は、病室のドアが閉まる音と重なって、みーちゃんに届くことはありませんでした。

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みーちゃんは殺人鬼です。 麻井 舞 @mato20200215

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