快楽は夢ほどにも残らない

菅谷聡

快楽は夢ほどにも残らない

 花が流れている。押されては水槽のふちに何度もぶつかり、跳ね返されて漂っている。苔の生えた造花が二輪。嫌というほど生い茂った木々、蔓、草むらを抜けた先にあるトタン小屋。敷かれた湿気った布団。雨サッシの下で花が揺れている。

「本当に25歳?」

 話の間をもたせようと男は盛風に訊ねる。

「はい、嘘ついても仕方がないんで」

 盛風はズボンにベルトを通しながら答える。

「よかったらLINE交換しようよ」

 男は身体と携帯を寄せ付けてくる。

「いいですよ」

 二人はいそいそと薄暗い小屋でスマートフォンを擦る。

「また暇なとき会おうよ」

「はい、機会があれば」

 機会は作る気がなければ来ない、盛風はシャツのボタンを締めながら思った。

「どこまで送っていけばいい?」

「バイパスの、役場手前のファミマまで。そこまで送ってもらえると助かります」

「わかった」

 盛風は肩を抱かれながら小屋の外に出た。

「うわぁ、ドロドロだよ」

 ぬかるみに男の安い革靴が沈んでゆく。靴磨きしてもらうぐらいなら新しく買ったほうが安上がりになる程度の靴だ。

「このあと職場戻らなきゃいけないのに」

「お疲れ様です」

「いや本当だよ」

 男のYシャツが雨に透け、白いシャツのラインが浮かぶ。小屋の横に赤いプリウス。藪や畑からは浮いている。

「ここから津嘉山バイパスに出るには」

「僕が案内しますよ」

 ナビでは道なき平地にぽつんと現在地が表示されている。ETCカードの更新が間近です、と道順の代わりにナビは教えてくれた。

 五分もすれば車は津嘉山バイパスを走っていた。バイパス沿いは絶えず拡張工事が行われている。アスファルトだけがどんどん新しくなっている。

「やっぱりそこのマックスバリュでいいです」

「了解」

 集落にとっては象徴的な店だった。コンビニでもない24時間営業の店には常に車が停まっている。

「ありがとうございました」

「いいよ。お礼なんて」

 盛風ははにかんで会釈した。

「それじゃあ、また。気をつけて帰ってね」

 雨がプリウスのタイヤ周りの泥を落としていく。盛風は小腹が空いていたし、涼みたい気分だったのでそのまま店に入った。よく効いたクーラーは男のぬくもりのようなものを簡単に吹き飛ばしてくれた。オリジナルブランドのお茶とシュークリームをもってレジに並ぶ。同級生の姉が担当している列を避け、きっとどこか遠い場所からこの集落へ来たであろう新人のレジを待つ。ネームプレートには若葉マークの横に「ケイティ」という名前が書いてあった。

「レジ袋は必要ですか?」

「いいえ、大丈夫です」

「お支払いは?」

「edyで」

「すみません。対応していません」

「じゃあ現金で」

「194円になります」

 湿気った財布からしけた小銭を出してきっちり払う。edyが使えないことははじめから知っていた。

「ありがとうございました」

 ケイティのはにかみは盛風よりも堂に入っていた。

 店を出ると雨は大粒になっていた。軒先で弱まるのを待ちながらシュークリームの包装を破る。盛風はさっきまで男と会っていたことが数日前のことのように思えた。


 その男とは一週間前にTinderでマッチした。意気投合という訳ではない。プロフィールにも「夜伽の相手を探しています」というようなことを書いているわけではない。なんとなしに互いの了解があった。軽い挨拶のメッセージの後、すぐに日時の調整となった。盛風はいつでも相手の都合に合わせられた。男のプロフィールには「Masaki」とあったが本名かどうかは定かでない。盛風はなるべく相手の名前を呼ばないようにしたが、どうしても呼ばざるを得ない際は便宜上マサキさんと呼んだ。

 男は意識していなくても仕事の愚痴、功績のようなものをどことなく会話に混ぜてきた。話を総合してみると、県内では稼ぎの良い安定した職場に勤めているようだ。確かに車のシートはオプションなのか家庭用にしてはフカフカしていたし、時計はスマートウォッチだった。身体も引き締まっていた。安っぽいのは足元ぐらいだった。あと妻帯者らしいが上手くいっていないようだった。

 シュークリームを食べ終わり、お茶を飲み干してもなお雨脚は弱まる気配を見せない。どうせ帰ればシャワーを浴びると腹を決め、盛風は歩き出す。もし今度会うことがあれば足代ぐらいもらおうと思った。3,000円ぐらいなら「援」にもならないだろう、というのが個人的な線引だった。

 バイパスを南進し、軽トラも通れない道を抜け、報得川に沿って歩く。急に家畜の臭いが濃くなり、舗装も穴が目立つようになる。街と同じなのは番地ぐらい。街と集落を隔てるものがあるとすれば、まず川であり、口調のちょっとした抑揚であり、においだった。何も堆肥だけではない、家や車の中に充満するものが違う。

 街に住む人はどうして柔軟剤や香水をそこはかとなく匂わせてくるのだろうか。それが街のしきたりなのだろうか。アスファルトの農道からさらに砂利のあぜ道を進み、またもや現れる鬱蒼とした緑の先に盛風の家はあった。

 早急に改築の必要な平屋。せいぜい耐えられて震度四強といったところか。復帰前、建築法もそこまで気にされていない頃に建てられたその家に、鍵は掛かっていない。祖母も住んでいるが、それぞれ独立した生活を送っている。彼女はこの時間帯だとデイサービスに通っている。入所手続きに関与していないので、どんなサービスを受けているのか検討もつかない。勝手な想像に任せるなら、きっと大雑把に年寄りとして括られた人々が七十代も九十代も同じ歌を聞かされているのだろう。仮に七十年後もそういう福祉が残っていて、盛風が行くことになった時、いったい何を聞かされるのだろうか?ヒップホップ?たぶん童謡じゃないかと盛風は睨んでいる。

 仏間のささくれた畳にポケットの中身をぶちまけて、風呂場に向かう。信じられないほど熱効率の悪い湯沸かしは無視して、汗と雨水を常温のシャワーで流す。この家のシャンプーと石鹸も強い臭いには勝てないラインナップだ。今度ビッグワンに行く時にでも、強烈な、いかにもアメリカっぽい銘柄を買おうと盛風は思った。エメラルドグリーンに腐食した洗面台の鏡に盛風の身体がぼんやり映る。男に強く捕まれた箇所はうっすら痣になっている。そこ以外はなんの変哲もない身体だった。貧相でもふくよかでもない身体だった。

 髪も乾かないうちに自室のベッドで横になる。中学校二年の頃、南風原の今では潰れた家具屋で買ったこのベッドは、もうじき全ての足が折れるだろう。天井には隠しきれない黒いシミ、壁の裏はシロアリの餌食、この家も長くはない。不釣り合いなほど光沢感のある川底の石のようなスマートフォンが、地虫に似た震えた音を出す。メッセージが幾つか届いている。

 一人の男、二人の女と新たにマッチしていた。一人目の男、同年代で、性欲がプロフィール写真に滲んでいた。一人目の女、まだ学生で自分はアプリ初心者だと訴えかけていた。二人目の女、夜職をしていて、子どもがいるので理解して欲しいと絵文字を絡めてプロフィールに書いている。盛風は持続可能な出会いを心がけている。


 一、自分をすり減らすような出会いはしない


 一、金銭のやり取りはしない


 一、プライベートに深入りしない


 などなど十カ条ぐらいある。義務教育のカリキュラムに組み込んでいいぐらいの基本的なこと。しかしながら特に共有されたルールでもないし、出会いには仄暗い領域がリアルだろうとネットだろうと潜んでいるもので、そこがソーシャルという単語を冠する以上は避けられない。通り魔的に厄介な仕草を見せてくるアカウントに出くわすこともある。


 一、ブロックはせずに放置


 これはルールというより矜持である。五分の魂さえ持ち合わせないような下卑た人間に情けを掛けることで積まれる「徳」のようなものが、いつか自分を救うことがあると信じている。

「はじめまして。likeありがとう!お手柔らかによろしくお願いします。」

 その三人には予測変換で出てくるテンプレートを送った。返事は来ようが来まいが、どちらでもよかった。

 未読のメッセージにもう一通、今日の夕方に約束をしているチョチというアカウント名の女からもメッセージが来ていた。

「18時に運動公園の駐車場に迎えに行くから」

 チョチのメッセージに二度押しでいいねを付けてから返信する。

「うん。わかった。ありがとう。駐車場ってどれ?」

 盛風は仕事を辞めてから三ヶ月ほど、特に失業保険が受給されてからというもの、Tinderを始めとしたマッチングアプリや昔かたぎの出会い系サイトをすること以外のやる気が湧かなかった。会ったり会わなかったり、ご飯に行ったり行かなかったり、セックスしたりしなかったり、色々なケースがあった。チョチとは二週間前にマッチしてからお茶をして、身の上話を聞くなりしていた。曰く本土からやって来て、結婚して、家まで建てたがパートナーと上手くいっていないらしい。あまり込み入った話をされると責任感をもたなくてはならないので、距離感を考えている。

 どうやらチョチには会って相談できるような相手も近くにいないらしく、その結果としてマッチングアプリというのは注意のいる相手だと盛風は見立てていた。盛風が仕事を辞めたのもつまるところ人間関係だし、世の中の面倒臭さの大半はこれである。草枕の頃より歩ける野山も減った。約束の時間まで二時間以上ある。今日も今日とて話を聞きながらダラダラと過ごすのだろう。

 さっきの「Masaki」は今ごろ会社に戻って何食わぬ顔して仕事に勤しんでいるのだろうか。性欲を一通り出し切った澄んだ脳漿で、せっせと営業報告でも書いているのだろうか。稼ぎの良いカタギというのはバイタリティが底知れず、メンタルの切り替えも残酷なほど長けているのだろうか。盛風は人に会うたび再就職が恐ろしくなった。暗い農村だと思いこんでいたこの街にも、これほど多様な人間がその欲を潜めて暮らしていることに目眩がした。風呂場で見た腕の痣も、三日前の首筋の噛まれた跡のように影も残らないのだろう。眠れば全て過去になる。

 アラームだけ設定して、うとうとと、できれば夢見心地を目指そうと決めた。まどろもうと必死な意識の中で、それでも次の仕事について考える。もし那覇に引っ越したらば人が多い分、多様な仕事もある。そして、信じられないほど多種多様な他者に圧縮されて立方体の肉塊になる夢を、盛風は見た。


 アラーム音は得体の知れないEDMが月替りに掛かるように設定してある。枕元に置いたスマートフォンのスピーカーからミキシングしすぎて、あるいはBPMが速すぎて何語かも定かでない言語が、きらびやかな電子音とともに放たれる。EDMというジャンルが世界を席巻できたのはきっとその無思想性にある。どの民族の音階も浸食する、誰も所有できないジャンル。時刻の方は17時15分。返信がまた数件来ていた。

 さっきマッチした自称アプリ初心者が金銭のやり取りを介して会いたいという旨のメッセージだった。

「返信ありがとうございます。生きるのに何かとお金が掛かる社会ですけど、お互い頑張って生き抜きましょう!」

 その手のメッセージへの盛風の返信は基本的にこれ。スマートフォンの向こう側には女になりすましたバイトのサクラがいるかもしれないが、お金に困ったもの同士、本当に必要なのは連帯。

 では生活に困っていないものの御用聞きはどうか。

「テニスコートがある方の駐車場」

 チョチから28分前に来ていた。

「了解。じゃあまた後で」

 盛風はせっせと床から起き上がり、メルカリで買ったポールスミスの褪せた黒いシャツを着る。長毛のリサイクルショップで買ったカーゴパンツを穿く。みすぼらしさに外出が億劫となったが、お試し品のブルガリのオーデもまぶして、玄関を開けた。雨は上がっても湿った空気が重かった。


 空気は重いが足取りは思いのほか軽く、駐車場に着いたらまだ17時47分だった。盛風は謝花昇像の前に突っ立って、天気予報を見ていた。雨雲レーダーによると南に怪しい雲が伸びている。

 運動公園は歩く人、走る人、球を打ち合う人などで賑わっている。盛風は呪いたくなるほどスポーツが苦手だった。ここは小学か中学の課外学習でしか来た覚えはない。身体を動かすことはやぶさかでない。そこに理不尽なルールが加えられることが理解できなかった。100メートルや400メートルではなくて、やめたくなる程度に走ればいいじゃないか。戦争の代替行為に付き合うのは耐えられない。こんなところに屹立する謝花さんは、一体どれほど運動が得意だったのだろうか。

 運動公園に町内放送がこだまする。よいこは帰る時間。帰る場所がなくてもとりあえずそこを去らねば補導が始まる合図。銅像になった謝花昇は当たり前だが何も答えない。

 ずっとスマートフォンを見ていたら18時6分、視線を上げると慎ましい橙色の車がパチパチとライトをウィンクさせてくる。運転するのはチョチである。

「待った?」

「そんなに」

「よかった」

「人間何かと忙しいからね。仕方ない」

 柔軟剤のような香りのする車内だった。ハンニバル・レクターならば使っている銘柄まで当ててみせるが、安次嶺盛風ではそうもいかない。ニナリッチのレールデュタンもサンタ・マリア・ノヴェッラのアーモンドソープもどんな香りかわからない。

「いやごめん、私普通に見始めたドラマが止まらなくて」

「ストレンジャー・シングスはもう見終わったの?」

「あれは、まだ。3rdシーズンの途中」

「ちょうどいいとこじゃん」

ハンドルの横にあるボタンを押すと、低い唸りとともにエンジンが掛かる。「オチ言わないでね」

「大丈夫大丈夫、まだ完結しないから」

 運動公園は小高いところにある。坂を下っていくと学校があり、店があり、集落を維持することに必要な諸々がある。そこには当然のように飲食店もあり、最近ガストができた。雨上がって束の間の夕陽に照らされた赤い看板の店は今日も満車だった。子どもの塾終わりを待つ女性、部活帰りの若者たち、情報商材の売り子とカモ、その店が立つということは全国どこでも見られる景色が展開されることでもある。農村とも都市とも似つかない、ふんわりとした真空地帯ができる。二人もその景色の一員としてドリンクバーでお茶を汲む。

「チョチさん今日はどうお過ごしで?」

「午後はずっとドラマ見てたかな。午前は買い物とか、掃除とか」

「主婦やってんじゃん」

「これでも被扶養者だし」

 盛風はドリンクバーの自称カプチーノを口にした。「乳化剤の味」勝手にそう名付けた臭みが口に広がる。

「そういえば今日は悩みを打ち明けたいとかそういう感じで集まったんじゃない?」

「うん、トモくんはセフレいる?」

 チョチは昔セフレのことをスフレと言い間違えたことがあった。その逆はない。まず「セフレ」という省略の仕方が気に食わなかった。まだ「ヤリ友」とかそんな直截な言い方のほうが誠実だと思っている。

「えっ、それが気になってることなの」

「それも気になってること」

「いるよ」

「やっぱそうなんだ」

「やっぱって、いそうなオーラでも出してるの?」

「きっと色んな人とやり取りしてるんだろうなってのはわかる。文面とかでも」

「文面か。もう少し気持ち込めた方がいいかな」

「別に。会うまでは自分で決めた定型文でもいいんじゃないのかな。会ってからもそれだと萎えるけど」

 会話の端を折るように、初老の店員が注文を取りに来た。備え付けの呼び鈴は押していない。

「ご注文はお決まりでしょうか?」

 盛風とチョチは顔を見合わせて、メニューも見ずに適当に料理名を言い合った。

「ご注文を繰り返させていただきます」

 初老の店員は手に持った機器を打ちながら、それらしき商品名を言った。盛風とチョチが作り笑顔で「ありがとう」というと、店員は「どうぞごゆっくり」とうつむきながら別のテーブルへと去っていった。

「むしろチョチはいないの?セックスフレンド」

「一応いない」

「そういうのに一応とかある」

 これはどうにも面倒くさそうな手触りがする。盛風は自称カプチーノを飲み干す。

「ううん、結局いないってこと」

「結局、というと寸前はいたの?」

 盛風は厄介な時間が訪れそうな予感に内心うんざりしてきた。少しでも踏み込みを間違えれば「個人の事情」とやらにぶつかりそうな気がした。

「ちょっとしたやり取りを繰り返しただけ。全然寝ようとまではいかない感じの人で」

「そういうこともあるよね」

「そのセーフくんのセフレっていうのもアプリで知り合った人なの?」

「そうだね。けどフレンドっていうほど会ってないから。一、二回会っただけの人」

「ゆきずりじゃん」

「そう、ゆきずり。美しい日本語」

 盛風にとってその関係性を定義付けるのはどうでもいいことだった。私たちは偶然マッチして、三日ほどやり取りを続けた後、二時間だけ会う。

「じゃあワンナイトだ」

「類義語辞典ができるだけ色んな言い方があるよ」

 チーズドリアと揚げ物の盛り合わせ、シーザーサラダ(中)が運ばれてきた。面識はないが近所に住む高校生であろう店員が「ご注文は以上で出揃いましたでしょうか」と訊ねてきたので、二人は黙ってうなずいた。

「チョチは結婚する前にもそういうことなかったの?」

「なくはない。大学の頃とか」

「大学。良い教育受けたんだね」

「大学もそんないいとこじゃないよ。普通の都内の私大だけど」

「そっか。けど周りであんま聞かないから、そういう経歴」

「なんか今日は話が脱線しがちだね」

「脱線しない会話ってある?」

「目的が定まっている時には」

 チョチは目線を外し、水を飲む。一口二口。

「旦那が浮気してるかもしれない」

「それはきっと本題なんだろうね」

「うん」

「けど自分は具体的に何にもできないよ。よその家庭のことは特に」

「知ってる。実際に浮気してても構わないし」

 今度は盛風が水を飲む。ファミレスの水は味がしない。

「なんで浮気に気づいたの?」

「はっきりとした根拠はないよ。ただ、あるじゃん、そういうの。勘より確かなものとか」

「第六感とか」

「そこまでいかなくても」

 揚げ物はすっかり冷めている。出来たては美味いが熱くて食べづらく、冷めると味気ない。

「そういえばこの付け合せのパセリってどうしてる?食べる?」

 揚げ物に添えられたパセリの房を盛風がフォークで拾い上げる。

「いや、私は無視してる。だってパセリって粉末にしたぐらいがちょうどいいんじゃないの」

「じゃあなんでわざわざ乗せてるのかね」

「調べてみようか」

 浮気の話題よりパセリの存在の方がよっぽど有意義だと思った。

「やっぱ色味だよ」

「だったらレタスの方が、いや百歩譲ってかいわれ大根とかの方が有用でしょ」

「料理の世界は合理性だけで回ってるわけじゃないんじゃないの」

「けどこのパセリだって、農家が懸命に育ててるんだよなぁ」

「その割にはパセリは残しても何の罪悪感も感じないよね」

「社会の縮図だよ。不平等。差別される野菜」

 チョチは揚げ物カゴに入った話題のパセリを手に取って、そのまま口に放り込んだ。

「苦い。そして青臭い」

「だって一房のパセリだもの。それぐらいのクセはあるよ」

 チョチはドリンクバーで沸かしたプーアル茶で口内の臭みを流した。

「うん。実際旦那のことはもうそんなに好きじゃないの」

「知ってるよ。じゃなきゃはじめからマッチングアプリなんてやってないでしょ」

 はじめからチョチの心は家の外にあった。全てのカップルが、あるいは愛の誓いめいた何かを交わした不特定多数のグループが、その背信に対して狂わんばかりの熱量をもてるとは限らない。

「それはわからないよ。愛情とか、好きの量を保ったまま他の誰かと会ったり寝たりしたくなる時だってあるし」

「そっか。そうだよね。ごめん。短絡過ぎた」

 盛風は思考の時間を稼ぐためにドリアを口に運ぶ。わずかばかりの熱量さえ持ち合わせない者にとっての、束の間の快楽にさえならない関係。

「セーフくんってさ、恋人とかはいないの?」

「いないね。うん。いなかったし」

 盛風は嫌な質問のせいでドリアをもう一口食べることになった。

「嫌な質問かもしれないけど、寂しくなったりしない?」

他者を愛するまでいかずとも、恋を抱くことにさえ信心のようなものが必要だ。

「こうやって人と会って話すだけでも寂しさはなくなるよ」

「誤魔化さないでよ」

 私も君もたいしたもんじゃない、盛風は頭の中で反芻してみたが、喉からその声は発されなかった。

「本心を話すのが苦手で。どう言葉にしていいかわからないし。こうやって最低限コミュニケーションは取るし、取りたいけど。それ以上はどうしていいのかわからなくて。他愛もない話だけじゃ人間関係済まされないのも頭ではわかっているけど」

「難しく考えすぎじゃない?」

「むしろ何もないんだと思う」

 どんなに会話をしたところでお互いのことが都合よくわかるはずもない。単に互いの都合をぶつけ合っている間は。

「そろそろいい時間じゃない?」

「ぼちぼち噂の旦那様の食事支度をしなくちゃ」

「何作るの?」

「サラダとスープと焼き物。いい奥さんでしょ」

「末永くお幸せに」

 お会計の伝票はチョチが握った。盛風は財布を出す仕草だけ見せた。レジにはさっきの初老の店員だった。「またのお越しを」と声が響く。



 丘の上にはコピーペーストしたように建売住宅が並んでいる。売却済はまだ三、四軒。外灯の整備も追いついていないので、暗闇に同じ形の家が主張することもなく佇んでいる。その丘もかつては騒々しいまでの草木に覆われていた。丘陵という性質上、戦時中は役割を持たされることもあっただろう。しかしながら洞穴も慰霊塔もないからか売地に出て、今後は数十世帯の家庭を支える地盤となった。マサキは丘の上を目指してアクセルを踏み続けていた。半年前に買った我が家の庭には、ちょうど一昨日ミニトマトが実った。雨の前に収穫して正解だった。きっと今晩あたりの食卓に出るに違いない。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 マサキが居間に入るとチヨコが既に食事を始めていた。20時30分、待ってくれていたのなら健気だが、この時間になってようやく支度が済んだのなら割と遅い。

「おっ、できたてだね」

「うん」

 チヨコは壁に掛かった薄型の42インチテレビで『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』を見ている。再生時間的には見始めて15分といったところか。

「ホラー?食事時に見れるやつ?」

「大丈夫。普通に面白いよ」

 チヨコは返事こそするが、身体はソファと一体化したかのように動かない。

「ふーん、誰かのオススメ?」

「ネトフリばっかり見てる友だちの」

 スピーカーからはガラスの割れる大きな音。チヨコは驚く素振りも見せず、くし切りにされたミニトマトを口に運ぶ。食卓には「トマトとオクラのサラダ」以外にも「鶏もものポン酢ソテー」と「オニオンスープ」が並んでいる。マサキは手を洗い、そのまま炊飯器から米をよそう。

「今日雨すごかったね」

「うん。風もすごかったよ」

「ああ、そうだね。靴がドロドロだよ」

「泥落としてきた?」

「あっ、うん。そのドロドロは会社で落としてきた」

 マサキはベルトを緩め、食卓に着く。TVに背を向け、箸を揃える。

「チヨちゃんはもう食べたの?」

「ちょっとだけ。今日お腹すいてなくて」

「そうなんだ。今日何かあったの」

「スーパー行ったり、本読んだり、家事したり。普段どおりだよね」

「そっか」

「マサさんは?何か変わったこととかあった?」

「変わったことは特に」

 マサキはよそったサラダを、具を、飯を、勢いよく喰う。汁で流し込み、噛みそして噛む。自分でも品がないとは思っていた。しかしこういう食べ方しか知らないのだ。別に戦地に居たわけではないが、最後にゆったりと食事を楽しんだのは、もう幼少の頃まで遡らなければならない。チヨコは慌ただしい咀嚼に目もくれず、黙ってドラマに集中している。

「他のに代えていい?」

「いいけど。何観るの?」

「適当なバラエティが見たい。最近面白い芸人とかいる?」

「誰だろう。最近あんまりテレビ見てないから」

「そっか。会社で聞いたところによると、ジェラードンが面白いらしいよ」

「Youtubeに上がってる?」

 二人はひとしきり笑った。時間にして十分ぐらい。

「先に風呂入っとくわ」

「いいよ。明日は6時半起き?」

「うん、だからそんなには」と言いかけるも「まあ、そうだね」と言い直して立ち上がり、風呂支度をした。無印で買ったねずみ色の寝巻きをハンガーから取って、マサキは湯を張った。実際のところマサキに見たいコンテンツなどなかった。

 「もうだいぶ涼しいもんね」と独り言をこぼしながら、やはり無印で買い揃えたバスソルトを物色する。誰かと一緒に風呂に入りたいと思った。別にセックスなんてしなくてもいいから、一緒に湯船に浸かって欲しいと願った。些細なことほどハードルは高い。チヨちゃんはお風呂が嫌い。きっと溜めた湯船もマサキしか使わない。嫌いな理由は、幼い頃体調が優れないのに長湯して入院する羽目になったとか、そんなことらしい。チヨちゃんの実家の風呂場は立派だった。湯桶などは檜木だった。マサキは婚約の挨拶の時に、風呂もいただいた。自我が芽生えてから始めて一緒に入った他人は、高校の頃のクラスメイト。同じ部活のキャプテンとマネージャーという関係。幸福な複数風呂はもう何年も味わっていない。マサキはもっとのぼせたかった。

「昼に会ったセーフくんとかいう男の子、ずっと冷めてたな」と湯船でマサキは呟いた。

 風呂からあがってもチヨコはソファの定位置にいた。

 マサキが寝室に行くのを見届けると、チヨコはスマートフォンに親指を添えた。明日もセーフくんに会おうと思った。今日の会話の煮えきらなさを解消したくて、KAKAOを送った。チヨコは不意に自分が何故この街にいるのかわからなくなることが、この街に自分が存在することが実感できなくなることが、よくある。ふと今の旦那に口説かれ、まんざらでもないと思い、自分の意思で結婚まではしたものの、何やら見えざる手のようなものでコントロールされている感覚があった。

「私はずっと幸せになるための選択をしてきた」これまでの人生に対しての自負である。小学から大学にいたる各受験から、交友関係、就職、選択を迫られる時には自分の幸せないしは快楽を優先した。その選択によって芋を引いても受け入れる覚悟は一応持っているつもりだった。現状つまり結婚のような長期的なものを見通すほどの目は無かった。紙ヒコーキが模された送信のアイコンをなぞる。

「明日も会える?」

 同じ屋根の下、シモンズのマットレスに沈むマサキもまた、宛先は異なるが同じ人物にLINEを送っていた。


「今度いつ会える?」

 Masakiから。


「会えそー??」

 えみゅみゅから。


「鬱が酷くて、気持ちでは会いたいんだけどカラダが動かない。那覇来て!」

 酢昆布から。


「こないだはごめん。生理キツくて。明日だったら大丈夫だよ◎」

 ヨリコから。


「はじめましてプロフィール写真見て素敵だと思ってライクしたんですが、マッチして嬉しいです。早速なんですが明日暇ですか?」

 玉城から。


 11時28分、寝返るだけで軋むベッドの上で盛風はスマートフォンを握ってる。送られてくるメッセージは例の無関心な若夫婦からだけではない。松山で茶を引く女、将来に希望を見いだせず睡眠薬と酒に溺れる大学生、疲れ切った県庁職員などからこの時間になるとこぞって「会える?」とやって来る。まるでコールセンター。

 とりあえず全てに「いいよ。明日は?」と返信してみる。不思議なもので、実際に

「明日会おう」と合意するのは十人中一人か二人と相場が決まっている。見えざる出会いの労基の手が裏で動いているのだろうか。盛風は暗い部屋でメッセージのコピー&ペーストを続ける。

「ごめん、やっぱり明日は都合がつかなくて」という県庁職員からの返信には、

「うん、全然構わないよ。また都合の良いタイミングで」という祖母の顔より見た定型文を。

「ええ~東風平遠い。那覇来れない?」という三人のセフレを抱える大学生には「こっちからしたら那覇が遠い」とお決まりのやり取りを。

 そして盛風はいつも思っていた、那覇は都会だ。あの街には何でもあるような気がする。地図の上では近いが異郷のような気さえする。そして、那覇に疲れた人はどこに逃避するのだろうか。少なくとも東風平ではないようだが。

「明日も会える?」

 これはチョチからだ。さっき会ったばかりだが、近所だからこそ慎重さが求められる。チョチからは既にやけっぱちの気が感じられる。半年後、誰にも言わず実家へ帰る姿が目に浮かぶ。

「一応会えるけど。まずは自分の旦那さんと話してみたら?」

 盛風は送った後、自分でもひどく無責任なメッセージだと思った。


 一、無責任な関係性に耐えられなくなった時がマッチングアプリの辞め時である。


 新しくルールに付け加えておこう。

 マッチングアプリなんだから大半のことは外面の良し悪しや所属、キャリア、何かしらの目立つ記号でしか決まらない。出会いも喪失も人生も記憶さえも全てが無意味に思えてくる。

「今度いつ会える?」

 昼の男、マサキからも来ている。

「明日でも明後日でも。マサキさんの望むタイミングで」

「本当に?」

「本当」

「じゃあ明日も今日と同じ場所、時間で」

「了解です。一つ訊いていいですか?」

「何?」

「マサキさん結婚してますよね」

「よく気づいたね」

「鈍くてもわかります。柔軟剤の匂いとか。所帯染みた部分で」

「なるほど。そういうところ見られてるんだ」

 マサキにも「まずは自分の奥さんと向き合ったら?」と送るべきだったのか?

「やっぱりもう会わないでおこう」

 チョチからの返信は早かった。

「それじゃあ明日はよろしくね。おやすみ」

 マサキからはスタンプ付きで送られてきた。

「その前に一つ確認したいんですけど、明日足代だけもらっていいですか?」

「えっ?お金目的?無理だけど」

 その文面を最後にマサキにはブロックされた。

 盛風はスマートフォンの電源を落とす。集落から、一つ明かりが消えた。夜は夢よりも早く過ぎてゆく。

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