恐怖の増殖・2

 大西がつぶやく。

「アメリカ政府の命令って……? エイズに国家を侵されているアメリカが、どうして治療法の開発を妨害するんですか⁉」

「目的は、須賀君の方が良くご存じのようだ。ともかく、国の圧力を受けたBTIは、私が進めていた遺伝子治療の基礎研究をしばらく中断させることに同意した。政府からの命令が、『エイズの蔓延を待つ』という銀行家どもの方針と一致したからだ。その結果、エイズ治療ワクチン開発ばかりではなく、HDの治療にさえ手がつけられなくなってしまったのだ。そして経営方針に真っ向から反発した私は、次第に発言権を奪われていった。サリーのHDを治すにはBTIを捨ててナカトミと組む他に方法は残されていなかったのだ……」

 大西が言った。

「エイズの蔓延を放置することはBTI単独の企業戦略ではなかったのですか? なぜアメリカ政府までが?」

 そして大西は須賀に目をやった。

 須賀は呑み込みの悪い生徒を諭すように言った。

「HIVはアメリカが抱えた時限爆弾のようなものだった。少なくとも、それが拡大しはじめた当初は誰もがそう恐れた。しかし、ある程度感染者が拡大した時点で、思わぬ〝福音〟をもたらしていたことが明らかになった。それは、第三世界の人口爆発を劇的に抑制する――という事実だった。いま、先進諸国ではHIVの蔓延はピークを過ぎた。ある程度の教育と資産を持つ者なら、確実にウイルスから逃れられる時代になった。しかも、ホモや麻薬中毒者、教育程度の低い子供たちといったハイリスク・グループ、そしてスラムにたむろす不法入国者たち――政治家たちが夢に描く小綺麗な社会にとっては邪魔なだけの彼らが、エイズによって一掃され始めた。アメリカ社会はたった一つのウイルスによって、富む者と国家のお荷物になるだけの者とに二分されたわけだ。そして現在、HIVに席巻されている地域はアフリカやインド、そしてアジアに移った。彼らはおおむね貧しく、教育もない。生活のための売春は珍しくもなく、感染を防ぐコンドームさえ高価すぎて手に入れられないのが現状だ。むろん、感染者が適当な治療を受けることなど、望むべくもない」

 大西はつぶやいた。

「しかしアメリカは、エイズ撲滅に全力を注ぐと宣言しているじゃないか!」

「アメリカに、どれだけ多くの黒人有権者がいると思っている? 『アフリカは滅びろ』などと言えると思うのか? 政治家の言葉に嘘はないと信じるのは、政治という言葉を知らない幼児だけだ」

「しかし、アジアの経済成長は世界の活性化には不可欠の要素だ。ただでさえ経済の停滞が深刻な今、その国々をエイズで痛めつけることは、自分の首を絞めるようなものじゃないか」

 須賀は鼻の先で笑った。

「経済成長などどれほど華やかに見えても、ほんの一時の甘い夢にすぎん。日本中が浮かれ騒いだバブルと同じで、祭りが過ぎれば山のような借金が残るだけだ。中国一国を例に取っても現実は明快に説明できる。十一億を超える人間が一斉にアメリカ人並みの生活を求めたらどうなる? 今の何十倍のも肉を食べるようになったら? 家畜を養うにはその重量の十倍近くの穀物が必要なのだぞ。その上、彼ら全てが自家用車を持つことを要求したら? 世界中のエネルギーは枯渇し、食料はたちまち底を突く。現実に中国はとっくに食料輸入国へ転落している。恐るべきシナリオにそって、破滅の道をまっしぐらに突き進みつつある。インドはどうだ? 経済開放の結果、大量の海外資本を吸収して目覚ましい発展を続けている国だ。もちろん、十億の人口は中国と同様に地球の負担になる。しかも、インドの学生たちは伝統的に数学と英語に堪能だ。彼らは低賃金で我々日本人より優秀なコンピュータ・ソフトを造る。数年後には日本や欧米を追い越せるだけの潜在的なマンパワーを秘めている。彼らはこれまで自国の人口爆発を〝マイナス要素〟だと認識してきた。しかし最近では自分たちの能力に気づいて、事情が大きく変わった。今や中国やインド政府にとって人口の増大は安い労働力を約束する利点であって、欧米を乗り越えるために欠かせない武器となった。これこそが、日本やアメリカの産業基盤を揺るがす大変動の前触れだといっていい」

「彼らは、僕たちがしてきたのと同じことをしているにすぎない!」

 須賀は大西の苛立ちを笑い飛ばした。

「しかし、頭痛の種だ。問題は他にもある。成長が鈍ったとはいえ、経済発展を続けるアジア地域では激しい軍拡競争が開始されている。冷戦の終決によってだぶついた兵器は、この地域に吸収されている。むろん、欧米の兵器産業界はこの特需に高笑いをしたがね。それはそれとして、現実にアジアは最新兵器で武装された火薬庫と化している。にもかかわらず、人種、宗教、民族的対立、さらには経済的敵対関係は高まる一方だ。アジアは、爆発寸前の不確実で危険な地域と化した。そこにこれからは、食料とエネルギーの不足という大問題が襲いかかる。現に北朝鮮は、核と長距離ミサイルで日本を恫喝して経済援助を引き出している。南沙諸島では海底の石油資源をめぐって周辺各国が対立している。どの国が発火点になろうと、いったん紛争が顕著化すれば、戦争は拡大し、長期化するだろう。欧米各国といえども無傷でいることはできまい。そして長い紛争は一層地球を傷つけ、食料の供給を阻む。さらに将来を展望すれば、アジアの次には〝中南米の経済発展〟という事態が待ち構えている。すでに加速をつけて走り始めた彼らまでが先進国並みの生活水準を要求すれば、確実に地球は破滅する。結論は簡単だ。もはや地球には、これから生まれるであろう人間たちまでを養う余力はない。君とて、この現実は認めないわけにはいかないだろう?」

 大西はうめいた。

「だからアメリカ政府はエイズ治療を妨害したと……?」

「激しい勢いで勃興するアジアの人口が減少に向かえば、地球上の資源はまだ人類を支えられる。戦争による、不毛なだけの大量破壊のリスクも低下する。経済的な脅威に成長したアジア地域の勢いも削ぐことができる。中南米の経済成長も勢いを弱めるだろう。結果として、アメリカが再び世界の覇権を握ることも夢ではなくなるのだ。だからアメリカ政府はBTIに圧力をかけ、BTIは政府の命令に従った。そしてシマダさんの『拡張制限酵素理論』は、学会にも発表されなかった。いったん発表されてしまえば、その考え方を利用して誰かがエイズ治療ワクチンを実用化することが避けられなかったからだ。それがBTIの……そしてアメリカの論理なのだよ」

 シマダが須賀の言葉を引き継いだ。

「しかし、私は……人口爆発が人類に危機をもたらすと分かっていても、私には救いを求めるエイズ患者たちを見殺しにすることはできなかった。私は全ての事実を知った時に、BTIを捨てる決心を固めた。ナカトミが本格的にエイズ治療ワクチンに取り組むと知って、『全ての研究成果を提供する』と協力を申し出たのだ。なのに、ナカトミまでが……こんな邪悪なウイルスを開発していたとは……」

 須賀は平然と言った。

「『不妊ウイルス』が悪魔か神かは、一〇〇年後の人類が決める。しかしこのウイルスが完成しなければ、人類に一〇〇年後は訪れない」

 シマダは須賀をにらみつけた。

「君が考えていることはナチスの大量虐殺と同じだぞ」

「人を殺すことなど望んではいない。我々は、地球の命を永らえさせることだけが願いなのだ」

「それは違う。人の受精を阻むことは、生まれるべき人間を殺すに等しい。不妊ウイルスの蔓延は、おそらく何億、何十億という子供を〝殺す〟ことになる。ナカトミは、仁科がスフィアで犯した大量殺人を地球規模で行なおうとしているだけだ!」

 須賀は答えた。

「人類が生きのびるために避けて通れない試練だから、ナカトミは真剣に取り組んでいるだけだ」

 大西は須賀を見つめて言った。

「不妊ウイルスなんてものがどんなに危険な兵器になりうるか、あなたはよく知っているはずだ。特定の国家や人種の絶滅――歴史の彼方に消え去った独裁者たちが願ってきた悪夢の世界を、貴様は科学を悪用して実現しようというのか? それとも今度は、ナカトミが世界を牛耳るつもりなのか?」

 須賀はつぶやいた。

「エイズは我々が撲滅する。しかしその結果、人口爆発が人類を――いや、地球そのものを危機に陥れている現実はより深刻になる。我々までが無節操な第三世界に引きずられて共倒れになるより、はるかに利口な選択だとは思わんか? それは結局、彼らのためにもなるはずだ。今の彼らを見るがいい。飢え、痩せ細り、教育も受けられずに死んでいく多くの子供たちを。アジアの国々がどれほど豊かになろうと、利益を受けるのは一部の特権階級だけなのだ。スラムに押し込まれた残りほとんどの者は、今以上に悲惨な暮らしに耐え続けなくてはならないだろう。これ以上人口が増せば、状況はさらに悪化する。そしていつか突然、金属疲労に冒されたジェットエンジンのように、世界は炸裂する。生態系は崩壊する。しかし、どのような手段を用いようと人口が減りさえすれば、食料やエネルギーは隅々に行き渡る。先進国が与える教育の機会も享受できるだろう。教育さえあれば、再び民族を復興させることはたやすい。我々は感謝されていい。人類がすでに存亡を分ける崖っぷちに立たされていることを忘れるな。今、エイズが根絶されれば、一度は抑制されかけた人口爆発が再び加速される。この危機は神の力を持ってしても止められない。だから我々はエイズ治療ワクチンと平行して、高崎が持ち込んだアイデアを実現することを決定したのだ。人類の存続のためには不妊ウイルスが必要なのだ」

 大西はかすかに笑った。

「その言い訳、いったい何年かけて練り上げてきたんだ? もっともな理屈には聞こえるぜ。だが、詭弁だ。確かに人口爆発は危険だ。しかしそれは、多くの人々の知恵を持ち寄って理性的に解決されるべき事柄だ」

「人類は、これまでずっと知恵を出し合ってきた。だが、それで何が解決された? 戦争はなくなったか? 環境破壊は止められたか?」

「だからって、一財閥の損得勘定で左右されていい問題じゃない。貴様らは人類の未来など考えていない。残り少なくなった地球上の資源を独り占めし、国家に代わる覇権を握りたいだけだ。そして次にはMSPで手に入れた研究成果を生かして宇宙に進出し、そこでも独占的な利益を貪ろうという腹なんだろう?」

 須賀は言った。

「それを認めたとして、おまえたちはこれから、どうする気だ? こうして私を脅していればスフィアの外には出られるだろう。運が良ければ、島から逃れて海外に逃亡することもできるかもしれん。しかし、その先は? ナカトミは秘密を知った人間は放置しない。おまえが言ったように、この不妊ウイルスが膨大な利権と権力をを約束するものだからだ。おまえたちはいつか必ず――いや、近い将来、ナカトミの手にかかって命を落とす。ナカトミの行く手を阻むことはもはや誰にも不可能だ」

 大西が言った。

「その時は貴様も道連れさ」

 須賀はうなずいた。

「私はもう覚悟を決めた。君たちを殺すことはしない。いや、できない。だから、私の指示に従え。ナカトミに投降するのだ」

 シマダが言った。

「『遊びにおいでよと、クモはハエに言いました』――それこそナカトミの思う壷だ」

 須賀は言い張った。

「いや、私は命を賭けて君たちを守る。君たちにはナカトミが必要とする能力が備わっているのだ。だからこそ、このスフィアのスタッフに選ばれたのだからな。牙を剥こうとさえしなければ、生き残る道は約束されるだろう。だから、私とともに来たまえ」

 大西が言った。

「一度は殺そうとしたくせに、いまさら『必要だ』だと? 誰が信じるか」

 峰がつぶやいた。

「そのうえ、『人類制覇の野望に手を貸せ』っていうんですものね」

「だが、それ以外に私たちが生き続ける方法はない」

 大西が言った。

「そうまでして生き残るなら、逃げて追われるほうがましだ」

 須賀は言った。

「相変わらず子供だな」

 シマダも言った。

「年齢の問題ではない。私も大西君に賛成だ。ナカトミがあくまでその無謀なウイルスを実用化しようというなら、私は全資産を投じて戦う」

 須賀が唇を歪めて笑った。

「君が財産を捨てたところで、ナカトミには太刀打ちできんさ。バックにはすでに主立った国の政府がついているんだからな。極秘裡に打診したナカトミのプランは、先進諸国の共感を集めつつある。我々の取引先は多くの先進国家なんだよ。君らは最悪の場合、世界中の情報機関から命を狙われることになるのだぞ」

 大西も笑った。

「『君らは』じゃないと言っているだろうが。追われるのはあんたも同じだ。お互いに殺されないように全力を尽くすしかないようだね」

「何を呑気なことを……いったいナカトミとどうやって戦うというのだ……世界を支配する者たちは、全てナカトミの側に立っているというのに……」

 峰は言った。

「日本では確かにそうかもしれないわね。でも、アメリカは自由の国よ。権力者に歯向かうことが喜びだという偏屈者が大手を振って暮らしているわ。私にも頑固な記者の知り合いが多いの。〝大馬鹿者〟の彼らがこの事実を知ったら、張り切るでしょうね」

 須賀は吐き捨てるように答えた。

「たかが新聞記者どもに、何が……」

 峰は動じない。

「事実、何度も大統領や政府を倒してきたわ。彼らのバックに民衆がついていることを軽く考えないでね。日本のふやけたジャーナリズムとは腹の据え方が違うんですから。特にナカトミが敵役なら、燃え方が違うわよ」

 須賀はつぶやいた。

「本当に馬鹿な奴らだ……」

 大西は言った。

「これ以上議論は必要ないようだな。じゃあ、外に案内してもらおう。それに、脱出用ボートだ。外洋航海が可能な大型クルーザーが桟橋に係留してあることは知っている」

 中森が銃を突き出して、須賀の部下に命じた。

「床に倒れているお嬢さんを担ぎ給え。丁寧に扱うんだぞ」

 一人が渋々二階堂を起こして背負った。

 須賀は芦沢の銃に押されて階段を降りながら言った。

「クルーザーは誰が操縦する? 悪いが、私たちはできんぞ」

 狭く暗い通路に降りながら峰が言った。

「私はできるわ。カリブ海が遊び場でしたから。ここからならマリアナ諸島が近いかしら。サイパンにする? それともグアム?」

「この嵐が乗り切れるというのか⁉」

「ハリケーンを乗り切った経験もあるわよ。それに、台風はそろそろ本土に去っている頃だし」

 芦沢が声を上げて笑った。

「いいね。やっと太陽の下で女の子たちを拝めるぞ!」

 中森が厳しい表情でたしなめた。

「馬鹿、目立つことは当分できそうもないんだぜ。逃げ続けながら戦うしかないんだからな」

「木は森に隠せ、ってね。グアムに行ったら裸で女の子を眺めているのがいちばん目立たないんっだて」

「命がけだぞ。いいのか?」

 芦沢が真顔でうなずく。

「あなたこそ」

「恨みは晴らす。石垣と京子を見殺しにした連中には、必ず後悔させてやる」

 最後に階段を下りた大西は、前を進むシマダに言った。

「長いおつき合いになりそうですね。よろしくお願いします」

 サリーを支えながら進むシマダは、振り返って微笑んだ。

「こちらこそ。君の機転にはこれからも助けられるだろうからね。日本人が大好きな〝運命協同体〟というやつだ」

 そう言ったシマダは、白衣のポケットからウイルスを収めたビンを取り出して通路の暗闇に捨てた。

 その役目は終わったのだ。

 ビンの中に入っていたのはウイルスを混ぜた溶液ではなく、単なる実験用の純水だったのだ。

 大きくうなずいた大西は、先頭に立つ須賀に呼びかけた。

「須賀さん、さっそく僕の命令を聞いてもらいますよ。外に出たらすぐ、煙草を一本出してください」

 峰はかすかに笑いながら、大西の太い腕にしがみついた。

「私、離れないわよ」

 大西はうなずいた。

「むろん、僕も離さない」

「守ってね」

「命を賭けて。君が死ぬ時は、僕が死ぬ時だ」


                         ――了

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暴走ラボ 岡 辰郎 @cathands

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