恐怖の増殖・1
シマダはしばらく須賀を見つめてからうなずいた。念を押すように言う。
「大西君が言った通り、『ナカトミがスフィアを全壊させようと企んだ真の目的は、そのウイルスの秘密を守るためだった』と認めるのだな?」
須賀はもはや隠し事を続ける気はないようだった。なめらかに語り始める。
「ウイルスそのものはすでに完成しているからな。医薬品部門が持っている通常のワクチン生産ラインに乗せれば、大量生産も難しくはない。今後の課題は、このウイルスをいかに効率的にナカトミの利益に結びつけるかという戦略作りに絞られている。だからこそ開発に携わった者も、その存在を嗅ぎつけた者も、スフィアから出すわけにはいかないのだ。出られるのは機密を守り抜くと確信できる者だけだ」
須賀が裏の事情を打ち明けるたのは、その事実を知った者を生かしておくつもりはないという強固な意志の現れだった。事実、須賀の両脇に立ち続ける巨漢が握った銃はスタッフに向いたままだ。
シマダは激しい緊張に声を震わせながら、言った。
「ここのスタッフは何も口外しない。私が約束する。責任は全て私が取る。だからみんなを解放してくれたまえ」
須賀はわずかに笑った。
「口約束など信用できるものか」
「それを言うなら私とて同じことだろう? 一旦スフィアを出れば、再びBTIと手を組むことだって考えられるだろうに」
須賀は首を横に振った。
「あなたはもうBTIには戻れない。彼らはナカトミに機密を売り渡したあなたを物理的に抹殺しようとさえしている。『シマダの頭脳が欠ければ、ナカトミのエイズ撲滅プランが潰える』と知っているからでね。自分と娘さんの命を守るためには、ナカトミと手を組み続けるしかない」
『娘の命』を持ち出されたシマダの返事には勢いがなかった。
「だからといって、有能な科学者たちを殺してまで……」
須賀はシマダのつぶやきを無視した。
「ここには近いうちに捜査当局の調査が入る。スフィアが〝不測の事故〟で全壊したことを隠すことは不可能だからな。その時点で事実を知っているスタッフが生き残っていて、余計なことを口走られては迷惑なのだ」
芦沢が吐き捨てるように言った。
「ひとの命を虫けらみたいに言いやがって……」
シマダがつぶやく。
「しかし、なぜ殺してまで? 口止めの方法は他にだってあるだろうに……」
大西はシマダに解説した。
「ナカトミには〝スタッフの人数分の死体〟が必要なんですよ。彼らが警察に信じ込ませたい筋書きは、こうです。『センターが火事で機能を止めていた間に、スタッフの一人が恐怖から精神異常を起こして仲間を殺し、しかも死体を焼き払ってしまった。だから彼らを救出するためにシェルに穴を空けるしかなかったんだ――』とね。死体の頭数が揃っていなければ、その言い訳も通用しないでしょう?」
シマダが首をひねった。
「それでは、私たちの分の死体はどうするんだね?」
大西は淡々と続けた。
「冬眠ポッドから適当な実験台を選んで燃やすんでしょう。身元を確認するための歯形は、コンピュータに偽のデータを仕込んでおけばいい。室井さんの奥さんの身代わりは、センターにでも用意してあるのか……それとも、これからご本人に死体になってもらうつもりなのか……」
須賀は室井裕美の表情に現われた動揺を察し、彼女の肩に手を回した。
「間に受けるんじゃない。苦しまぎれのはったりだ。我々は無駄な殺人は犯さない。今、系列の医大から解剖用の死体を取り寄せている」
室井が妻を見つめてつぶやいた。
「おまえは私を……夫の私さえ見殺しにしようというのか……」
室井を見すえた裕美の声は冷静だった。
「今まで助けてあげてきたんですもの、それだけで満足してくださいね」
室井は肩を落として涙をこらえた。
大西は力なく須賀に目を向けた。
「死体が届くまでにMラボとVラボの間の隠し扉を溶接して、捜査が地下研究室に及ばないようにする作戦ですか? しかし、僕らがここで命を賭けて戦った痕跡はいたるところに残されているんですよ。きっと誰かが、それに気づく……」
須賀の微笑みは消えなかった。
「残念ながら、日本の警察はそれほど優秀ではない。私の配下に〝その道の専門家〟がいることも知っているだろう? そんな痕跡など、一日あれば消し去れる。しかも警察の上層部には、相応の圧力がかかる。ナカトミにどれだけの政治力があるかも、貴様は承知しているはずだ」
峰が大西の腕にしがみついていた。
「何とかできないの……?」
大西は無言でうつむくだけだった。
じっと大西の様子を見つめていたシマダは、しばらく考えてから無念そうに肩を落とした。
「ここまで追い詰められては、私にも選択の余地はない……。大西君……君には申し訳ないが、私は娘の命を守らなければならない。私たちは須賀さんに従ってここを出る……」
大西が目を上げてうめいた。
「シマダさん、そんな……約束が……」
シマダは大西から目をそらした。
「ナカトミが新たに開発したウイルスで何を企んでいようが、もはや私には関心はない。私はこれからもナカトミのスタッフとしてHDの治療法を完成させる。それを邪魔させることは誰にも許さない……誰にも……」
シマダは、横たわるサリーに歩み寄った。抱きかかえようとかがむ――と、中腰のまま身体が硬直した。
「サリー……」
サリーは目を覚ましていた。じっとシマダの目を見上げている。
弱いが、はっきりとした口調で言った。
「父さん……私はそんなことはしてほしくない……」
サリーは、父親が追い込まれた苦境を理解しているようだった。
シマダはサリーの肩を引き起こした。
「立てるか……?」
サリーは、シマダに支えられてゆっくりと立ち上がった。身体がふらつく。
そしてサリーは、哀しげに父親を見つめた。
「行きたくない……」
シマダは命じた。
「父さんを信じろ。必ず、おまえは救う」
「でも、他の人たちが殺されるのは、いや……」
「信じるんだ」
シマダはサリーの脇に腕を回したまま、須賀に向かって引きずるように歩き始める。
峰がシマダの背中に向かってつぶやいた。
「卑怯者……」
須賀は笑った。
「事を荒立てた君たちが愚かだったのだ。そもそもこの研究に加わった理由は、君たち自身の欲望を満たすためだったのだろう? 金や隠れ場所を求める代償に知識と技能を提供することを選んだのは、君たち自身だ。どんな結果であれ、己れの選択の結果は受け入れなければならん」
シマダが須賀に近づく。
と、大西は突然叫んだ。
「くそ、シマダめ! 騙しやがって! 信じていたんだぞ!」
そして、大西は銃を構えたガードの前に飛び出した。
ガードは無表情に銃口を上げて大西の前進を阻む。大西はさらに進もうと試みる。
ガードはその巨体に似合わず、すさまじい速さで銃を振った。
大西は避ける間もなく、銃身でこめかみを強打されて床に崩れた。
全員の視線が倒れた大西に集まった。
須賀がついに声を上げて笑った。
「みっともない姿だが……貴様にはそれが一番ふさわしいようだ。そろそろ茶番は終わりにしよう。君たちはスフィアに戻りたまえ。ロックは解除してやる。同時に、こちら側からは液体窒素を噴出させるがね。当然、逃げ場は温室しかない」
勝ち誇った須賀は、しかし次の瞬間はっと身を震わせて、傍らに立っていたシマダを見つめた。
シマダは左腕でサーリーを支えていた。だが、開いた右手が須賀に向かって突き出されている。
注射器を須賀の腕に刺したのだ。
須賀がつぶやいた。
「貴様、何を……」
シマダは冷酷な微笑みで応えた。
「実はまだ、注射器の中に私のウイルスが残っていたものでね……」
そう言いながら、須賀から引き抜いた注射器をさらに室井裕美の肩に突き刺す。
ガードが背後の異変を感じて振り返った時には、シマダは自分の胸に注射器の針を向けていた。
室井裕美が針で突かれた肩を押さえながら目を見開いた。
「まさか……ウイルスを……。私が、感染を……?」
シマダは笑った。
「君たちの血液中には、発病に充分な量のウイルスが注入された。このウイルスは君たちの脳細胞に侵入してDNAをわずかずつ削り取っていくだろう。その結果がどのように現われるかは、ウイルスを作った私にさえ見当もつかない。おめでとう。君たちは『人類第一号の実験患者』の栄光を手に入れたわけだ。そして万一、君たち脳に何の異常も現われなければ、私はHD治療の決め手を得たことになる。文字通り、万に一つの可能性……だとは思うがね」
ガードマンの銃はシマダの胸に狙いを変えていた。しかし須賀の表情をうかがった彼らは凍りついた。
須賀は完全に顔色を失っていたのだ。
「馬鹿な……なぜそんな……」
サリーが足をふらつかせて倒れそうになる。
シマダはサリーをきつく抱きながら答えた。
「君は私を殺せない。このウイルスの治療薬を作れるのは私だけだ。対処法はすでに完成しているが、その記録はさっきデータバンクから消去した。もはや私の頭の中にしか残っていない。そして私は、スタッフ全員が無事に外に出なければ、絶対に君たちに協力はしない。あくまで武力で抵抗するというなら、自分にこのウイルスを打ち込んで治療の可能性を絶つ」
シマダが自分に向けた注射器が、わずかに胸に近づく。
「はったりだ……」
「試すのは自由だ」
室井裕美がうめいた。
「何もそこまで……」
シマダは室井裕美を冷たくにらみつけた。
「君が私をここまで追い込んだのだ。長年スタッフの一員のような顔をしながら、高崎に無謀な実験を進めさせていたとは……全く呆れたものだ。私の命令を聞きたまえ。でなければ、どんな凄惨な死にざまを味わうことになるか分からんぞ」
須賀が抑揚を欠いた口調で言った。
「ウイルスはいつ脳に達するのだ?」
シマダは肩をすくめた。
「さっき言った通り、人間での実験データはない。一日か、一年か、十年か……神のみぞ知るというところだ。しかしもう一度念を押しておく。このウイルスは神には決して無力化できない。それができるのは、創造者であるこの私だけだ。さあ、みんなをここから出せ!」
「できるのか、本当に……」
「アメリカに渡れれば、だがね。私がどれだけの個人資産を持っているかは知っているはずだ。必要な機材を揃えるには充分だ。目立たない場所に研究室を作れれば、一年以内に治療薬を完成させてみせる。すでに有能なスタッフが揃っていることだしな。BTIの妨害がないことも条件の一つではあるがね」
須賀は繰り返した。
「馬鹿なことを……」
立ち上がった大西が言った。
「シマダさん、それだけじゃ解決にはならないようですよ。こいつらが作り出したウイルスの正体をしゃべらせなくちゃ……」
峰がつぶやく。
「大西さん……? お芝居だったの⁉」
大西は銃で殴られたこめかみをさすりながら答えた。
「シマダさんには、奴らに注射を打てる距離に近づいて欲しかったんだ。僕がぶっ倒されてみんなの注意を引くしか方法がなかったから。そう、これは演技さ。最初からシマダさんと打合せてあった。自分の上司が打ってくる手ぐらい、僕にだって見抜けるからね」
シマダはじっと室井裕美を見つめてからうなずいた。
「大西君の意見はもっともだ。一人の科学者として、ナカトミが『未知のウイルス』をもてあそぶことを放ってはおけない。さあ須賀さん、ガードマンに銃を捨てるように命じなさい」
須賀はつぶやいた。
「頼む……銃を捨てろ……」
二人のガードは動かない。
シマダが注射器を突き出す。
「ウイルスは君たちの分も残っているんだ。おっと、私を射殺してもこのウイルスは殺せないぞ」
須賀が叫ぶ。
「銃を置け!」
ガードは仕方なさそうに銃を床に置いた。
芦沢と中森が進み出てそれを拾い、彼らに向ける。
大西は言った。
「さあ、須賀さん、話してもらおうか。あなたがここで極秘に開発させたウイルスとは、何だったんだ?」
須賀はつぶやいた。
「無理を言うな。話せば、私が殺される」
シマダが微笑んだ。
「それなら、私のウイルスの実験台になるしかない。室井君も同じ意見かね?」
室井裕美は須賀の横顔をうかがいながらうめいた。
「私は……」
須賀が命じた。
「しゃべるな! シマダのウイルスが人間にも効くとは限らん!」
大西は裕美に言った。
「ナカトミの言いなりになって、もがき苦しんで死ぬつもりですか?」
きっぱりと顔を上げた室井裕美は、シマダに向かって言った。
「いいえ、お話しましょう。それで命を助けてもらえると約束してくださるなら」
シマダはうなずいた。
「約束する。君に射ったウイルスは、私が確実に治療する」
須賀が叫んだ。
「よすんだ! しゃべってはならん!」
シマダは須賀をにらんだ。
「邪魔するなら、君には治療薬を与えないぞ」
銃を握った中森と芦沢がさらに進み出る。
中森が言った。
「須賀……貴様こそがこの惨劇を仕組んだ張本人なんだろう? 石垣や京子も、結局は貴様が殺したんだ。ナカトミやウイルス感染が恐いっていうなら、今ここで楽にしてやったっていいぜ」
須賀はぐったりと首を落とした。
大西は室井裕美を見つめた。
「で、あなたが開発させていたウイルスは何だったのですか?」
裕美はぽつりと言った。
「不妊ウイルス……」
シマダが聞き返した。
「何ウイルス?」
「不妊ウイルスです。このウイルスは男性の精巣内に侵入して、そこで生産される精子に作用します。感染した精子は卵子の皮膜を溶かす酵素の活性を失い、受精させることができなくなるのです」
シマダがうめいた。
「感染した男は無精子症と同じ結果になるのか。だから、不妊ウイルス……。いったい、どうやって?」
「アイデアそのものは、高崎君がナカトミに持ち込んだものでした。それを実用化させる技術はあなたが完成したのです」
シマダは眉間にしわを寄せた。
「私が?」
「あなたが開発したエイズ治療ワクチンは、DNA内に移し込まれたフレームシフトのシグナルを破壊するものでした。その画期的な点は、拡張制限酵素の働きによって特定のDNA配列を感知して正確にその部分に治療遺伝子を挿入することを可能にしたことです。高崎君は拡張制限酵素と遺伝子を挿入する機能を、そのまま生殖細胞に働くように転用したのです。彼は狙いどおりに機能を発現する新種の拡張制限酵素を……つまり、精子の遺伝子を引き裂いて機能不全を起こさせる酵素をデザインするだけでよかったのです」
シマダはうめいた。
「あの男は、生殖細胞に手をつけたのか……?」
『子孫に影響を伝える可能性があるために生殖細胞を研究対象にしてはならない』というコンセンサスは、遺伝子治療に対する最も基本的で厳しい規制だったのだ。
室井裕美は平然とうなずいた。
「高崎のウイルスは『子孫を残させない』ことを目的としているんですから。生殖細胞に作用させることに倫理的な問題は残るとしても、実質的に人類に悪影響が広がることは考えられないわ」
シマダがうめく。
「馬鹿な……生命の持つ力とは、それほど安直に測れるものではない。生殖細胞は種を保つための全ての機能が詰まった複雑なシステムだ。安易にそれを操ればどんな影響が広がるか、予測などできようはずがない……」
峰が叫んだ。
「あなたたちは何だってそんなウイルスを開発したの⁉」
裕美は峰を見つめた。
「決まっているでしょう? 人口爆発を押さえるためよ。今歯止めをかけなければ、人類が破滅するからよ」
峰はうめいた。
「まさか……そのウイルスを地上にばらまく気なの……?」
「その気がなければ、作りはしないわ。当然、実際に使用する際には細心の注意を払ってコントロールします」
「そんな馬鹿な……。細菌兵器どころの話じゃない……なんでそんな危険なものを……?」
峰をにらみつけた裕美の目には、異常なほどの冷静さと信念が宿っていた。
「誰かがやらなければならないことだから」
「だから、どうして一私企業が、そんな大それたことを⁉」
「ナカトミの他に、誰がやるの? 誰ができるの?」
「だって、そんな……電気自動車や宇宙ステーションを開発しようって言うなら分かるわ。でも……」
「あなたには理解できないかもしれない。スフィアに入るまで、地球上でもっとも美しい場所で暮らしていたんですから。危機から目をそむけていられたんですから。でも、地上のすべてがカリブ海ではないのよ。地球は今、破滅に向かって加速している。私は、それを止めたい」
「カリブにだって、危機はあるわ。珊瑚礁が死んだり水没したりしている。だからといって、不妊ウイルスだなんて……。」
「あなただって科学者でしょう? それなら、あなたが肌で感じた危機の本質に気づくべきよ。人類は、増えすぎた。長い地球の歴史の中で、単一の種がこれほど繁殖した時代は存在しなかった。そして人類の異常な膨張が、生態系のホメオスタシスを崩壊させようとしている。二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの増大、熱帯雨林の急激な減少、その結果として引き起こされる大規模な異常気象――すべての環境破壊の原因は、人口の増加にいきつくのよ。地球という閉鎖空間を正常に維持するためには、人類の生息数は今の十分の一程度でなければならないのよ。多くの人がそれに気づいていながら、見ないふりをしている。今ならまだ、我慢できる程度の事態しか起こっていないから。でも、十年後には状況が劇的に変わる。このまま人口の増加を放置しておけば、地球が人類を養える限界を超える。津波のような破滅が始まる。生態系の再生産能力に依存してきたすべての活動――農業、漁業、エネルギー生産、そして大気の浄化さえもが一気に不可能になる。たった半日で崩れ去ったこのドームの生態系のように、ね。人類が迎えている最大の危機を根本的に解決できるのは、このウイルスだけなのよ」
大西がつぶやいた。
「ばかばかしい。日本じゃ少子化が危機的状況をもたらすって言ってる時に……」
裕美の鋭い視線が大西を射る。
「少子化? 危機的? それでいったい、何が壊れるって言うの?」
「だから、日本の社会的システムが――」
「社会的システムなど、作り直せる。所詮、人間が作り出した約束事に過ぎないんだから。たとえ日本が壊れたって、それだけのことよ。歴史上、滅びた国は無数にある。問題は、種としての人類よ。今でも、地球全体を見れば人口爆発が続いているわ。そして、地球にかかる負荷も増大し続けている。三〇年後には、東京は熱帯になると言われているのよ。温暖化によって海面が上昇すれば、多くの都市はは水没する。気候の変動で農地は壊滅的な打撃を受ける。限界は、すぐ目の前にあるのよ。地球は、ふくらみすぎた風船のように炸裂するのよ。私は、人類が絶滅することを危惧している。それを防ぐために、努力している」
「じゃあ、スフィアでの他の研究は何の意味があるんだ⁉ 宇宙開発とか自然エネルギーとか、すべてはこのウイルスを開発していることを隠すためだったのか⁉」
「私だって、不妊ウイルスを使いたくはない。他の方法で生態系が守れるなら、その方がいいに決まっている。でも、宇宙へ進出する前に危機が本格化したらどうするの? 二酸化炭素削減一つをとっても、各国の対応はまちまちで結果が出せるとは限らない。劇的な進展がなければ、破滅は不可避だというのに……。いったん限界を超えれば、その先は地獄よ。人々は殺し合い、文字通り互いの肉を食らうことになりかねない。そんな人類の姿を見たいの? まだ間に合ううちに打てる『最後の手段』を用意しておく必要があるのよ。それがこの不妊ウイルスです」
「本気でそのウイルスを使う計画なのか……? 制御が効かなくなれば、それこそ人類が滅びるかもしれないのに……」
「言ったでしょう。むろん、不妊ウイルスの使用は緻密な計画と細心の注意の下に行われます。その実行プランも、すでに練られ始めているはずです」
「何がプランだ⁉ そんなばかげた計画が、プラン通りに進むものか!」
裕美はあくまでも冷静だった。
「ナカトミでは、アクシデントへの対応策も含めて『プラン』と呼んでいます。たとえ不妊ウイルスが計画以上に蔓延しても、治療法は完成寸前まで開発されています。いったん不妊ウイルスに感染した者でも、治療ワクチンを投与すれば生殖機能は回復できます。このウイルスによって、一時的にでも過剰な人口さえ抑制できれば、人類は正しい進化の道に戻ることができます」
シマダがつぶやいた。
「治療ワクチンだと⁉ つまりナカトミは、病原と同時に治療薬まで完成させたということか」
裕美がうなずく。
「もちろんです。私は、人類を救いたい。消滅の危険にさらすことは、本意ではありません」
シマダはあざけるように言った。
「だから君は、ナカトミの手先に落ちぶれたのか? ナカトミの本意は〝金儲け〟だけだ。それぐらいの現実が見抜けないのか? 病気と薬を一緒に握れば確実に大儲けができるのだぞ。第一に、不妊ウイルスを人口爆発に悩んでいる国々に売りつける。次に、感染者の中でも裕福な人間に治療薬を売る。二重に稼ぐことができるわけだ」
裕美は言った。
「あなたは、娘さんの命を救うために悪魔に魂を売ったと言いましたね。私は、人類という種を存続させるために、パートナーとしてナカトミを選んだのです。同じ事でしょう? ナカトミがどう儲けようと、結果に満足できればかまわない。人類を存続させる――それが、科学者としての私の良心であり、信念です」
「方法が間違っている……」
「何度言えば分かるの? 無節操な人口の増加が人類全体を滅ぼすことは疑う余地のない事実です。今すぐ手を打たなければ、地球は確実に滅びます。間違った方法でも、責任を押しつけあって手をこまねいているより意味があります」
大西は言った。
「だからといって、そんな暴挙が一企業の思惑で進められていいはずがない。しかも、一切を秘密にしたまま……。このマイクロスフィアは不妊ウイルスの開発のために作られたのか⁉ 誰がそんなことを命じたんだ⁉」
裕美は首を横に振った。
「私は、そのようなナカトミの戦略には関知していません。ただ、直接不妊ウイルスの開発に携わっていた高崎君を監視していただけです」
大西に目は須賀に向かった。
「あんたは知っているのか? こんな馬鹿げたウイルスを作り出せと命じたのが、いったい誰なのか⁉」
ついに須賀が口を開いた。
「そんなことを聞き出して、何をしようというのだ? 貴様たちは、自分がどんどん底無しの深みにはまっていることが分からないのか?」
大西は答えた。
「誰と戦うかが分からないんじゃ作戦の立てようがないからな」
「戦う? 何のために?」
「ナカトミの暴挙を止めるために決まってる!」
「暴挙かどうかを判断する資格が、貴様ごときにあるのか?」
「屁理屈をこねてるんじゃない! 誰が本当の黒幕なんだ⁉」
「貴様が戦えるような相手ではない」
「それは、おまえの話を聞いてから自分で判断する」
シマダがうなずく。
「誰の企みであろうと、人類を破滅の淵に追い込ませるわけにはいかない。君があくまでも口を閉ざそうというなら、私のウイルスで一足先に神に召されることになる」
須賀は腹をすえたようだった。
「能天気な〝ボーイ・スカウト〟どもだな……。そうまで言うなら、話してやるさ。高崎がナカトミのトップに『不妊ウイルス』のアイデアを売り込んできた時、我々はちょうどマイクロスフィアを建造中だった。MSPの推進は、もちろん今世紀を展望した長期計画の一貫だった。しかし多額の投資が不可欠な以上、短期的にも収益を上げる必要がある。そこで目をつけたのがエイズワクチンの開発や人工冬眠装置の実用試験、さらには脳の冷凍保存を請け負うという新事業だった。MSPの実態は、マイクロスフィアという建造物の安全性と機密性を最大限に生かした複合的な事業だった。ところがシマダ君との協定が固まった時点で、我々は驚くべき事実を聞かされてたのだ」
シマダが言った。
「BTIの最重要機密……のことか?」
須賀はうなずいた。
「その事実を知ったことで、ナカトミが取るべき新たな戦略が決定された。そして、かねてから高崎君から提案されていた『不妊ウイルス開発』が実行されることになったのだ。彼のアイデアに君の『拡張制限酵素』が加われば、そのウイルスが実現できる可能性は極めて高かった。そしてナカトミは、非情で熾烈な国際的な競争に打ち勝つための『最も強力な切札』を手に入れることになるはずだった……」
大西がシマダに尋ねた。
「BTIの機密って……まだ僕らが知らないことがあったんですか?」
シマダは言った。
「トップの一握りの人間しか知らない事実だ」
「何ですか、それって……」
「実は、BTIはアメリカ政府からの強力な圧力を受けていたのだ。その命令はすなわち『エイズの完全な治療法を完成させることは許さない』……というものだった」
スタッフ全員が目を見張った。
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