ガラスの死刑台・3
だが、それを詮索する時間は与えられなかった。
さらに新たなモーター音が聞こえたのだ。音は彼らの足下からもれている。
峰がはっと大西を見上げる。
「今度は何?」
大西は室井裕美から目を外せないまま、無表情に言った。
「いよいよ大詰め……さ」
スタッフの視線は、音の発生源を求めて床をさまよった。
と、芦沢が叫んだ。
「何だ⁉」
立っていた場所からはねのいた芦沢は、身構えながら床を見つめた。一枚板に見えた床の金属板の一部が浮き上がり、せり上がってきていた。
大西は峰をさらに抱き寄せてうなずいた。
「隠し階段だ」
スタッフが息を詰めて見つめる中、畳一帖分ほどの床が短い一辺を支点にして完全に立ち上がった。その奥には確かに階段が見えた。
そして、複数の足音が聞こえる……。
スタッフはVラボのドアを背にして集まり、身を寄せあって隠し階段を見つめた。
最初に現われたのは、銃口だった。
二人の巨漢がサブマシンガンを構えて登ってくる。
彼らは生物災害に備える防護服ではなく、一般のセンター要員の制服を身につけていた。見るからに狂暴そうな武器とパステルグリーンの制服のアンバランスが不気味さをあおり立てる。
室井が先頭に進み出て言った。
「君たちは何者だ⁉」
彼らは答えなかった。
二人の後から、さらに背広姿の男が現われた。
大西はうめいた。
「須賀……」
階段を登り切った初老の男は、大西をじっと見つめて穏やかな口調で言った。
「馬鹿なことをしでかしてくれたものだ。話は全て下で聞いた。大西君、君が有能だったことは認める」
大西はわずかに前に出た。
「だった? 僕はまだ〝過去形〟にされる気はありませんよ」
須賀は大西の言葉を無視した。
「私の期待に応えてスパイを暴き出してくれたのは見事だった。しかし、君が出しゃばらなければこれほどの惨事は避けられたのだぞ。有能すぎるのも考えものだ」
大西は須賀をにらみつけた。
「確かにあんたの言いなりになっていれば、僕自身は生きてスフィアを出られたかもしれない。でも、あなたが仁科の連続殺人を許したことは事実だ。最初の殺人を知った時にエアロックを開放していれば、第二、第三の殺人などありえなかった。あんたがロボットを操ってスタッフを殺したことも、僕は目撃した。『人殺しを見過ごすこと』は契約に入っていない。僕は自動的に、フリーの〝保安コンサルタント〟になったわけです。現在の雇い主は、もちろんスフィアのスタッフです」
須賀は射るような視線を返した。
「お節介は身を滅ぼす元だ。君はもうここを出られない。出られるのは、シマダさんと娘さん、そして彼女だけだ」
須賀の言葉を受けて進み出たのは、室井の妻だった。
峰がつぶやく。
「なぜ、彼女が……?」
大西は室井裕美を見つめた。
「やっぱりね……。仁科は逆上していたが、人質に取るべき相手を間違えたりはしていなかったんだ。僕の考えが足りなかった……」
室井の妻は須賀の横に立ち、目を伏せた夫を見すえて冷たく言った。
「やっと私の役割を明かせる時がきたようね。一年半もの間、慣れない演技を続けてうんざりしていたところだったのよ」
室井がつぶやく。
「裕美……」
室井裕美は、冷静に夫を見つめていた。
「夫は初めからスフィアの責任者なんかじゃなかったのよ。ナカトミから実権を委ねられていたのは、妻の私。私は過去十年間ずっと、医薬品開発部門の責任者として働いてきたんですから。夫は、私がセンターから得た指示を鸚鵡のように伝えていたにすぎなかったのよ」
大西がうなずく。
「気づくのが遅すぎた……」
裕美は大西に目を向けた。
「あなたがそれに気づいたとしても、結果は変わらなかったでしょうね。あなたの軟弱な性格じゃ『私を使ってセンターを脅迫する』なんて駆け引きはできそうもないもの。でも、仁科は違う。きっと、私か夫から事実を聞きだしていたんでしょう。だから、わざわざ私を人質にしようとしたのよ。秘密通路やってくるセンターの代表者と互角にやり合うために」
裕美が明かした事実のショックから立直った大西は、小さく肩をすくめた。
「どうせ僕は、いつも『甘ちゃんだ』って馬鹿にされてますからね……」
須賀はうなずいて、ポケットからヘッドフォンステレオのような装置を取り出した。コードが耳にはめたイヤホンにつながっている。
「君たちが知っているように、スフィアには秘密の監視装置などは仕掛けていない。誰も外部に出られず、センターを介さなければ通信さえ不可能な場所なのだから、そのような保安装置に資金を浪費する必要はなかったのだ。しかし私は、彼女が常に身につけた通信機を通して君たちの行動を逐一モニターしていた。その電波だけはシェルの外部に発信されていたんだ。もっとも、五〇〇メートル以内に接近しなければ受信できない、微弱な電波に過ぎないがね。これが、その受信装置だよ。だから、全ての事件は、私と裕美君の手のひらの中で起こっていたわけだ」
峰がつぶやいた。
「何てこと……裕美さん……あなた、私たちをずっと騙して……裏切っていたのね……?」
中森が室井の腕を掴んで叫んだ。
「本当なんですか⁉ なんで今まで黙っていたんです⁉ 次々に仲間が殺されていたっていうのに!」
うつむいた室井は消え入りそうな声を絞り出した。
「すまない……取り返しのつかない事件が起こったというのに……しかし私には、いまさら事実を打ち明けることなどできなかった……私は最初から……ただの飾りものだったのだ……はるかに能力が勝る妻の言いなりになって、ナカトミの偽装工作の駒にされていたのだ……だから……」
中森はさらに詰問した。
「なんだってそんな偽装が必要だったんだ⁉」
答えたのは須賀だった。
「最大の目的は、高崎君の研究を管理するためだった。あの男、能力は高いが世渡りがうますぎてな。ナカトミの最先端設備とシマダさんの発明を利用しながら、ここで得た成果を他社に売り渡しかねない。我々は、そう警戒していた。その上高崎は『スフィアから逃れるために暴力を振るう可能性がある』という精神的な不安定さも秘めていた。実際『エイズ治療ワクチンウイルス漏洩事件』の一番の容疑者は、高崎だったのだ。そんな男を監視しながら手綱を絞めるには、こちらも命令系統を隠しておく必要があった。たとえ室井氏が高崎に襲われても、管理体制は被害を受けないからだ。事実高崎は、裕美君が真の管理者であることに気づかずにいた。それに、シマダ氏の研究を極秘裡に監督するのにも都合が良かった。とかく男は、女性に気を許しがちでね。彼女は、室井氏以上にウイルス・スタッフの活動に通じていたのだよ。今回の騒動でも、貴重な情報をふんだんに与えてくれた」
峰が室井裕美をにらみつけた。
「自分の夫を陰から操るなんて、どういう神経なのかしら……」
裕美は穏やかに首を振った。
「あなたも結婚をしてみれば分かるわ。自分よりはるかに能力が劣る男と、ね」
峰は応えた。
「あなた、病気よ……。傲慢、という名の……」
裕美は室井を見つめた。
「病んでいるのは私じゃない。この人が、私に操られることを望んだのよ。私がいなければ何もできない人なんですから。親から譲り受けた科学者の仮面だって、私の助けがあったからこそ保ってこられたのよ。でなければ、とっくに学会から見限られているわ」
室井はちらりと峰を見てから、視線を床に落とした。
「君たちは皆、優秀な研究者だ……若くて、覇気に満ち、畏れを知らない……そんな君たちには、私のような無能な老人の気持ちは分かるまい……私は無能だ……妻にすがっていなければ、確かに学会に招かれることすらないだろう……それでも私は科学者として生きていたかった……偉大な先駆者だった父の名を汚さないように……ようやく掴んだ名誉だけは維持していたかった……それを失えば私はただの……職を失った老人にすぎないのだ……親の七光で名誉を得ただけの、惨めな敗北者……能力がないことを笑いたければ笑うがいい……だがこんな張りぼてに、他にどんな選択が許されていたというのだ……」
スタッフは急速に気力を失った室井の豹変ぶりに驚き、それ以上非難を続けることはできなかった。
ただ一人冷静さを失わない大西に向かって、芦沢が言った。
「大西さん……妙に落ち着いていますけど、あなたは知っていたんですか?」
大西は言った。
「いや、『さもありなん』と感心させられているだけですよ。もっとも、〝センターの手先〟が正体を隠しているかもしれないとは疑っていましたがね。もっと深く考えるべきだったのに……。犯人探しにばかり気を取られて、そこまで頭が回りませんでした」
芦沢は言った。
「疑っていただけでも、何も気づかなかった僕より優秀ですよ。もう『ミステリーマニア』を名乗るのはやめます」
「他人の腹を疑うのが僕の商売ですから。予想が的中しても不愉快なだけで、もううんざりです」
須賀は、二人の会話を無表情に聞いているだけだった。
芦沢が須賀の顔色をうかがいながら、言った。
「でも大西さんは、どうして『センターの手先が隠れている』と疑っていたんです?」
「スフィアの内部の状況を知る手段がないのにやみくもに封鎖を続けていては、かえって危険ですからね。須賀さんがシェルに銃を射ったこともあります。あの時点では、ロビイのコンピュータを操ったことで〝センターの殺意〟は疑いようがありませんでした。その上にあんなデモンストレーションを重ねたところで、無意味でしょう? 銃撃は宣戦布告ではなく、スタッフに潜んでいる〝部下〟――つまり、室井夫人へのへのメッセージだったのです。スタッフを捨て、シマダだけを連れて『人工冬眠室』に逃げ込め――という、ね。あいにく事態の展開が速すぎて、そんな暇はありませんでしたが。それに『正体不明のウイルス』の存在もあります。それがシマダさんにさえ知らされずに開発されたなら、他の管理者が内部にいなければなりません。失礼ながら、室井さんはそれらしく思えませんでしたから……」
須賀がうなずいた。
「だから、貴様は馬鹿だというのだ。無用の詮索は自殺にも等しいと教えたはずなのに」
室井裕美は須賀の傍らに進み出て、シマダに向かって命じた。
「さあ、娘さんとこちらにいらっしゃい」
シマダは床の横にされているサリーを見下ろし、穏やかに答えた。
「できんな。私の立場は説明した。その〝ラジオ〟で盗み聞きしていたのだろう? いまさら仲間は裏切れん」
須賀は言った。
「悪いが、君の意志にはそえない。不本意ながら、私もそういう立場に立たされている」
シマダは応えた。
「交渉は決裂だな。ナカトミ上層部からの命令が不本意だというなら、辞表を書くことを勧める」
須賀の目が鋭く細まった。
「どうしても……というのか?」
シマダはきっぱりとうなずいた。
「議論の余地はない」
大西が言った。
「仁科のスパイ行為は僕が暴きました。これ以上BTIにMSPを撹乱させられることはないでしょう。情報漏れの心配もなくなりました。ナカトミにとっては、それで充分ではありませんか? もう無関係な研究者は解放してください」
須賀は大西を哀れむように見つめて、首を横に振った。
「そうはいかんのだ。理由は分かっているだろう?」
大西はうめくように言った。
「正体不明のウイルス……? やはり〝あれ〟がスタッフ全員を抹殺しなければならない本当の理由なんですね?」
須賀は淡々と答えた。
「裕美君の最大の任務は〝あれ〟の開発をコントロールすることだった。そしてその機密をスタッフの目から隠すために、己れを殺して夫の〝影〟に徹した。裕美君は、誰にも役目を知らせずに、黙々と高崎がコンピュータにセーブした情報をチェックして、研究の全体像を把握していたんだ。高崎も、実際に誰から管理されているかを知らなかった。ただ、仕事だけは着実に進めていた。だから裕美君は今まで、正体を現さずにすんでいた。夫の室井氏でさえ、高崎同様に裕美君の本来の仕事については何も知らなかった。なのにおまえは、そんなことまで暴き出しおった。これほどナカトミの機密に迫った男を、いや、科学者たちを、もはや放置しておくわけにはいかない」
大西は激しい怒りを抑えながら言った。
「だから高崎さんが殺されたことを利用して、スタッフを皆殺しにしようと……? センターの火災を演出してスフィアを封じ込めたのは、対応策を詰める時間を稼ぐためだったんだろう?」
須賀は眉一つ動かさない。
「高崎の死後、私はすぐにこの部屋に入って冬眠ポッドを確認した。腕を切り取られた被験者がいないかどうかを確かめるためだ。隠し扉が開けられた記録はなかったが、何者かがセキュリティー・プログラムを無力化した可能性も考えられたからだ。しかし結局、人工冬眠中の被験者は誰一人左腕を失ってはいなかった。ずいぶん頭をひねらされたよ。さらに私がセンターに戻った直後に、誰かがVラボからスフィア側の隠し扉を開けたことを確認した。『01』のポッドが『覚醒モード』に入ったことで、それがシマダ君の仕業であることは分かった。私は『BTIにウイルスを売った犯人はシマダではないか』と疑いもした。しかし、確証はない。結局、君の活動を追いながら様子を見守る他に結論を下す方法はなかった。しかも、その間にも殺人は続いた。だから私は、アクセスを回復させることができなかったのだ」
中森が厳しい視線を須賀に叩きつける。
「それは終わったことだ。言い訳なんか聞きたくない。でも今は、こっちにも人質がある。立場は対等だろう?」
須賀は冷たく唇を歪めた。
笑ったのだ。
「『どちらの優先順位が高いか』という問題にすぎんな。脳も老人たちの身体も重要だが、それは〝不幸な事故〟ですませるられる。金額は馬鹿にならないが、契約に定められた保証金で片がつく問題だ。どのみち、とっくに死んでいるか、死が避けられない年寄りどもなのだからな。ナカトミの信用は一時的に失墜するが、残された遺族は大金を手にして高笑いすることだろう。しかし〝あのウイルス〟はこれからのナカトミの飛躍に欠かせない〝最終兵器〟だ。反面、この秘密が暴かれればナカトミは消滅する」
シマダが一歩進み出た。
「何なのだ、そのウイルスとは⁉」
須賀は肩をすくめた。
「それを知れば、君たち親子の命もなくなるが?」
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