ガラスの死刑台・2

 サリーはシマダに、二階堂は中森に、そして仁科は大西に運ばれて、全員が人工冬眠質に降りた。そしてシマダと大西は、さらにVラボでの解析作業に向かった。

 スタッフたちは人工冬眠室を詳細に調べながら、二人が作業を終えるのを待った。

 シマダは未知のウイルスの正体を突き止めるために、従来は部下に任せきりにしていた分析装置と格闘した。電子機器に長じた中森がその作業に加わらなかったのは、大西が人工冬眠室側のコンピュータの分析を命じたからだった。

 Vラボの機器は多少不慣れであってもシマダが扱えるし、中森にはウイルスに関する専門知識が欠けている。一方、全ての機能が明らかになっていない人工冬眠室のシステム分析には、中森のソフトウエアに対する洞察力が不可欠だったのだ。

 大西とシマダは、他のスタッフを十分ほど待たせて人工冬眠室に戻った。

 大西は、奥でコンソールを操作する中森に尋ねた。

「中森さん、何か新しい発見はありましたか?」

 中森は振り返りもせずに答えた。

「24、25のポッドの〝鍵〟を破りました。幸せそうに眠っている爺さんたちには申し訳ありませんが、運命を共にしてもらいましょう」

 大西は冷たい笑いを浮かべた。

「お手柄ですね」

「道楽が活かせただけです。奴らに復讐しなければ、気持ちが収まらないしね。それから、このコンピュータがスフィアのホストにアクセスしていないことが確認できました。この部屋は物理的にはスフィアにつながっていても、電力供給や情報の経路は完全に独立しています」

 シマダが言った。

「しかし、冬眠ポッドのモニターはVラボの内部に設置されている。あれもスフィアのコンピュータにはつなががっていないと?」

 中森はディスプレイから顔を上げた。

「単に配線が隣の部屋に伸びているだけです。そのモニター自体がスフィアのシステムからは分離されていて、センターの延長上にあるんです」

 大西がうなずいた。

「つまりこの部屋は、センターが直接管理しているってことですよね。確実なんですか?」

 中森はマウスを操作する手を止めて、心配そうに大西を見た。

「それが間違いないから、不安なんです。大丈夫なんですか、こんな場所に立てこもって? 私たちを生かすも殺すも、センターの考え一つなんですよ」

 大西は軽く肩をすくめた。

「いまさら僕を責めたって、事態は良くなりませんよ。今までだって、ずっとセンターのなすがまま――だったんですから」

 中森は小さくうなずいた。

「ま、それもそうか」

 室井がシマダを見た。

「君たちの方は成果があったのか?」

 シマダはかすかな溜め息をもらした。

「検索する情報が膨大だから、時間がかかる。プログラムは走り続けているが、電源が底を突く前に結論が出せるかどうか……」

「それでも続けなければならないのか?」

 答えたのは大西だった。

「運良く新たな情報が得られれば、助かる道が開けるかもしれませんから。それにこの人工冬眠室がスフィアから独立しているなら、電源を使い果たしたって不都合はありません」

 シマダが言った。

「大気に有毒ガスが侵入してきた場合はVラボで警報が鳴る。それを合図に扉を閉めよう。もっともコアの空気はすでに汚染が始まっているし、浄化装置のフィルターの能力も限界を越えた。長くは保たないだろうがね……」

 室井は床に目を落としてつぶやいた。

「とうとう追い詰められたわけか……。こんな小さな部屋に立てこもって、何ができるのやら……」

 芦沢が不安げにうなずく。

「密室の中の密室の中の密室……。まるでロシアの人形の真ん中に閉じこめられるみたいだ。大西さん、こんなことをしていて勝算はあるんですか? センターと話をつけるにしたって、こんな場所からでは会話もできないんじゃあ……?」

 意識を失っている三人は、床で横にされていた。もはや死体のようにしか見えない。

 狭い室内の息苦しさは、清潔すぎる死体置き場を連想させる――。

 残るスタッフたちはあえて彼らから視線を外し、先が読めない緊張に耐えていた。Vラボへつながる扉を閉じることは、まさに未来を自ら閉ざすことを意味していたのだ。

 しかし、芦沢を見つめた大西は落ち着き払っていた。

「『クラインの壷』って知ってますか?」

「こんな時に物理の講義ですか……?」

 大西の態度に現われた過剰な自信をいぶかっていた室井が、芦沢に替わって答えた。

「空間の歪みを説明する例えだが……それがどうした?」

 大西はゆったりと微笑んでいた。

「説明の前に、お客を迎える準備をしておかなくては。シマダさん、いよいよ〝あれ〟が役に立ちそうですね」

 うなずいたシマダは、白衣のポケットから小さなガラス壜を取り出した。シマダは大西が差し出した使い捨ての注射器を受け取ると、壜のゴム栓に針を立てて中身――透明な液体を吸い上げる。

 室井は首をひねった。

「何だ、その液体は? そんなもので、いったい何を……?」

 シマダは答えなかった。

 大西が説明した。

「さっき僕が頼んでおいたんです。一種の〝保険〟ですよ。僕は何としても、もう一度外の空気が吸いたいんでね」

 室井の妻が、夫の腕にすがりながら言った。

「何か危険なものじゃないの? こんな狭い部屋で危ないことはやめてくださいな……」

 室井がうなずく。

「何を企んでいるのか説明したまえ」

 しかしシマダはきっぱりと言った。

「保険だからね、迂闊にタネは明かせない。だが、スタッフに危険がないことだけは私が保証する」

 そう言い切られては、室井も反論できなかった。彼の指導力はすでに失われているのだ。

 室井は哀しげに妻を見つめただけだった。

 シマダは全員に見つめられながら奥に進んで、手動で24のポッドを開いた。中で眠る老人の冷たい胸に正体不明の液体を吸い上げた注射器を突き立てる。シマダは無表情に蓋を閉じると、隣のポッドも開いて同様に注射をした。

 大西は中森に言った。

「Bルームの扉を空けてください」

 じっとシマダを見ていた中森ははっと我に返り、マウスを取った。首をかしげながら言った。

「でも大西さん、センターは私たちがこの部屋の存在に気づいたことをまだ知らないんですかね? 人質を押さえたことを悟られたら、電源を切られるんじゃないんですか?」

 大西はまだ微笑んでいた。

「その心配はありません。電源を切れば、最初に死ぬのは大事な人質たちですから」

 迫り出した壁が上がってBルームの入り口が開いた。ポッドの蓋を閉じたシマダが大西に歩み寄り、謎の液体が入った小瓶を手渡す。

 大西は小瓶のゴム栓を外すと、Bルームに這い上がった。脳が収められている容器を取り出して蓋を開け、小瓶の液体をごく小量だけ振りかける。脳が入っている容器は全部で八個。大西はその蓋を次々に開いて全ての脳に液体を振りかけていった。

 その単調な作業が終わってスタッフの前に戻ると、大西は空になりかけた小瓶にゴム栓を戻してシマダに返した。

 大西は言った。

「しつこいようですが、手についたぐらいじゃ感染しないんですよね?」

 シマダはかすかに笑った。

「安心したまえ。例えこの壜の中身を全部飲み干したところで、ウイルスは脳に到達しない。危険なのは、大量に血液中に入った場合だけだ」

 室井が驚きの声を上げた。

「ウイルスだと⁉ 君らは何をやらかしたんだ!」

 大西はシマダがポケットに入れようとした小瓶を指さした。

「これは、シマダさんがHD治療薬を研究する課程で作り出した新種のウイルスなんです」

 室井の妻が叫んだ。

「何ですって? なぜそんなものを⁉」

 室井が言った。

「くそ、そいつがスフィアを汚染していた正体不明のウイルスだったのか⁉」

 シマダの声は落ち着いていた。

「違う。このウイルスのRNAデータはバンクに保存されているから、もしそうであればとっくに正体が判明している」

「それでは何のウイルスだ⁉」

 シマダの声にはかすかな悔しさが感じとれた。

「私の遺伝子治療研究にとっては完全な失敗作だった……。ヒトのDNAの中から特定の部分を削除する効果を期待して作った試作品なのだが、まだ拡張制限酵素との相互作用が弱く、狙った位置の塩基に正確に作用させることができない。今の段階では、遺伝子のどの部分を傷つける予測できないのだ。現在でもHD遺伝子を持つ者には若干の治療効果が期待できるが、同時に『脳を冒す』という強い副作用があるようでね。実験に用いたマウスは、全て数日で死に至った。今は、根本的に考え方を変えたワクチンを作っていた。解決法は、今一歩のところまで完成していたのだがね……」

 室井がうめいた。

「そんな危険なものを、なぜばらまいたりしたんだ……?」

 困惑から立直った中森がにやりと笑ってうなずいた。

「なるほど、ここの人質は今まで地上に存在しなかった『ウイルス病』に感染してしまったわけか……ざまあみろ、だな」

 シマダが答える。

「このウイルスは、神が創造したものではない。したがって、神には無力化する能力も意志もない」

 芦沢が後を続けた。

「治療ができるのはシマダさんだけ……か。たとえウイルスの遺伝子組成が完全に分かっていても、すぐ治療法が見つかるものではありませんからね。やっとナカトミに一矢報いてやれる」

 大西がうなずいた。

「つまり、ナカトミが〝預かり物〟を守りたいなら、絶対にシマダさんの命を危険にさらせないわけです」

 シマダが言った。

「そしてセンターがあくまでもスタッフの命を奪おうとし続けるなら、私は決して彼らに協力しない」

 室井もようやく納得した。

「うむ、それでみんなの命が保障されるというわけか」

 峰が表情を明るくして言った。

「でも、人質にウイルスを射ったことをセンターが知らなければ脅迫にならないじゃない。こんなところに閉じこもっていたって戦いようはないわ。いっそのこと外に出ましょうよ」

 大西は首を横に振った。

「もうすぐ、連中の方からこっちにやって来るさ」

 室井が言った。

「何だと? この部屋に外への抜け道があるとでもいうのか⁉」

 大西はきっぱりと言い切った。

「あります」

 全員がはっと息を呑んだ。

 室井がつぶやく。

「何……? なぜそんなことを知っている⁉ 君はそんなに重要なことまで隠していたのか⁉」

「知っていたんじゃありません。推理しただけです」

 芦沢が身を乗り出した。

「根拠を聞きたいな」

「最大の理由はBルームの使われ方です。脳の容器を収める場所は百を越えていますが、実際には八つしか使われていません。初めから八個の脳しか収容しない計画だったなら、こんなに沢山の入れ物を用意する必要はありません」

 芦沢がうなずく。

「収容する脳が増える可能性を見越して設計されている、と……?」

「その通りです。当然のことながら、企業は無駄な投資を嫌います。脳の冷凍保存が〝事業〟であるなら、クライアントの要請には直ちに対応できる体制が整っていなければ意味がありません。『次にスフィアが開くまで数年お待ちください』なんて言い訳をしていては、客はアメリカの商売敵に取られてしまいます」

 室井はうなずいた。

「センターの連中は、いつでもこの部屋に出入りできるようになっているのか……」

「そうとしか考えられません。まあ、通路の存在を知っていて出入りを許されているのは上層部の数人にすぎないでしょうけれどね。一方スフィアの内部では、人工冬眠室はシマダさんしか知りませんでした。しかもBルームに関しては彼さえ何も教えられていなかったんです。ここにセンターにつながる秘密の通路を隠していたって、部外者に悟られる恐れはありません」

 峰がつぶやく。

「でも外部との通路があったなら、スフィアの気密性は崩れるわ。センサーが異常を感じないの?」

 大西は答えた。

「たとえ秘密の扉が開いて外部の空気が流れこんできてもここの扉はいつも閉まっているし、スフィアとの間にはVラボという緩衝地帯がありますからね。コアのセンサーがいくら敏感でも、大気の変動を記録することはないでしょう。そもそもが、頻繁に使う性質の通路ではありませんし。僕らが逃げ込んだロシア人形の一番〝内側〟には、空間がねじれて外に出られる抜け穴ができあがっていたわけです。ちょうど『クラインの壷』のように」

 中森が言った。

「ありえそうな話ですがね……確実な証拠は? 命を賭けるには推測以上の情報が欲しいんですけど」

 大西は肩をすくめた。

「情況証拠なら他にもありますよ。たとえばBルームの容器に充填されている液体窒素。どんなに容器の気密性を高めていても、何年もたてば補充しなければならないはずです。換気も必要でしょう。それらをコントロールしているのはセンターです。しかもこれだけ複雑なシステムですから、いつ故障するか予測できないはずです。いくらメンテナンスが必要ないように設計したとしても、所詮は人間が作る機械ですからね。万一の際の対策は欠かせないはずでしょう? 脳や冬眠中の人体が成金の顧客からの預かり物であるなら、たった一つのミスでも許されません。そんな緊急の場合にいちいちスフィアのエアロックを開けさせるわけにはいかないじゃありませんか。この部屋の機能を正常に維持するためにも、通路は絶対に必要です」

 中森は渋々うなずいた。

「確かに理屈では納得できますけど……」

「理由はもう一つ。中森さんの発見です。この部屋の電源はスフィア側には接続されていません。人工冬眠室はセンターに直接支配される領域だったのです。そうであるなら、ドアの開閉からコンピュータの操作に至るまで、センターは逐一監視していたはずです」

 中森が大西の言わんとするところを察した。

「私たちがこの部屋を発見したことはもう敵に知られている……と? じゃあ、立てこもる準備をしていたことも見抜かれていると言うんですか⁉」

「そう考えるべきでしょう。彼らは、僕らが人質を押さえたことを知っています。ウイルスを射ったことさえ知っているかもしれません。今頃は『交渉は避けて通れない』と覚悟を決めているはずです。ところが、光ファイバーは切断しましたから、通常の会話はできなくなっています。交渉を進めるには誰かがスフィアに入ってくる他に方法はないのです。なのにエアロックは開かない。それどころか、センター要員が一酸化炭素を注入し続けています。なぜ所長はスタッフ抹殺命令を取り下げないのか? 理由は、最高機密である〝人質〟の件を、あるいはもっと重要な〝未知のウイルス〟の存在を、子飼いの〝軍隊〟にさえ悟られたくないからでしょう。つまり、最高責任者が秘密裏に直接交渉に臨むしかない状況になってしまったわけです。それには、人知れずスフィアの内部に入れるルートが必要ではありませんか? それが存在しないなら、とっくにエアロックは開いています」

 芦沢が質問した。

「だがそんな通路がここにあるなら、さっさと人質を運び出してしまえばいいんじゃないのか? 私たちがこの部屋を空けていた時間だって短くはなかったんだから」

 大西はかすかに笑った。

「運び出して、どこに置きます? 脳にしても冬眠中の老人にしても、ここの装置に収められていなければ蘇生できなくなるでしょう。センターに予備の生命維持装置が用意されているぐらいなら、そもそもスフィアの中などに収容はしないでしょう。センターに選択の余地はなかったんです」

 芦沢はしばらく考えてからうなずいた。

「あなたが正しいことを祈りましょう」

 その時、突然悲鳴があがった。

「いや、なに⁉」

 叫んだのは室井の妻だった。

 彼女は両手で口を覆って、自分の足元を見下ろしていた。

 室井の傍らで倒れて動けないはずの仁科が、突然、素早く這い出したのだ。仁科は腕をのばして室井裕美の足首を掴んでいた。

 スタッフが動きだす前に仁科は立ち上がった。

 室井も予想外の出来事に反応できずに、硬直したままだった。

 仁科は、うろたえるばかりの室井の妻の後ろに回り込み、左手で彼女の口を押さえる。右手には、どこかに隠していたらしい手術用のメスが握られていた。

 仁科はメスを裕美の首筋に押しつけながら、かすかに震える声でつぶやいた。

「邪魔はするな……殺すぞ……」

 室井がうめく。

「裕美……」

 妻に向かって進もうとする室井の腕を、大西が掴んだ。

「刺激しちゃまずい……」

 仁科の目には追い詰められた者の恐怖が――いや、狂気がにじみだしていた。

 仁科は開け放たれたままのB・ルームを背に立っていた。かすかにもがく裕美を引きずるようにして、次第にVラボへ通じるドアへと近づいていく。無理に仁科を取り押さえようとすれば、裕美の頚動脈が切断されることは明らかだった。

 仁科は熱に浮かされたようにつぶやき続ける。

「動くなよ……一人も動くなよ……」

 芦沢が言った。

「鎮静剤は効かなかったのか……?」

 大西は仁科の動きをじっと見つめながら、悲しげに答えた。

「演技だったのか、解毒剤みたいなものを使ったのか……。しかも、メスまで……。僕が迂闊でした……」

 室井がすがりつくように仁科を見つめて言った。

「奥さんと娘さんを人質に取られたというのは……?」

 仁科はにやりと冷たい笑いを浮かべただけだった。

 峰が小声で言った。

「やっぱり、男の言葉なんか信じるものじゃないわね……」

 と、かすかなモーター音が起こった。スタッフははっと身をすくませた。

 仁科も緊張して、せわしなく辺りを見回す。

 B・ルームのドアが閉じはじめていた。中森が指先をわずかに動かしてキーボードにドアを閉じる命令を打ち込んだのだ。

 仁科が叫ぶ。

「やめろ! 動くな!」

 その目が、自分の頭をめがけて降りてくるドアを見上げた。

 一瞬、隙ができた。

 全身の筋肉に力を貯めて身構えていた大西は、わずかな気のゆるみを見逃さなかった。

 素早く数歩前に出ると、バレエを踊るような滑らかさで長い足を鋭く振り上げる。狙いはメスを握った仁科の手だった。仁科が大西の動きを察した時には、すでにメスは彼の手から離れていた。

 はねとばされたメスが宙を舞う。

 同時に大西は、室井裕美の口を覆った仁科の左手を掴んでいた。特に力を入れているようには見えなかったが、仁科は身をよじって叫んだ。

「痛い!」

 大西は裕美の身体を空いた左腕で引き寄せた。片手だけで仁科の抵抗を封じながら、顔を歪ませた〝黒幕〟に言った。

「ナカトミの保安部員は徹底した戦闘訓練を受けているんだ。性根の腐ったスパイ野郎がのぼせ上がるんじゃない! このまま骨をへし折ってやろうか⁉」

 大西は、駆け寄る室井に向かって裕美を押しだした。

 室井は肩で息をする妻を抱きしめて、仁科をにらんだ。

「この悪党め! どこまで身勝手な真似をだ⁉ 貴様の目的は、いったい何だったんだ⁉」

 大西はさらに降りてくるB・ルームのドアをかかんで避け、仁科の身体をうつぶせに倒した。腕を背中に回して握ったままなので、仁科は身動き一つできない。

 ドアが閉じると、モーター音は止まった。

 大西は、苦しげに息を荒くした仁科に命じた。

「ほら、室井さんが質問しているぞ。答えろ。BTIが貴様に与えた報酬は何だったんだ⁉」

 仁科はうめいた。

「決まっているさ……金……だよ……」

 大西は顔を上げて全員の顔を見回す。

「この男、どうしますか?」

 答えは、誰も出せなかった。

 どうするかを考える間もなく、またも異常が起こったのだ。

 再び起こるモーター音――。

 大西はB・ルームの壁を見上げた。

しかし、B・ルームのドアは閉じたままだ。動きだしたのは、Vラボへ通じるドアだった。誰も操作をしていないはずのドアが、ひとりでに閉じていく……。

 ドアを見た室井が叫んだ。

「誰がスイッチを入れた⁉」

 大西は仁科の手を放して身体を起こし、中森を見た。

 目を丸めた中森は両手を開いて上げ、小刻みに首を横に振る。

「何もしていませんってば!」

 大西が叫んだ。

「ちくしょう! センターだ!」

 全員の目が大西に集まった。そして、状況を理解した。

 センターはスタッフの抵抗と逃亡を阻止するために、扉をロックして人工冬眠室に閉じ込める作戦に出たのだ。

 峰がすがるように大西を見つめた。

「いいの⁉ このまま放っておいて⁉」

 スタッフ全員が大西を見る。彼らの表情には激しい恐怖が噴出していた。

 しかし大西は峰に歩み寄って肩を抱き、穏やかに微笑んだ。

「心配はいらない。全て僕の思惑通りだ。奴ら、いよいよやって来るぞ」

 峰は大西にしがみつき、小さくうなずく。

「あなたを信じる……ちょっぴり、恐いけれど……」

 と、仁科が飛び起きた。

「俺は死なん!」

 叫んだ仁科は機敏に這い出し、転がるようにして閉じるドアの隙間に突進する。

 大西が叫ぶ。

「行くな!」

 芦沢が、ドアをくぐり抜けた仁科を追おうとした。

「逃がすか!」

 大西は手をのばして芦沢の腕を掴んだ。

「無駄です!」

 ドアはすでに人が通り抜けられないまで閉じていた。隙間から仁科の高笑いが聞こえる。

「死ね、死ね! 貴様らはセンターに殺されるがいい!」

 扉が完全に閉じると、仁科の声は聞こえなくなった。

 大西は芦沢を放して、峰を抱き返しながらつぶやいた。

「残念だが、死ぬのはあんただ……」

 室井は、妻の身体を放してドアの前に進み出ると、『OPEN』と印されたボタンを押した。

 ドアは動かない。

 室井はシマダに言った。

「君の掌紋で開けられないのか?」

 シマダは冷たく答えた。

「センターがロックしたなら、何をやっても無駄だ」

 芦沢がつぶやく。

「助けてやる必要なんかありませんよ。私たちをこんな目に遭わせた張本人なんだから……」

 大西の腕の中で峰がうなずく。

「その通りよ。これ以上あんな卑劣な奴に邪魔をされたらたまらないわ。自分でスフィアに残ることを決めたんだから、放っておけばいいのよ。でも、あいつ……なんで奥さんを人質にしようとしたのかしら……? 室井さんの方がずっと近い場所に……人質にしやすい位置にいたのに……。しかもあんな手段で私たちの抵抗を封じても、センターの攻撃までは防ぎようがないのに。責任者の室井さんを人質にしたのなら、センターを脅かす効果があるかもしれないけど……」

 そして峰は室井の妻を見つめた。

 大西は応えた。

「冷静沈着なミスターXも、追い詰められて逆上していたからね。取りあえず、人質は誰でも良かったんじゃないのか? それとも、奥さんの方が抵抗が少ないと思ったのか……。無防備でセンターに捕まったら、殺されるよりひどい目に合うかもしれないし――」

 室井裕美に目を向けた大西は、不意に口ごもった。

 彼女が峰を見返した目には、冷静だが激しい敵意が宿っていたのだ。その厳しい表情は、大西がこれまで一度も見たことのないものだった。

 気配を感じ取って妻の身体からわずかに身を引いた室井も、妻の冷酷な目つきをぼんやりと見つめる。

 室井裕美の視線に射すくめられた峰は、無言で身体を震わせた。

 大西はじっと室井裕美の表情をうかがいながら、つぶやいた。

「僕はまだ、大事な何かを見落としていたようだな……」

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