ガラスの死刑台・1
室井は言った。
「しかし、ともかくこれで連続殺人の謎は解けたわけだ。残る問題は、どうやって外の連中を説得するかだが……」
しかし大西の顔つきは沈んでいた。
「そう簡単には行かないようですよ。得体の知れないウイルス――なんていう反則技が飛び出してきたんじゃね……。シマダさん、そのウイルスは本当に未知のものなのですか?」
シマダはうなずいた。
「地下のコンピュータには、私たちが取り扱ってきた全てのウイルスのデータが保存されている。データバンクに一致する資料がなければ全く新しいウイルスと考えて間違いない」
「なぜ、そんなものがこのスフィアに……? あなた方は既知のレトロウイルスをベクターにして遺伝子治療を考えていただけじゃないんですか? 新種のウイルスまで開発していたというんですか?」
シマダは首を振った。
「私が扱っていたのはHIVとHDだけだ。その課程で発生したウイルスは残らずバンクに登録してある」
「変種のウイルスが自然発生する可能性は? エイズウイルスは突然変異が激しいと聞きましたが?」
「それは考えられない。さっき分析機にかけた検体には人工的なマーカーが印されていた。Vラボで作り上げられたウイルスであることは確実だ。他のメンバーがデータを隠しながら〝そのウイルス〟を開発していたのだろう。いちばん怪しいのは高崎だ。あの男は生物災害の危険性も顧みずに、興味本位でDNAを操作するような荒っぽいところがあったからな」
「それを鳥居さんがばらまいてしまった……?」
シマダは血の気を失った顔でうなずいた。
「彼女が研究室から全てのウイルスを盗み出したとするなら、その可能性が高い」
「高崎さんの能力はどの程度だったのですか?」
「私が彼の年令だった時よりも、はるかに高かった。突飛なアイデアを実現させてしまう動物的な勘は、今の私さえ凌いでいただろう。しかしどんな天才といえども、全く新たなウイルスを作り出すことは技術的に不可能だ。DNAを合成することは理論的には考えられても、我々の知識とテクノロジーはそこまで進歩していない」
芦沢が言った。
「しかし、レトロウイルスって奴は他の生物の遺伝子の一部を盗み出すことができるんでしょう? だとしたら、新しい機能を持ったウイルスもわりと簡単に作れるんじゃないですか?」
シマダもうなずいた。マウスを取ってコンピュータに指示を与えながら答える。
「そのプロセス自体は遺伝子治療の根幹だからね。DNAの解析結果を既知のレトロウイルスと詳しく比較してみよう」
大西は言った。
「新種のウイルスがどんな機能を持っているか分析できますか?」
「時間が何年かあれば不可能ではないだろう。しかし『今、ここで』と求められても応じられない」
室井は苛立たしげに言った。
「ウイルスの解析は後にできんか? 今は、外の連中とどう話をつけるかの方がはるかに重要だ」
中森が言った。その言葉は、強い理性と強固な意志に支えられている。
「私はそうは思いません」
室井は不快感をあらわにした。
「何だと?」
中森は落ち着いて説明した。
「ナカトミがスタッフ抹殺を計る最大の理由は、この〝未知のウイルス〟を隠すことではないかと思えるんです。大西さんでさえ、今まで手に入った情報だけではナカトミに真意が読み切れなかったんですから。新たに加わったこのウイルスこそ、全ての謎を解く鍵なのかもしれません。こいつには、ナカトミほどの財閥に〝人殺し〟をさせなければならないだけの力がある……そんな気がします。ウイルスの正体を突き止められれば、強力な切札になる可能性もあります」
大西も言った。
「異論はありません」
シマダがうなずく。
「同感だ。おそらくナカトミは、密かに高崎に命じてこのウイルスを作らせていたのだ。私にさえ知らせずにそのような作業を進行させていたとするなら、倫理的にも生物学的にもかなりの危険を抱えたウイルスだと推定できる。『生物兵器開発を行なっていた』というSF小説的な可能性ですら、もはや捨てきれない。ナカトミが本当に恐れているのがこのウイルスの秘密を暴かれることだとしたら……」
峰がうめく。
「そんなウイルスに私たちも汚染されてしまったの……?」
シマダは冷静に答えた。
「ベクターがHIVであるなら、空気感染の心配はない。可能性はゼロだとは言えないがね」
室井が動揺を抑えながら反論した。
「君たちの言い分は分かるが、センターは待ってはくれん。退避の準備はすませておくべきだ。ウイルスの解析は、Vラボからでも進められるのではないか?」
大西はうなずいた。
「それもそうですね。では、いよいよ『アラモの砦』へ」
中森は、放心状態に陥っていた仁科をじっと見つめていた。
「殺人犯はどうするんですか?」
大西は仁科に向かって言った。
「さっき僕に射とうとした鎮静剤はまだ残っているね?」
仁科はぼんやりと壁を見つめたまま振り返ろうともしない。
室井が命じた。
「仁科君、答えたまえ! ここに及んで協力を拒否するなら、君だけをコアに残していくぞ!」
仁科はゆっくりと室井に目をやってつぶやいた。
「どうせ、出られやしないさ……誰一人、な……。ナカトミは、ここまでやっても後に引かない連中なんだぞ……あんな地下に潜ったら余計に助かる見込みはない……」
大西は冷たく言った。
「そう思うなら、温室に出ていろ。一酸化炭素中毒なら苦しまずに死ねる。僕らも余計なことに気を使わずに脱出に専念できる」
仁科は大西を見た。
「死ね――というのか……」
「言われても当然だろう? しかし、裁くのは僕らじゃない。言うことを聞くなら、一緒に連れていって裁判にかける。どちらにするか、今ここで選べ。鎮静剤はどこだ?」
仁科はじっと大西を見つめた。
「君は……私がなぜこんなことをしたのか……しなければならなかったのか、聞こうともしないのか……?」
大西は冷静に言った。
「どんな理由があろうが、あなたが人の心をねじ曲げ、仲間たちの命を奪ったことに代わりはない。自己弁護は被告人席でしろ」
仁科は室井を見つめた。その目には、わずかな涙がにじみ出ていた。
「許してほしい……とは言わない。ただ、私は分かってほしいんだ。BTIの命令に従う他に選択の余地がなかったことを……」
室井の表情からとげとげしさが薄れた。
「なぜだ? なぜ君は、一年半も行動をともにしてきた仲間を平然と裏切れたのだ?」
仁科は床に目を落とした。
「妻と娘が……彼女たちの命を救うためには、私はBTIに逆らう事はできなかったんだ……」
室井がつぶやく。
「離婚しているんではなかったのか?」
「とんでもない……彼女たちはフロリダのBTI研究所に軟禁されている。私が言うことを聞かなければ『彼女たちを麻薬で廃人にする』と脅されて……」
大西が言った。
「お涙頂戴の作り話も、裁判にとっておくがいい。早く鎮静剤を出せ!」
室井が大西をにらむ。
「君! 事情を話すぐらいの間、待てんのか⁉ これでも仁科君はスタッフの一員だったんだぞ!」
大西は室井を見返して応えた。
「本当に仲間だったのなら、こんな犯罪をおかすはずはない」
仁科がうめく。
「だから、女房子供を人質に取られて、仕方なく――」
大西はその言葉を冷たくさえぎった。
「時間がないんだ。早くしろ」
峰が言った。
「大西さん……そんなにまで言わなくても……」
「君まで騙されるのか? 『男は行動で判断しろ』っていう、お父さんの言葉を忘れたのか?」
「でも……」
大西は再び仁科に命じた。
「さっさと薬を出すんだ!」
大西の語気の荒さに、室井も峰も反論する気力を失った。
仁科がつぶやく。
「分かったよ……」
がっくりと肩を落とした仁科は亡霊のように立ち上がって、薬を並べた棚に歩み寄った。棚の箱から一本のアンプルと使い捨て注射器を取り出す。
そして言った。
「注射は自分で射つ。すぐに意識が混濁して二階堂君と同じ状態になるから、後は頼んだぞ」
その二階堂は、サリーとともにベッドに横になってぼんやりと天井を見つめていた。意識は回復してきたようだが、自分の意志で身体を動かすことはできない様子だった。
大西はうなずいた。
「小細工はするなよ。それと、残っている注射器をもう一本出しておけ」
コンピュータに指示を出し終えたシマダが首をひねった。
「大西君、注射器で何をする気だ?」
大西は悲しげに言った。
「毒を射つ用意ですよ。最後の手段……としてね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます