バイオロジカル・クライシス・3
かすかな声をもらしたのは、青ざめた仁科だけだった。
「馬鹿な……あれは確かに左腕だった……みんなだって見たじゃないか……」
大西はうなずいた。
「僕も見ました。確かに、あれは左腕に見えました。でもそれは、そう見えただけで、実際には高崎さん自身の右腕だったんです」
「何を馬鹿な……」
「実に単純なトリックですよ。右腕の親指を切断し、ビーズ手芸で糸代わりに使う細い針金で反対側に縫いつける――たったそれだけのことで、実際には右腕であるものを左腕に見せかけることが可能だったのです。外科医ならほんの数分で終わる簡単な〝手術〟でしょう。アルコールを使って黒焦げに焼いてしまえば、傷口など見分けることはできません。みんなも動転していましたから、あなたの言葉を疑ったりもしませんでした」
芦沢はつぶやいた。
「それで時限装置を使って火事を起こしたのか……指をつけ替えたことを見破られないようにするために……」
室井がうめいた。
「まさか……そんな簡単な方法で、スタッフ全員を騙せただなんて……」
大西は言った。
「現にさっきだって、スタッフ全員が鳥居さんの左腕を右腕だと思い込んだじゃありませんか」
室井がうなずく。
「それもそうだな……。君からあのトリックを聞かされた時は、あんなにうまくいくとは思わなかったが……」
「人間の感覚なんて、それほど先入観に左右されやすいものなんです。動転している時に誰かが『これは右腕だ!』って叫べば、それが真実になってしまうわけです。仁科さんはまさにその通りの心理的トリックで全員を――いや、管理センターまでをも騙し切ってしまったんです。ところがこのトリックは両刃の刃でした。切り取ったそのまま腕を残しておけば、偽装を裏づける証拠になってしまうからです。死ぬのが高崎さんだけで終われば、ナカトミは『偽装工作は石垣さんの仕業だ』と結論するしかなかったでしょう。石垣さんが殺したことは事実ですから、他の可能性を検討する余地はありません。それなのに、犯人役として選ばれた石垣さんまでが殺されることで、もう一人の殺人者が存在することが――そして、彼を操った人物がいることが明らかになってしまいました。〝潔白〟でいられたはずの黒幕には不運でしたが、容疑者の一人に逆戻りしてしまったのです。しかも、高崎さんの死体が先入観を持たない専門家の手で調べられれば、医者の手で〝手術〟をしたことが見抜かれる可能性が高い。縫いつけた指は、燃やしても落ちてはならない。そのためには、骨どうしをしっかりつなぐ必要があります。そんな技術を持っているのは、外科医だけでしょうからね。だからこそ黒幕は、自ら手を下してまで天野さんを殺し、鉄壁のアリバイを手に入れなければならなかったのです。そしてすべてを鳥居さんの仕業にして、自分はBTIの救出チームに運命を託す覚悟を決めたのです。だからあなたは『ウイルスに感染した天野さんの死体を焼くためだ』と理屈をつけながら、偽装を施した高崎さんの右腕を完全に焼き払ったのです」
峰が言った。
「でも、なぜそんなことをしたの? わざわざ偽の左腕を作り出して、何の得があったの?」
大西はうなずいた。
「その答えはすでに出ている。犯人は出所不明の左腕を出現させることで『人工冬眠室が暴かれた』と見せかけ、ナカトミの首脳に圧力をかけたんだ」
室井が仁科の表情をうかがいながら言った。
「つまり犯人は、人工冬眠室の存在さえも知っていた……と?」
大西はうなずいた。
「知ってはいましたが、開けることはできなかったのです。センサーに掌紋を登録されていないからです。だから〝偽の左腕〟を作り出すことで目的を果すしかなかったわけです」
「だが、なぜ犯人は冬眠ポッドのことを知っていたのだ? 私でさえ知らされていなかった機密だというのに……」
大西は事もなげに答えた。
「むろん、知っている人物から聞いたのです」
シマダが言った。
「まさか⁉ あの件は私しか知らないはずだ」
「だから、あなたから聞き出したのです」
シマダは絶句した。
声を上げたのは芦沢だった。
「畜生! 催眠治療だ! 私たちに催眠術をかけていた最中に聞き出したんだ!」
大西はうなずいた。
「情況証拠は嫌というほどあります。個人コードがもれていたこと、倉庫のダイヤル錠のナンバーが知られていたこと、そして石垣さんが高崎さんの秘密口座の件を知っていたこと。これらを考え合わせると、他の結論は出しようがありません。ここのスタッフの中には、他人の脳の中身を覗き見、さらにそうして知った事実を別の人間の脳に押し込むことができる〝マジシャン〟がいたのです。そして脱出を決行する日に備えて、さまざまな情報を集めていたのです。このマジシャンなら、石垣さんに偽りの儲け話を吹き込んで高崎さんを殺させることも可能だったでしょう」
中森が耐えきれずにうめいた。
「貴様……」
再び仁科に飛びかかろうとする中森を、芦沢が押さえる。
「中森さん、こらえて……」
中森の目には、涙がにじんでいた。
大西は仁科をにらんで続けた。
「あなたは、『専門書を読んだだけだ』と言っていましたが、そんなはずはない。BTIに選ばれたのは、それにふさわしい技量を認められたからに違いない。あなたは、催眠状態になったスタッフに、多くの秘密を話させることができたはずです。スタッフ一人一人はスフィアで行われている研究の全体像を知らない。しかし、基本的には研究に加わっていないあなたは、逆に全員の話を統合して全体像を描ける立場にあったんです。それこそが、BTIが求めた情報です。喉から手が出るほど欲しい財産です。そして、あなたにとっては最大の保険です。一年半に渡って蓄えた知識があれば、BTIもエイズワクチンを完成させられるかもしれません。当然BTIは、あなたを救出するために全力を尽くすでしょう。再び、特殊部隊を送り込んで来る可能性だってあります。このスフィアから外に出られさえすれば、あなたは安心してBTIの助けを待つことができるはずでした」
仁科はじっと大西を見つめ、何も語らなかった。
峰がつぶやく。
「でも、催眠術といっても……そんなことまでできるほど強力なの? 私は、何も覚えていないのに……」
芦沢が応えた。
「それが、こいつの実力を物語っています。あなたは何も覚えていない。もちろん、私も。それなのに、二人とも個人コードを盗まれている」
「信じられない……そんなに簡単に、人の心を操れるだなんて……」
芦沢は興奮を抑えられないように言った。
「その可能性に気づかなかった自分が、つくずく情けなくなります。でも催眠術は、トリックや魔法とは違います。特に催眠療法は、きちんとした理論体系を持った医療行為です。方法さえ学べば、誰にでもできるといいます」
大西が問う。
「詳しいんですか?」
「少し本を読んだだけですけど。主に、ミステリーの。でも、おおよその理解はできていると思います」
「僕はよく分からない。説明してもらえますか?」
芦沢はうなずいた。
「人間の心は、無意識の領域を理性が包んだ二重構造になっています。理性には道徳や常識といった社会性が宿り、無意識――つまり本能が勝手気ままに振る舞うことを抑制しています。だから、『おまえはカエルになる』と命じても、『ばかばかしい』と笑いとばすことができます。ところが催眠状態に入ってリラックスすると、理性の活動が弱くなり、本能がむき出しになってきます。ここに直接『おまえはカエルだ』という暗示を送り込むと、抵抗なく受け入れてしまうのです」
大西がつぶやく。
「で、本当にカエルになる? 催眠術ショーのように?」
「テレビのような見せ物は、ほとんど演技じゃないんですか? それに、カエルのような振る舞いをしたとしても、それは催眠状態になった人のカエルのイメージが表現されただけです。『命令に逆らう』という理性的思考が機能を止めているので、素直にカエルの演技をしてしまうに過ぎません。本当に『自分がカエルになった』と信じ込んでいるわけではないようです。かかりにくい人の場合は、頭の中にカエルを思い描いていても、体が全然動かないことがあるいいます」
「催眠状態には、簡単にできるんですか?」
「技術的にうまい下手はあるでしょうがね。単調なリズムと、不規則な点滅がトランス――つまり催眠状態に導くのに有効だといわれています。ほら、紐で垂らしたコインとかメトロノームとか、催眠術に付き物の小道具です。音楽にのめり込んで心地よくなるのも、このトランス状態が理性の活動を低下させるからです。いかがわしい宗教団体の祈祷なんかも同類でしょう。トランス状態に入ってリラックスすると、脳波もアルファー波やシータ波に変化していきます。この状態で何かを命じると、暗示の言葉を拒絶しにくくなるわけです」
「つまり『個人コードを教えろ』と命じれば、素直に聞き出せる?」
「その上、最後に『しゃべったことは忘れろ』と暗示すれば、理性が回復したときには何も覚えていません。しかもいったん催眠状態に入ったことがある人間は、次はより早くその状態に戻れると言います。耳元で指を鳴らされただけでトランス状態に入る、とかね。無意識の領域に何らかの命令を植え付けておいて、特定の言葉を聞くとそれを実行に移す――なんて技は、時々小説でも使われてますよね。本当にそんなことができるかどうか、今までは疑っていましたけど」
「じゃあ、スタッフは全員トランス状態を経験していたんですか……?」
芦沢は仁科を見つめた。
「こいつの道具はペンライトでした。ゆっくり振りながら、時々点滅させるんです。相手は医者ですからね。何の疑いも持ちませんでした」
仁科が訴える。
「あれは正当な治療行為だ!」
芦沢は不気味な昆虫を見るように唇を歪めた。
「確かに。治療が終わった時は、実際、すっきりした気分で仕事に戻れましたからね。あなたが有能なことは間違いありません。しかし、治療の他に何をされたのか……私の理性は、それを知ることもできないんです。なるほど、BTIは有能な人材を見つけだしたものです」
「スタッフの頭の中をのぞき見る能力は、スフィアに送り込むスパイに必須の条件だったんです」
室井が言った。
「石垣はマインド・コントロールを受けていたわけか……」
大西がうなずいた。
「自分で気づかぬうちに行動を操作されていた人物は他にもいるでしょう。たとえば鳥居さん。僕はエイズ治療ワクチンをエアロックのまわりにばらまいたのは彼女だと考えています。〝黒幕〟と違って、掌紋を登録されている彼女ならVラボに自由に出入りできます。しかも研究自体に関わっていない分だけ、生物災害に対する恐怖心が薄かったはずです。実際にウイルスを研究しているスタッフでは、いくら無意識の領域に指令を植えつけても理性がそんな無謀な行動を許さないはずです。鳥居さんがエアロックから脱出できると思い込んだのも、暗示の結果でしょう」
シマダが言った。
「しかし、研究中のウイルスが消え去れば、私が気づくはずだ……。それに彼女には、どれが完成した治療ウイルスかは分からなかったと思うが……?」
大西はうなずいた。
「多くの標本から少しづつ抜き取るとか……目立たない方法を選んだんでしょうね。とにかく研究中のウイルスを全部エアロックに吸い込ませてしまえば、後はBTIでの分析で正体を判別できるでしょうから」
シマダは自分の耳を疑うようにつぶやいた。
「それこそ無謀な賭けだな……。完成したウイルス標本には人体への危険性がないはずだが、臨床的調査は全く行なっていないのに……」
大西はうなずいた。
「犯人は、それらのウイルスに危険性がないことを信じ切っていたんでしょう。それとも、リスクを冒してでもやらなければならなかったのか……。いずれにせよミスターXは『どうすれば疑いを抱かれずにウイルスを盗めるか』を念入りに鳥居さんに教え込んだはずです。石垣さんに高崎さんを殺させたように、ね」
落ち着きを取り戻した中森がつぶやく。その声は、理性的な振る舞いを〝演じる〟ことで怒りを押さえ込もうとしているように聞こえた。
「なるほど……犯人は、鳥居さんの潜在意識を操って企業秘密を盗み出させたわけですか。でも、それならどうして、何もかも催眠術で処理しなかったんですか? スタッフ全員に術をかけてしまえば、時限装置のトリックなんか必要なかったのに」
大西は首を横に振った。
「理由は簡単です。第一に、犯人が敵対していたのはスフィア内のスタッフではなく、管理センターだったからです。事は全て、センターが客観的に納得できる状況で終わらなければ意味がありません。第二は、芦沢さんの説明にありました。催眠術のかかり方は人によって違うし、全く通用しない人間だっているんでしょう」
芦沢が言った。
「しかしいくら優れた技術を持っていても、殺人まで命じることができるんだろうか……。まあ、大事な個人コードさえ教えてしまった私が偉そうに言えることじゃありませんけどね……」
大西はうなずいた。
「その疑問はもっともです。でも、僕は可能だと思います。犯人には一年半もの時間があったんですから。スタッフ全員の性格や催眠術への反応をじっくり観察した上で二人の人物を選び出し、術を使って対立感情をあおっていく……。そうして常に感情を爆発寸前の状態に置いておくことはできたでしょう」
中森が言った。涙をこらえ、堅く握った拳がかすかに震えている。
「そういえば石垣は、いつも高崎に腹を立てていたっけ……。高崎に下らないいたずらでからかわれても、ただじっと我慢していた。石垣の性格なら殴りあってもおかしくないと思っていたんだが……。あれも催眠術のせいだったのか……」
大西は仁科をじっと見つめながら答えた。
「高崎さんの攻撃的な性格を石垣さんに向かわせ、逆に石垣さんにはその怒りを腹にため込むように操作する。そうして一年以上。石垣さんの心には相当のストレスと怒りが蓄積していたでしょう。その怒り自体は、催眠術で安直に植えつけられた架空の感情ではありません。長い時間をかけて積み重ねた、石垣さん自身の実体験です。それが限界に達した時にちょっと背中を押してやれば、人殺しだって案外簡単にできるような気がします。たとえば、キリスト教系の学校の教師が人事問題を根にもって上司を殺した――という実例もあります。些細な憤りでもそれが蓄まり続けると、人の精神を狂わせるものなんです」
中森はついに涙をこぼした。
「石垣は……そんな苦しい目にあっていたのか……。許せない……」
室井が中森の怒りをそらせようとするかのように話を戻した。
「つまり逆から見れば、彼ら以外は心を操ることができなかったわけか?」
大西はうなずいた。
「他のスタッフに対しては、個人コードや人工冬眠などの〝情報〟を話させるのが限界だったのでしょう。自由に行動を命令することができたのは、石垣さんと鳥居さんの二人だけだったと考えていいでしょう。だからといって安易に催眠術を使えば、操られた人物の不審な行動が見咎められて自分が黒幕であることが暴かれる危険性が高まります。催眠術で〝行動〟を操作するのは、犯人が切札に残しておいた最終的手段だったに違いありません」
室井がうなずいた。
「そして、脱出の日――か」
「エアロックをこじ開ける手段は一年半の時間をかけて練り上げられ、考えられる限りのアクシデントに対応できる準備をしていたんでしょう。血管を拡張させる降圧剤まで用意していたことが犯人の周到さを物語っています。脱出計画のスタートは高崎さんの殺害でした。石垣さんに殺人事件を起こさせながら『謎の左腕』の出現によってナカトミを脅迫することができれば、スフィアから安全に逃げ出せると計算したのでしょう。人工冬眠室のことはシマダさんしか知らなかったわけですし、実際に高崎さんを殺したのは石垣さんですから、自分が容疑者になる心配は一〇〇パーセントありません。しかし僕が予定より早く到着したことが――それはこちらの計画の一部だったわけですが、犯人の計画を根本から狂わせてしまいました」
シマダが言った。
「石垣がサリーのことを知っていたのも、犯人からのマインド・コントロールを受けた結果だったのか……」
大西はシマダを見た。
「『人工冬眠室が存在する』という知識を与えておかなければ、石垣さんが生きてスフィアを出てセンターの追求を受けた時に辻褄が合わなくなりますから。『右手を左手に見せかけたトリックは石垣さんの仕業だった』と、センターに納得させるためです。センターを騙し通すには、『石垣さんが機密に通じていて、その知識を利用してセンターを脅す意図があった』ということを〝既成事実〟にすることが不可欠なのです。そもそも人工冬眠室の存在を知らないなら『左手を二本作ることが恫喝になる』などと思いつくはずがありません。だからこそ犯人には、石垣さんの死が痛手だったのです。念入りに準備してきたスケープゴートがあっという間に消えてしまったのですから。しかもあなたが石垣さんの右手を切り取るという偽装を施したことが、状況をさらに複雑にしました。その上僕が、犯人が全てを石垣さんの責任にしようとした推理をことごとく潰してしまいましたしね。そこで犯人は、次に鳥居さんを身代わりに仕立てるべく、天野さんを殺すという暴挙に出たのです。初めて、自ら手を汚すという危険を冒してまで。その結果、自分は完全に容疑者の枠から逃れたわけです」
芦沢が言った。
「でもそれでは、自分までがここで死ぬ可能性が高くしてしまうのではないですか? あの時点では、センターはもはや頼れないと考えられていたんですから」
「犯人は『センターは必ずスフィア内をモニターしている』と判断していたのでしょう。あるいは、保安部員の僕がセンターとの通信手段を持ち込んでいると期待していたのかもしれません。万一センターの機能停止が事実だとしても、スフィアの生態系が崩壊していけば、スタッフ全員が脱出に必至になることも確かです。その動きがセンターの生き残りに伝われば、エアロックが開くことだってありえますから」
峰が言った。
「じゃあ、畜舎の爆破も同じ目的で?」
「生態系を破壊し続けたのはナカトミに圧力をかけるためでした。『このまま放置しておけば有能な科学者たちが死んでいくのだぞ』……とね。ですが犯人の正体を暴く手段を失ったナカトミは、彼の思惑とはまったく逆の決断を下してしまったのです。すなわち、スタッフ全員の抹殺――」
「あなたの荷物から出てきたっていう線虫のDNAは何のためだったの?」
「一番の目的は、シマダさんの正体を暴くことだったのでしょう。極秘のウイルス研究が行われていたことをスタッフが知れば、疑いの目はシマダさんに集中しますから。鳥居さんを黒幕に仕立て上げる布石にもなっていましたがね」
室井が重い溜め息と共に言った。
「しかし大西君、君はなぜ仁科君が怪しいなどと思いついたのだ? 長い間一緒に過ごしていた我々は全くそんな素振りに気づかなかったというのに……」
「先入観がなかったからですよ。それに決定的な事実を目撃してしまったのです。仁科さんはついさっき、二階堂さんに麻酔を射つ時に、彼女ではなく僕の腕に針を刺そうとしたのです」
仁科は叫んだ。
「嘘だ! 私は動転していたんだ! そう見えたなら、彼女が暴れていたせいだ!」
大西はうなずいた。
「かもしれません。でも、今となっては問題じゃありません。僕はあのことがあって初めて、あなたが黒幕である可能性を検討し始めました。重要なのはその点です。結果はお話した通りです。偶然と呼ぶにはあまりに筋が通り過ぎていると思いませんか?」
仁科は何も答えられなかった。
と、中森が言った。その声には、本物の落ち着きが蘇っている。理性が怒りを抑え込むことに成功したようだった。
「しかし、私にはまだ納得できませんね……」
大西は中森を見つめた。
「殺人犯の行動が、ですか?」
「いや、ナカトミの考え方ですよ。ナカトミがエイズワクチンや人工冬眠室を秘密にしたいのは確かでも、スタッフを皆殺しにしてまで守らなければならないほどの重大事なんでしょうか……? どちらも計画を急ぎすぎて倫理的には問題があります。他社に秘密を奪われたくないという計算も理解できます。しかしその研究は、いずれは人類がクリアしなければならない課題なんです。ナカトミが手をつけなくても、近いうちに必ず誰かが実験を始めるでしょう。その程度の理由で〝企業の方針〟として皆殺しを決断しますか? 一時的に危機を凌げたとしても、蟻の穴ほどの秘密がもれただけでグループの崩壊を招きかねない重大犯罪ですよ? 僕らは一応それぞれの世界で名が通った科学者だし、マイクロスフィアの実験自体がマスコミに報道されています。その科学者が『事故で死んだ』と偽装したところで、誰かが疑問を抱くに決まっています。対応をしくじってこんな陰謀が公になったら、それこそ墓穴を掘ることになるんじゃありませんか?」
じっと中森の疑問を聞いていた大西は、ゆっくりうなずいた。
「確かに、それは言えますね。特にシマダさんの命は絶対に危険に晒せない事情があるんですがね……」
シマダが応えた。
「私はナカトミに対して巨額の〝保険〟を取ってある。万一私や娘がスフィアの内部で死亡した場合、ナカトミは私の代理人に対して膨大な賠償金を支払わなくてはならないのだ。しかも実際に私が契約を交わしたのは、『ナカトミUSA』に対してだ。つまり訴訟はアメリカ本国で行われ、その過程でMSPの実態が暴かれる恐れは少なくないのだが……」
芦沢が言った。
「つまり、それほどの危険を冒してでも守りたい秘密が、まだマイクロスフィアに隠されている……ってことですか?」
大西が言った。
「そうなのかもしれませんね……奴ら、〝軍隊〟まで持ち出してきたんですから」
峰が言った。
「何なんだろう……そんな秘密って……」
その時、シマダの傍らのコンピュータが信号音を発した。シマダはVラボのコンピュータを介してDNA解析作業――正確にはレトロウイルスのRNA解析をモニターできるように回路を開いていたのだった。
シマダはマウスを取ってディスプレイに情報を描き出した。その作業は手慣れたもので、その検体が自ら作り出したエイズ治療ワクチンであることを疑っている様子は全くなかった。
が、画面を見たシマダは悲鳴に近い驚きの声を上げた。
「何⁉ 未知のウイルスだと⁉」
全員の視線がモニターに向かった。
そこには、短い文章が印されていた。
『検体に一致するデータはバンクに記録されていません』
マイクロスフィアは、シマダさえもが知らないウイルスによって汚染されていたのだった。
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