バイオロジカル・クライシス・2

 再び全員が医務室に集結した。

 二階堂とサリーは一つのベッドに横にされ、その傍らにシマダが座る。他の者は、自分の椅子に腰掛けた仁科の周囲を囲むように椅子を並べた。

 医務室は、手で触れられそうな緊張感に包まれていた。

 芦沢が言った。

「いよいよ謎解きの時間ですね……。不謹慎だとは思いますが、興奮するな……」

 それは本心から出た言葉だったが、あまりの率直さがスタッフの苦笑を誘った。緊迫感がわずかにほぐれる。

 だが、中森の表情は厳しい。

「はしゃがないでください。私たちもれっきとした容疑者なんです」

 芦沢は目を伏せた。

 中森は数時間の間に、親友と恋人を失っているのだ。

 大西は二人を見ながらうなずいた。

「確かに天野さんの死だけを考えれば、死体が落下した時点で温室から離れていたあなた方とシマダさん、そして医務室で眠っていたはずの鳥居さんの四人だけが容疑者だという結論になります。しかし僕は、天野さんの殺人そのものが巧妙な偽装工作であったという確信を持っています。天野さんは、あの時死体の近くにいた誰かにコアから落とされたのではありません。逆から見れば『あなた方は犯人ではありえない』ということになります」

 目を丸くした芦沢と中森は、声を出すこともできなかった。

 室井は首をひねった。

「何を馬鹿な……。天野君の死体が勝手に手摺りを乗り越えて『湖』に落ちた――とでもいうのかね?」

 大西は笑った。

「その通りですよ。天野さんは〝自分の力〟でコアから飛び降りたのです」

 峰が茫然と大西を見つめた。

「そんな……。だって彼女、全身の血を抜かれていたのよ。落ちた時にはとっくに死んでいたはずじゃなくて?」

 大西はうなずいた。

「それも事実だ。だからこそ彼女は自力で〝飛び降りる〟ことができたんだ」

 芦沢が身を乗り出した。

「おやおや、とうとう本格物の謎解きになってしまったね。さて名探偵、このトリックをどう説明する?」

 大西は落ち着いていた。

「全ての道具立ては、皆さん全員が目にしています」

「本格物はそうでなくちゃ」

 大西はゆっくりと説明を続ける。

「第一は、湖の底に沈んでいた渡り板。もう一つはコアの手摺りの近くに散乱していた土の袋。袋は三つで、合わせて三〇キロの重量がありました。そして最後は、手首に縛った痕跡を残している、血を抜かれた死体――」

 言葉を切った大西に中森が言った。

「それだけ? 確かにどれも私たちが見たものですけど……。でも、そんな物だけでどんなトリックが作れるというんですか?」

 大西は自信満々にうなずいた。

「コアの手摺りに傷がついていたことを思い出してください。六〇センチほど離れて平行につけられたすり傷。あの幅は、湖底にあった渡り板の幅に一致します。板は天野さんの死体と一緒に落下したと考えていいでしょう」

 自分の机で推理に聞き入っていた仁科に向かって、大西は言った。

「定規と消しゴムがありませんか?」

 仁科は大西を見つめ返す。

「何をするんだね?」

「実験ですよ」

 仁科は肩をすくめてから引き出しを引き、中を探った。

「こんなものでいいかね?」

「消しゴムは二つ欲しいんですが」

 さらに引き出しを探った仁科が差し出したのは、二〇センチほどの長さのプラスチックの定規と二つの消しゴムだった。片方の消しゴムの半分はすでに使われてすり減っていた。

 大西はそれを受け取って仁科に微笑みかけた。

「ありがとうございます」

 芦沢が身を乗り出した。

「そんな道具で再現できるのかい?」

 大西はうなずいた。

「うまく動くかどうか分かりませんが、原理は説明できますよ。最初に死体を板の端に乗せます。この時、重力によって体内の血液が右手首に集まるような姿勢を取らせることが重要になります。犯人は人体の構造に関して極めて詳しい知識を持っていたと考えられます」

 大西は芦沢の目の前で、定規の一端にまだ使っていない消しゴムを寝かせた。

 芦沢が言った。

「その新しい消しゴムが〝死体〟だね?」

「その通りです。さて、次に殺人犯は死体を渡り板ごと手摺りの上に乗せ、それを押し出していって死体を空中に突き出します」

 大西は左手の人差し指を横向きに伸ばして柵の代わりにした。その上に消しゴムが乗った定規を置き、ゆっくり押し出していく。

 峰がつぶやいた。

「手摺りの血痕と傷はその時についたもね」

 大西はうなずいた。

「そうして次は、反対の端に……これが難しいな……」

 大西は定規を押さえた指で器用にもう一個の消しゴムを動かし、それを定規の端に立てた。位置を調整しながらゆっくりと手を離すと、両端に消しゴムを乗せた定規が指先でバランスを取りながら揺れる。

 芦沢が大きくうなずいた。

「そうだったのか! 板の反対端に土の袋を置いて釣り合わせれば、死体はすぐには落ちないんだ!」

 大西は指先で定規をわずかに突いた。揺れは増したが、消しゴムは落ちない。

「うまくいったようですね。ヤジロベエの原理で、こうやってバランスを取ったわけです。手摺りの上は平らで幅は五センチ以上もありましたから、慎重に作業すれば板を安定させるのはさほど難しくないでしょう」

 峰が言った。

「そんなことをしたって、何の意味があるの? 両端の重さが釣り合っていたら、いつまで経っても死体は落ちないじゃない」

 大西は言った。

「だから、死体から血を抜く必要があったんだ」

 室井は息を呑んだ。

「死体の血は最初から抜かれていたのではなかったのか……?」

 大西はうなずいた。

「死体の腕の切り口に紐で縛ったような跡が残っていましたね。あれがこのトリックを解く鍵でした。犯人は死体を板に乗せる前に腕を紐で縛ってあらかじめ出血を止め、それから手首を切断したのです。もちろん、紐は強く引っ張れば外れるように結んであります。こうして板に乗せて空中に押し出してから、紐を取ると……」

 芦沢が続けた。

「次第に血が滴り落ちて、その分だけ死体は軽くなっていく。ヤジロベエのバランスはある点を越えると大きく崩れ、土の袋が相対的に重くなって下がっていく……。でも、それでは死体が持ち上がるだけで、落ちたりしないぞ?」

 大西はうなずいて、死体に見立てた側の消しゴムをつまんで少しづつ引き上げていった。それにつれて、定規に立てた〝土の袋〟の位置が下がっていく……。

 その瞬間、芦沢が叫んだ。

「あ!」

 大西がうなずく。

「でしょう? 渡り板は死体が軽くなるにしたがってコアの側に傾いていきます。ある点に達すると立てて置いてあった袋はバランスを崩し、一気に倒れて渡り板から落ちる――」

〝土の袋〟は定規の傾きに耐えきれずに床に落ちた。大西は同時に〝死体〟を摘んだ指を放した。〝死体〟は定規と共に『湖』の側に落ちる――。

 中森がうめいた。

「なるほど……。倒れて板から落ちた土の袋は通路に散らばる。片側の重みを失った板はバランスを取れなくなって、死体と一緒に『湖』に落ちる……」

 大西はうなずいた。

「天野さんを殺した犯人は、死体から血を抜くことでありあわせの時限装置を作り出したわけです」

 大西の説明をじっと聞いていた峰がつぶやいた。

「でも、なぜそんな面倒なことを……?」

 答えたのは芦沢だった。

「考えるまでもない。アリバイ作りだ」

 大西がうなずいた。

「死体が落下した時点で温室の下にいた人物は自動的に容疑者から除外されたわけですからね。つまり、こんな仕掛けをしてまで天野さんを殺した人物は、あの時僕らの身近にいたわけです」

 仁科がつぶやいた。

「ただアリバイを作るためだけに、犯人は天野君を殺したというのか?」

 大西は仁科を見つめた。

「そう言ってさしつかえないでしょうね。しかし、犯人がアリバイを信じさせたかった相手は、スフィアの内部のスタッフではありません。むろん、僕でもありません。犯人が欺かなければならなかったのは、じっと成り行きを見守っていたはずの管理センターだったのです」

 仁科が言った。

「どういう意味だね?」

「だってそうでしょう? 犯人がスフィアを脱出できたとしても、ナカトミに疑いをかけられていては自由になれません。脱出後の布石として、自分だけは確実に容疑者の外に出ておきたかったのです。犯人はセンターの監視から逃れるために、天野さんを殺したわけです」

 室井が言った。

「つまり……『殺すのは誰でもよかった』ということなのか……?」

 大西は中森に目をやった。

「基本的にはそうでしょう。しかし、連続殺人と関連づけた方が偽装の目的にはかなっています。被害者は微生物班の一員である方が望ましかったのです。鳥居さんに罪を擦りつけることが目的だったとも解釈できますがね」

 中森は唇を噛んで視線を床に落とした。苦しげにつぶやく。

「許せない……」

 室井の妻もうなずいた。

「酷いことを……」

 室井が言った。

「しかし大西君、死体からそれほど簡単に血が流れ出すのか? 空気に触れればすぐ固まって、細い血管は簡単に塞がってしまうのではないか? 事実石垣君の時は、大した出血はなかったぞ」

 大西は仁科に向かって尋ねた。

「天野さんの直接の死因は何でしたか?」

「窒息だが……」

「彼女には抵抗した痕跡は見当りませんでした。鎮静剤でも射ってから息を塞いだんでしょう。切り取った手首に注射すれば、痕跡は死体の側に残りませんから」

 『注射』という言葉が、殺人に〝医師〟が関わったことを示唆していた。スタッフの視線が仁科に向かう。

 大西は仁科を見つめた。

「仁科さん、急性窒息の特徴は?」

 仁科はぼんやりと答えた。

「顔面鬱血、結膜の溢血……」

 大西はうなずいた。

「そして、死後の血液が『凝固機能』を失うことです。酸素欠乏が引き金になって、血液を固める役割を持った蛋白質が活性を奪われるそうですね。窒息で死んだ死体の血液は固まりにくいことは法医学上の常識です」

 スタッフの間からどよめきがもれた。

 仁科が言った。

「しかし窒息した死体の血液が流動性を現すのは、死後数十分から数時間後だ。天野君の場合は当てはまらない」

 大西はうなずいて、今度は室井を見た。

「室井さん、あなたは仁科さんに降圧剤――血圧を下げる薬品を処方されましたね?」

「いきなり何だね? 確かに、神経をやられて一時的に異常な高血圧になってしまったことがある。薬はわざわざセンターから取り寄せてもらった。それが関係あるのか?」

「降圧剤の種類は分かりますか?」

 室井は押し黙った仁科に視線を戻しながら答えた。

「種類……? カルシウム何とか……と聞いたが?」

 大西は皮肉っぽく笑った。

「やはりね。カルシウム拮抗剤ですよ。降圧剤にはいくつかのタイプがあって、たとえばベータ遮断剤は血管を縮め、降圧利尿剤は血液の粘りを増加させる働きがあります。僕の爺さんは医者が降圧剤を選び損ねてボケましてね、それで詳しくなったんです」

 室井は首をかしげた。

「だから、それが殺人とどう関係するんだね?」

「カルシウム拮抗剤には血管を広げる作用があるんです」

 芦沢が仁科を見つめ、うめくように言った。

「血液の凝固作用が落ちている上に血管が拡張していれば、出血しやすくなるのが道理だな……。天野さんは死ぬ前に、その降圧剤を注射されていたのか……」

 さらにシマダがうなずいた。

「死体が相手なら、何も血液だけに頼る必要もない。死んだ後に手首から生理食塩水――いや、ただの水でも構わない、それを大量に注射すればいい。水なら始めから凝固などしないし、血液を薄める働きもする。力任せに射ち込んだ水分が全てシーソーのバランスを崩す重りに働くわけだ」

 中森は口をつぐんだまま、じっと仁科をにらみつけている。

 大西もうなずいて仁科を見ただ。

「現実的なアイデアですね。そういえば、手摺りについていた数滴の血はまだ乾いていませんでしたっけ。死体が落ちてから僕たちがバルコニーを調べにいくまでにだいぶ時間がたっていたのに、ね。原因は、血が薄められていたからでしょう。おそらく犯人は、カルシウム拮抗剤と水の両方を注射したのです」

 が、芦沢は言った。

「でも、なんだか不安定な仕掛けですよね……。複雑すぎて、狙いどおりに動くとは限らないんじゃないですか?」

 大西はよどみなく答えた。

「だから死体を乗せていた板には釣り糸が結びつけられていたんです。犯人は糸の端を板に結び、糸巻きをバルコニーから湖畔の茂みに投げたんでしょう。万一死体が狙いどおりに落下しない場合は、こっそり茂みに行って糸をゆっくり引っ張る……板は揺れ始め、そのうちに土の袋が落ちるはずです。死体が落ちたとたんにスタッフに叫んで知らせれば、自分がバルコニー上にいないことが証明できます。誰も彼を容疑者だとは思いません」

 芦沢がうなずく。

「釣り糸は後で一人になった時に思い切り引っ張って板から切り離せばいい……か」

「ね、これなら確実でしょう?」

 峰が言う。

「でも、糸は板にほんの少し残っていただけよ。あんなに都合のいい位置で切れるのかしら? 残った糸が長すぎて水面に浮いたりしたら、仕掛けがばれたかもしれないのに……」

 すかさず芦沢が答える。

「釣り糸は大体結び目の近くで切れるものです。切りたい場所にかすかに傷をつけておけば、もっと確実ですけど」

 峰も反論はできなかった。

 と、シマダがうめくようにつけ加えた。

「あるいは……天野君はずっと生きていたのかもしれない……」

 大西はシマダに目を移した。

「生きていた……? しかし天野さんの死因は窒息死だと……」

 シマダはうなずいた。

「そう言ったのは、検死を行なった仁科君だ」

「まさか……!」

「全身麻酔のような何らかの薬品で完全に意識を失わせた上で手首を切断し、出血させたままにしておく……。緩やかに動き続ける心臓が確実に体内の血を吹き出させるわけだ……」

 シマダの言葉に、スタッフ全員が息を呑んだ。

 大西は仁科をにらみつけた。

「そうなのか⁉」

 仁科が叫んだ。

「私が犯人だというのか⁉」

 動いたのは中森だった。いきなり仁科に飛びかかって、首を締め上げようとする。

「貴様が殺したのか⁉」

 大西が中森の背中を押さえる。芦沢が二人の間を割った。

 室内の緊張が高まった。全員が腰を浮かせて、息を詰めている。

 中森が叫ぶ。

「止めるな!」

 大西は中森を背後から抱えながら、耳元にささやいた。

「今はこらえて! 責任はとらせますから!」

 仁科は表情に怯えを浮かべながらも、訴える。

「私じゃない!」

 中森の身体から力が抜けた。

「大西さん、手を放してください」

 大西も力を緩める。

「落ち着きましたか?」

 中森は振り返って、真剣な目を大西に向けた。

「嘘じゃないでしょうね? 責任は、必ずとらせてください」

 大西はうなずいた。

「必ず」

 仁科は繰り返した。

「私は殺していない!」

 大西は大きく深呼吸をして怒りを静めてから、言った。

「それは皆さんに判断していただく問題でしょう。判断を下すための情報は、まだたくさん残っていますからね」

 その目からは激しい憎悪がにじみだしていた。

 緊張を緩めた室井が言う。

「何だね、それは?」

「たとえば、最近二回の物資搬入をリクエストしたのが仁科さんで、その間にエイズ治療ワクチンが盗み出されたであろうこと。しきりに『石垣君や鳥居さんが犯人ではないか』と口に出していたこと。そして、チャンスの問題――。天野さんの死体にこれほどの偽装を施すには、当然かなりの時間が必要です。貯水タンクを破壊する必要もありました。さて、誰だったらそんな時間を取ることができたでしょうか? さらに、高崎さんの死体に火をつけるのにも畜舎を爆破するのにも、時限装置が使われていました。そうやってアリバイ作りをしたからには、犯人はその時スタッフの前に姿をさらしていたはずです。全てに該当する人物は誰か……。それに、今お話した推理は連続殺人のほんの一部を検討したものでしかありませんから」

 室井が仁科を見つめてつぶやいた。

「仁科君……きみは本当に天野君を……?」

 仁科は室井に向かって叫んだ。

「私は何もしていません! 馬鹿馬鹿しい言い掛りもいい加減にしてください。第一、そんな複雑な仕掛けを作っていたら、誰かに気づかれるに決まっている。あのバルコニーは、森からは丸見えなんですからね」

 峰が首を振る。

「今日に限っては、そうはいえないわ。外は真っ暗で、ずっと嵐の音がうるさかったから。ジャングルみたいになったバルコニーの上なら簡単に姿を隠せるし、少しばかり物音をたてたって誰にも聞こえない……」

 仁科が峰をにらむ。

「今日に限って、だと⁉ 大型台風が来ることを一年半も前から予測して、こんな大がかりなトリックを用意していたというのか⁉」

 大西がつぶやく。

「犯人はおそらく、このトリックを深夜に仕掛けるつもりで準備してきたんです。何らかの理由を付けて室井夫妻を湖の畔に呼びだし、ちょうどその時に死体が落下するように――とね。室井さんがアリバイを証明すれば、センターも騙せますから。おそらく、他にもいくつものトリックを用意していたと思います。いざ脱出、という時に使う、アリバイづくりの方法を。今回は、偶然の台風が真夜中に等しい条件を作り出した。だから、状況にふさわしいトリックを選んだんでしょう」

 仁科は反論もしなかった。

 中森は何も言わず、じっと仁科をにらみつけていた。

 と、芦沢が叫んだ。

「そうか! なんて大事なことを見落としていたんだ!」

 大西が言った。

「何か?」

 芦沢は興奮気味に、早口にまくし立てた。

「釣り糸ですよ。釣り糸っていうのはほどけやすくて、特殊な結び方を使うんです。クリンチノットとかブラッドノットとかね。釣りをやらない人間はそんな方法は知りません。あの板に残っていた糸の結び目は釣り師のやり方でした。スタッフの中で釣りの経験があったのは私と仁科さんだけです」

 仁科も負けずに叫ぶ。

「私はやっていない!」

 芦沢が命じる。

「黙れ! 貴様は大西さんの話を聞くんだ! さあ大西さん、続けてください」

 大西は、芦沢の剣幕に息を呑んだ仁科を見つめながらうなずいた。

「さて、天野さんが殺された後に何が起こったか思い出していただきましょう。仁科さんはウイルスの漏洩を極端に心配し、死体を焼き払いましたね」

 仁科は言った。

「当たり前じゃないか。湖の魚たちは全滅していたんだぞ。医師としてあんな危険な状態を放置しておけるはずはない!」

 が、峰はつぶやいていた。

「証拠の湮滅……ね?」

 仁科は茫然と峰を見つめて、言葉を失った。

 大西は言った。

「天野さんにカルシウム拮抗剤を注射したなら、死体をそのまま残しておくわけにはいきません。そんな薬品を使いこなす知識を持っている人物は医師の他にいないのですから。後々の検死を不可能にするためには、できる限り完全に焼き払っておかなければならなかったわけです。それにはウイルス感染の疑いあることが格好の理由でした。だから犯人は魚を〝皆殺し〟にしたのです。同時にそれで僕らを『湖』から遠ざけ、底に沈んだ渡り板が発見されるのも防げるはずでした」

 芦沢が茫然とうなずいた。

「アリバイを作りながら、証拠を湮滅したわけか……。一石二鳥だな」

 峰がつぶやいた。

「でも、どうやって? 湖水を分析しても毒物は検出できなかったじゃない。なのにどうして、魚が死んだの?」

 大西は峰を見つめた。

「君がいつも使っている方法だよ。魚たちを殺したのは、イルカの声だ」

「エコロケーション!」

 大西は仁科に目を移して続けた。

「仕掛けはすでに整っていたのです。犯人はただ、水中スピーカーの音量を最大にしただけでしょう。超音波ですから僕らは全く気づきませんでしたが、魚たちのとっては心臓を破裂させるに足る大音響だったはずです。これはスタッフが天野さんの検死結果を待っている間に、サロンのコンピュータを使って命令することが可能でした。ちなみに、釣り糸も検死の際に処分できでしょう」

 中森がうなずいた。

「音でショック死させたわけか。確かにコンピュータ端末さえ操作できれば、簡単にできる作業ですね。でも、峰さんの個人コードを知っている必要がありますよ? 魚を捕ることを許されているのは、峰さんだけなんですから」

「犯人は芦沢さんや鳥居さんのコードも知っていたぐらいですからね」

「なぜ……?」

 大西はにやりと笑った。

「さて、なぜでしょうか。その前に、もう一つの疑問を解決しておきましょう。今までにお話したことはほんのつけ足しの部分のようなもので、犯人が〝ウイルス汚染〟を必要とした本当の理由は全く別なところにあったのです」

 芦沢がうめいた。

「何だって? 死体を焼きたいからではなかったんですか?」

 大西は言った。

「もちろん犯人の目的は死体を跡形もなく破壊することでした。しかし何が何でも始末しなければならなかったのは〝天野さんの死体〟ではなく、最初に殺された〝高崎さんの死体〟の方だったのです」

 芦沢は頭を抱えるようにしてつぶやいた。

「だめだ……あなたの推理にはとってもついていけない。どうしてそんな結論になるんですか?」

 大西は言った。

「左腕ですよ。僕は、死体に添えられていた腕の出所を徹底的に調べました。人工冬眠室を発見できた時は謎が解けたかとも思いましたが、結局は無駄でした。そこでこう結論する他になくなってしまったのです。『左腕は初めから存在しなかったのだ』……とね」

 全員が言葉を失った。

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