バイオロジカル・クライシス・1
蛍光顕微鏡から目を上げたシマダは言った。
「君の推理が当たったな。このスフィアの空気は完全に〝私のウイルス〟に汚染されている」
大西は言った。
「間違いありませんね?」
「マーカーがはっきり確認できた。不安が残るならDNAの高速読み取り機を動かすが?」
「DNAを読むって、何日もかかるんじゃありませんか?」
「ここにはナカトミの秘密兵器があるんだよ。非接触型の分子構造分析装置でね、レトロウイルスのRNAの解析にも使用できる。エイズウイルス程度のサイズの検体ならゲノムの端の二、三千文字を読めばデータバンクで照合可能だ。三〇分ほどで同定できるはずだ」
「ナカトミが相手ですから、念には念を入れておきますか。あなたが機械についていなければ読取りはできませんか?」
シマダは席を立って別の装置の電源を入れながら言った。
「スイッチを入れておきさえすれば後はコンピュータが処理する。最新鋭の試作品で、たった一分子の検体を分析するものだからな。この装置のおかげで我々はDNAを増やすPCR――ポリメラーゼ連鎖反応の工程を省き、これほど短時間でワクチンを開発することができた。私としては、ハンチントンの治療にこそ真の威力を発揮すると期待していたのだがな……」
大西はシマダがDNA読み取り機をセットするのを待ってから言った。
「本当にそんなに簡単にDNAが読み取れるんですか?」
シマダは最後のスイッチを押してから、うなずいた。
「この装置は走査型トンネル顕微鏡の発展型でね。ナカトミの最新技術を応用した試験機だ。この顕微鏡の中央部分には先端の幅が一原子にまで尖らされた針が取りつけられている。この針を試料――この場合はタンパク質の殻を壊して剥出しになったウイルスのRNAに近づける。そうして試料の表面に沿って針を動かし、量子効果によって生じるトンネル電流を測定する。その情報をコンピュータが計算し、最終的に塩基配列を分析するのだ」
「ナカトミはそんな発明をしていたんですか⁉」
シマダは微笑んだ。
「根本的原理や精度の劣る装置なら、八〇年代の後半から存在していたよ。ほんの五万ドル程度の金額で売られていたものだ。しかしそれらの装置は極めて再現性が悪かった。同じ試料を二度検査すると、必ずしも同じ結果が得られない。その最大の原因は、試料が固定基板から剥がれて針に付着してしまうことにあった。ナカトミはその欠点を画期的な新素材を基板に用いることで解決した。すなわち、シェルの〝ガラス〟と同じ素材だ。この改良によって走査型トンネル顕微鏡は信頼できる精度を獲得した。およそ一時間あれば一〇〇キロ程度の塩基は確定できる」
大西はつぶやいた。
「それって、もしかしたらノーベル賞ものじゃないんですか?」
「確かに画期的だ。しかしナカトミは、この顕微鏡の発表をあと数年先に延ばすつもりらしい。それまでこのマイクロスフィアや他の研究所で他社の追随を許さない実績を上げてしまおうという魂胆だ。セレーラ社は既存の機材を何100台も投入して一気にゲノムの解読を早めた。ナカトミは、この新鋭機で逆転を狙っている」
「なるほどね……その顕微鏡があれば『ヒトゲノム計画』でも日本がトップに立てたでしょうに……」
「確かに、ゲノムの解読では遅れをとった。しかし、特許競争が本番を迎えるのはこれからだ。特許を取得するためには、遺伝子に対応する機能を解明しなければならないからね。ポストゲノムの正念場と言われているバイオインフォマティクス――生物の情報をコンピュータで解析する分野では、ナカトミの技術は決して劣っていない。この顕微鏡は現在、日本各地のナカトミ関連の研究所でヒト以外の動植物のゲノムを精力的に解読している。あと一、二年のうちに、膨大な数の特許申請が行われることになるだろう。さて、私の方は作業を終えたよ。後は機械任せで結果が出るのを待つだけだ」
大西はうなずいた。
「では、医務室へ戻りましょう。あまり長く待たせると、また人殺しが起きかねませんからね」
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