氷の密室・3
医務室に戻ると、大西は全員の視線を集めながら言った。
「僕にはどうしても解けない謎が残っています。皆さんの意見を聞かせてください。ミスターXは、どんな方法を使って鉄壁の閉鎖空間を破ってエイズ治療ワクチンを持ち出したんでしょう?」
中森が首をひねった。
「謎って、それだけなんですか? じゃあ、本当にスパイや殺人犯は……?」
大西はうなずいた。
「もう分かっています。しかし、それを確認するためにも、ウイルスを持ち出した方法を知りたいんです」
室井は椅子から腰を浮かせて叫んだ。
「犯人が分かったなら、もったいぶらずに教えてくれたまえ!」
大西は肩をすくめた。
「どうせ逃げられやしませんし、全員が揃っている今となっては殺人を繰り返す恐れもありません。慌てることはないでしょう。むろん自信はありますが、僕が正しいという保証もありませんしね。実際僕は、今日一日だけで何度もミスを犯してきましたから」
シマダが言った。
「ウイルスの持ち出し方が分かれば君の仮説に確証が得られるのかね?」
「たぶん。誰か〝壁抜け〟の種明かしができませんか?」
室井の妻が言った。
「通過させられる場所はエアロックの他にはないわね。あの通りシェルは破りようがないし、ドーム内は負圧になっているんですから。しかも、外部には確実にスパイの協力者がいるはずよ」
大西はうなずいた。
「僕も同じ意見です。過去に三回、エアロックから荷物を持ち込んだことがありますからね。外部の協力者がエアロックの中に入ることまでは可能だったはずです。しかし、ここから出ていった物質は一切ないはずでした。少なくともマイクロスフィアはそう設計されています」
芦沢が言った。
「エアロック内にこっそり隠したものを、作業員が持ち出していったのでは?」
「でもエアロックの中にウイルスを詰めたビンなどを置いたなら、外から開ける際に作業員が気づきます。物資を運び入れる担当員は三人一組で、メンバーは毎回組替えられています。常に互いを監視させるためでしてね。だから、たとえ小さなビン一つでも、持ち出すことはできません」
中森もうなずいた。
「それにビンを置くために内部のドアを開ければ、それが記録に残ります。センターは当然記録を調べたんでしょう?」
大西は言った。
「徹底的にチェックしました。しかし不審なドアの開閉は発見できませんでした。なのにウイルスは、実際にエアロックを通り抜けている……」
じっと考え込んでいたシマダが不意につぶやいた。
「なるほど、そういうことだったか……なんと無茶な……」
大西がシマダに視線を向けた。
「何か思いつきましたか?」
シマダは大西を見つめた。
「ウイルスにエアロックを通過させるのには何も難しい操作は必要ない」
大西が首をひねる。
「でもウイルスの容器はすぐに発見されて、絶対にエアロックを通すことはできません」
シマダはうなずいた。
「だから容器を使わなければいい。裸のまま放り出しておいたのだよ。ウイルスそのものは、人間の目には見えん物質だからな」
大西はつぶやいた。
「裸のまま……?」
シマダは説明した。
「エアロックの中扉を開く必要すらない。ドアの近くでウイルスが入ったビンの中身を床にこぼせばいいだけだ。エアロック周辺は空気の流れがほとんどないから、ウイルスは拡散せずに高濃度のままそこに停滞する。そして正規の手順を踏んで内部ドアが開けられた際に、エアロック内部に吸い込まれるだろう。大部分はエアロック内から抜かれた空気とともにスフィアに戻されるとしても、一部は壁や床に付着するはずだ。だから次に外からエアロックを開ける者が内部の壁や床に触れれば、ウイルスはその手に移る。スパイは作業員に一人まぎれこませれば充分だし、その程度の動作なら不審も抱かれまい。回収したウイルスがたとえ一株しかなくとも、適当な条件を与えれば増殖させることが可能だ」
大西が小さく息を呑み込んだ。
「まさか……そうだったのか……。そう言えば、二回目と三回目の物資搬入の間はほんの一週間程度しか開いていなかったからな……」
室井が言った。
「三回目は私の高血圧の薬を取り寄せた時か?」
大西はうなずいた。
「二回目は釣り竿や手芸用品を持ち込んだはずです」
峰がシマダの推理の意味に気づいて、茫然とうめいた。
「それじゃあ、そのウイルスは今もここの空気の中に……?」
シマダはうなずいた。
「もちろん充満しているはずだ」
「いやよ、そんなの!」
「落ち着きたまえ。人体に危険はないから。エイズウイルスを基盤に開発したワクチンだから空気感染はしない。さっきも説明した通り、たとえ傷口などから血液中に入っても、悪性のエイズに感染していなければ細胞内に侵入することもできない。万が一プロウイルス化したとしても、HIV感染を予防するだけで決して害は与えない。私はそれを確信している。それが分かっているからこそ、ミスターXもこんな無謀な方法を取れたのだろう」
芦沢が冷たい目でシマダを見つめた。
「その通り、ミスターXはそのウイルスが人体に無害だと知っていたわけです。そして、そのウイルスが『絶対に安全だ』と確信が持てる人物は、それを開発した本人だけです。つまりミスターXはあなただ」
シマダは小さく肩をすくめた。
「それならこんな種明かしなどするものか。自分の首を絞めるほど、まだ私はボケてはいない」
芦沢は言った。
「容疑を退けるための駆け引き」
シマダは芦沢をじっと見つめた。
「ミスターXの情報収集能力を侮ってはいけない。石垣君が知るはずのない機密を知っていたことがそれを証明している。君とて、個人コードやコアの倉庫の鍵の番号を〝盗まれた〟と主張しているのだろう? しかも私のワクチンが無害であることは、ナカトミの幹部も承知している。ミスターXはナカトミのトップに潜んでいる裏切り者から情報を得ているに違いない」
芦沢は大きな溜め息をもらした。
「真の黒幕はナカトミのトップだというんですか?」
「企業というのは奇っ怪な〝生き物〟だからな。巨大に成長したこの怪物の内部では、足の引っ張り合いや裏切り、謀略は日常的な業務だ」
その言葉は、シマダ自身がBTIの変遷で体験した非情な現実だった。
大西は言った。
「その点は言い合っても水かけ論になります。証明できるものから解決していきませんか? シマダさん、ミスターXがワクチンウイルスをばらまいたことを確かめる方法はありますか?」
シマダはうなずいた。
「壁をこすって埃を顕微鏡で調べる。マーカーに反応する波長の紫外線で蛍光を発するウイルスがあれば一〇〇パーセント確実だ」
大西は言った。
「時間はかかりますか?」
「二十分程度……かな」
「すぐやってみてください」
シマダは立ち上がりながら言った。
「Vラボに戻ろう」
大西はスタッフに命じた。
「皆さんは酸素ボンベを地下に運んでおいてください。互いに見張ることを忘れずに。できるだけ早く戻ります」
芦沢が言った。
「二人で行くのかい?」
「センターは待ってくれません。なるべく早く迎え撃つ準備を整えておかないと。今度彼らと顔を合わせる時は、命のやり取りをするんですから」
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