氷の密室・2

 開いた壁の奥にはぽっかりと穴が開けていた。壁が開ききると空洞の天井に蛍光灯が点灯した。

 中は、全く空っぽだった。

 奥を覗き込んだ大西の腰の辺りの高さが、その小部屋の床になっていた。やはり金属製の床には、円形の溝が規則的に並んでいる。一つ一つの円内に把手のような窪みがつけられていた。

 大西がつぶやく。

「何かの蓋かな……?」

 面積一〇帖ほどの部屋の床は、その蓋のような物でびっしりと埋め尽くされていた。円状の溝の総数はざっと数えても百を越えているようだった。それぞれの溝の間は幅三〇センチほど開けられていて、そこが人間の通路になるらしい。

 中森がうなずく。

「入っていいんじゃないですか?」

 大西はその部屋の縁に手を突いて身軽に飛び上がった。円形の溝の間に屈み、手近な蓋につけられた把手を掴んだ。

「簡単に回りますね……あ、掛けがねが外れたみたいです」

 仁科が言った。

「気をつけて……何が飛び出すか――」

 仁科の言葉が終わるのも待たずに、大西は蓋を開けて中を覗き込んだ。

「やけに冷たいぞ……奥に、もやがかかっているようだ……」

 中森が続いて中に上がり、向かい側から奥を覗き込んだ。

「これだな、液体窒素は。このもやは蒸発した窒素の霧でしょう。何かを冷凍保存しているんですね……中身は何だろう……」

 大西は部屋の内部の壁を見回した。

 開いた壁の脇に、駅員がホームの落とし物を拾うのに使うようなマジックハンドが引っかけられていた。

 大西はそれを取って、もやの中に先端を差し込んだ。しばらく中をかき回す。

 と、大西はにやりと微笑んだ。

「何か掴んだ……引き上げます」

 大西が取り出したのは、胴長の鍋のような円筒状の容器だった。

 容器の蓋を開けようと手を出した大西に、Bルームを覗き込んでいたシマダが声をかけた。

「素手で触るな! 凍りつくぞ!」

 うなずいた大西は、マジックハンドを器用にひねって蓋を開けた。中に入っていた物体を確認した大西と中森は、同時にうめいた。

「脳だ……」

 冷凍保存容器には、一目で人間のものと分かる〝脳〟が収められていたのだった。

 中森はつぶやいた。

「Bルーム――つまりブレイン・ルームか。この部屋は人体を低温保存するだけの場所ではなかったんですね。こんなにたくさんの脳を冷凍しているとは……」

 大西は言った。

「奥も調べよう」

 二人は脳の容器を元に戻してから、無作為に選んだ蓋を次々と開いて中身を調べていった。しかしほとんどは内部に容器はなく、液体窒素も充填されていない。結局脳を収めた容器は八個しか発見できなかった。

 それでも大西は満足したように言った。

「元に戻して出ましょう。これでこの部屋の秘密は分かりましたから」

 二人がBルームから降りると、室井が言った。

「本当に人間の脳だったのか?」

 大西がうなずいた。

「間違いありませんね。スフィアでは死者の脳の冷凍保存も請け負っていたようです」

 峰が怯えたように言った。

「なぜ、そんなことを……?」

 仁科が答えた。

「脳や死体の保存は、アメリカあたりではビジネスとして成り立っている。最も有名なのが『アルカー延命財団』だ。四百人以上の契約者がいて、死亡した場合にすぐ死体や脳を冷凍保存するシステムになっていると聞いたことがある。特に脳の保存には需要が多いらしい。人の存在の根幹は脳に宿っているんだからね。死後の復活を夢見て脳を冷凍することは、それほど奇妙な行動ではない。それなりの財力を持っている者なら、こうして可能なわけだ」

 峰がつぶやく。

「でもその人たち、脳だけ保存してどうする気なの……?」

 仁科は峰を見つめた。

「むろん、生命科学が充分に発達した未来で再生したいと願っているのさ」

「でも、身体はどうするの? まさか、他人の死体に自分の脳を植え込む――だなんて……」

 仁科は微笑んだ。

「誰も『フランケンシュタインの怪物』になりたいとは望んでいない。ヒトの細胞内のゲノムには身体全体の設計図が書き込まれている。脳細胞のひとかけらからクローン人間を作り出して、活力に溢れた若い肉体に解凍した脳を移植しようというのだ。実際に高等動物のクローン化は頻繁に行われるようになった。完全に分化し終わった細胞でも身体全体を再生する潜在能力を持っていることは証明されている。人間への応用で残っているのは、その能力を引き出すためにどうやって分化した細胞を初期化するかという技術的な問題さ。組織培養によって自分のクローンを作れば、拒絶反応のたぐいは一切発生しない。元は自分の細胞だからね」

「何だか、プラモデルでも組み立てるみたいな言い方……」

 仁科は言った。

「君もアメリカ人の生命観は充分に知っているはずだ。彼らにとって〝生命〟とは臓器の集合で、臓器は入れ替えが効く部品にすぎない。縄文時代から培われてきた日本人の感覚と同列には語れない。そうやって合理的に割り切れるから、脳死や臓器移植に対しても抵抗を感じないのだろうね」

「でも、感情や記憶は脳だけで保存できるのかしら……? 解凍だって安全にできるとは限らないんじゃなくて?」

 仁科は肩をすくめた。

「確かに将来、実用に足る技術が完成されるという保証はない。解凍によって傷を負った細胞はマイクロ・マシンで修復するという提案がなされているが、それにも画期的な技術のブレークスルーが必要になる」

 大西が言った。

「マイクロ・マシン……って?」

 仁科が説明する。

「細胞数個程度の大きさのロボットのことだ。単純なプログラムを施して血液中に注入すると、内部から生体の損傷を治していくという代物さ」

「まるで『ミクロの決死圏』ですね……」

 仁科がうなずく。

「現在の技術水準では絵空事にすぎない。しかし、何人かの有能な科学者は本気でマイクロ・マシンを研究している。成果も上がり始めている。科学者の夢は、それがどんなに奇抜な夢でもいつかは実現する可能性を秘めている。実現するのがたとえ数百年後の未来であっても、冷凍された脳ならその時間を飛び越えることができる。少なくとも、そう信じて冷凍保存に大金支払う人々が存在することは事実だ」

 芦沢がうなずいた。

「つまりナカトミも、その『先物取引』みたいな商売を〝闇〟で始めていたっていうわけか……。確かに、日本じゃ公にしにくい事業ですよね。『一部の金持ち連中が百年後の復活を夢見て脳を冷凍保存している』なんて聞いたら、ワイドショーのレポーターが『不平等だ』と騒ぎ出します」

 室井が言った。

「だろうな。しかも、秘密裏に臓器を保存するにはマイクロスフィアほど適した場所はない。『バイオスフィア2』と違って観光客は訪れないし、外部からの影響は最小限に止められる。そもそも、部外者は絶対に入ってこられない場所だ。我々の実験が終わっても、二次、三次のスタッフがやってくる予定だから、その気になれば半永久的に人の目を避け続けるられる。これほどの装置を作った上で極秘に脳の冷凍保存を請け負ったとすれば、相当の保存料金も取っていることだろう。一体どんな人間の脳が収められているのやら……」

 仁科がうなずいた。

「誰の頭脳であるにせよ、ナカトミにとっては傷をつけられない『預かり物』でしょう。有望な人質が増えたことは確かですね」

 大西は中森に尋ねた。

「コンソールには他に問題になりそうなスイッチはありませんか?」

 中森は自信を込めて言った。

「あのコンピュータだけでこの部屋を管理しているのなら、これ以上の隠し扉はないはずです」

 大西は全員に向かって言った。

「医務室の酸素ボンベはこの部屋に運びましょう。最後に立てこもるのは、ここです」

 室井がうなずいた。

「人質と一緒ならセンターも無茶はできんだろうからな」

 仁科が大西に質問した。

「探偵の仕事はどうするんだね?」

 大西は微笑んだ。

「もちろん、立てこもる前に片づけますよ。でも、謎解きは医務室に上がってからにしましょう」

 仁科が身を乗り出した。

「犯人が分かったのか⁉」

 大西は微笑み続けたまま、答えた。

「おそらく、ね。今度こそ、間違いはないはずです」

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