氷の密室・1

 スタッフは、鎮静剤で眠った二階堂とサリーを医務室に残して地下へ向かった。

『人工冬眠室』の入口は、Vラボの突き当たりの壁に隠されていた。

 シマダが壁の一部を開いて、そこに現われたセンサーに手を押し当てる。と、『壁』はかすかなモーター音と共に横にスライドした。

 人工冬眠室は奥行のある細長い部屋だった。一瞬またたいた蛍光灯の明かりに金属製の壁と白い冬眠ポッドが浮かび上がる。部屋の右側に、上部を透明な蓋ですっぽりと覆われた〝ベッド〟がずらりと並んでいた。それは、過去に何度もSF映画に描かれてきた宇宙船の内部を思わせる光景だった。

 シマダは言った。

「ここが、私しか知らない秘密の部屋だ。ナカトミの要求に応えて、私はここの番人の役割も果たしていた」

 大西が質問した。

「あなたは石垣さんを殺した直後にサリーさんの解凍を開始したのでしょう? 僕らがさっきVラボに入った時には、この扉は開いていませんでした。サリーさんはどうやってラボの方に出て来たんですか?」

 シマダは答えた。

「こちら側に出てくる時には掌紋は必要ない。中のスイッチを押すだけでドアは開き、自動的に閉じる。万一の事故で解凍を余儀なくされた場合、眠りから醒めた人間が閉じこめられるのを防ぐ措置だ」

 室井がぼんやりとつぶやいた。

「私たちの足下にこんなに大がりな装置が隠されていたとはな……」

 その言葉には、責任者のはずの自分が単なる飾り物でしかなかったことを思い知った落胆が込められていた。

 大西は部屋に踏み込んで、中の装置を観察していった。ポッドの数はシマダが言った通り二〇機を超えていそうだった。

 一番入り口に近い『01』のステンシル文字が印された人工冬眠ポッドは、蓋が大きく開いていた。そこにはシマダの娘が眠らされていたのだ。

 大西は蓋が閉じたままのポッドを見下ろしながら無言で奥に進んでいく。

 ポッド一つの大きさはダブルベッドよりも小さい程度だった。壁から伸びた五、六本の細い配管が側面につながっている。蓋の上端に取りつけられた液晶パネルには、大西には意味の分からない数字が並んでいた。透明な蓋の内側は蒸気でかすかに曇っているようだった。それでも中で眠る全裸の人物たちの様子ははっきり見える。

 彼らは全員男性だった。痩せこけた胸の上で腕を組み、全く動かない。大西には死体のようにしか見えなかった。ほとんどは黒人だったが、二人含まれていた白人の肌は透き通るように青白かった。そしてその皮膚には、エイズ発症の印とも言うべきカポジ肉種の斑点がくっきり刻まれている。彼らの年令は二〇代から七〇代ぐらいまでさまざまだったが、生活苦を肌のしわに刻み込んでいる点は共通していた。

 しかし奥の二つのポッドにだけは、モンゴロイド系の人物が眠っていた。二人とも六、七〇才の知的な風貌を持ち、不健康に痩せた印象はなかった。

 そして大西は、ポッドの中に左腕を失っている人物がいないことを確認した。

 大西の後を追う芦沢が言った。

「こうして実物を見ると、まるで映画の世界に入ったみたいだ。驚いたものですね……こんなものが実用化されていただなんて……。でも、何だか不気味です。『二〇五〇年型の棺桶』っていう感じだな……」

 大西は応えた。

「でも僕らにとっては、ナカトミと戦うための〝最後の切札〟になるかもしれません」

 芦沢が大西を見つめた。

「ここに、私たちが利用できるものがあるんですか?」

 大西は『25』のポッドを調べながらうなずいた。

「そうです。唯一の可能性といっていいでしょう」

 いちばん奥のポッドの先には、小さなコンソールを据えたスチールのテーブルが置かれているだけだった。

 脇からポッドを覗き込んだ中森が溜め息混じりにつぶやいた。

「人工冬眠ポッドか……『氷の密室』と呼んだ方が正確みたいですね。こんな狭い場所で凍りついたままだなんて……彼ら、夢は見られるんだろうか……?」

 ポッドに収容された人物を注意深く見てきた室井が、大西に追いついて言った。

「大方はシマダ君が言った通りエイズの末期患者らしいな。しかしその二人は……見たところ日本人のようだが、何者なのだ?」

 室井も、真っ先に〝異質な二人〟に気づいていたのだ。

 大西は言った。

「残念ながら、僕が知っている人物ではありません。もしかしたら素性が分かる者もいるかもしれないと期待していたんですがね……」

 中森がポッドの中の二人を見比べながら言った。

「確かに二人とも日本人に見えます。しかも、老人だ。宇宙開発の実験に志願するには体力に心配がありそうですね」

 大西はうなずいた。

「ボランティアなんかではないでしょう。たぶん不治の病に冒され、延命を望んでこの計画に命を賭けたんだと思います」

 峰がつぶやいた。

「やはりエイズなの?」

「ガンや他の遺伝病かもしれない。現代の医学では治療法のない病は、まだこの世にたくさんあるからね。シマダさん、何か聞いていませんか?」

 シマダは首を振った。

「私には被験者の素性は知らされていない。特に24、25のポッドは絶対に開けられないように、コンピューター制御の〝鍵〟がかかっている」

 大西はにやりと笑った。

「つまり、この二人に関してはセンターが直接管理している――ということですね?」

「少なくとも、私の自由にはならない」

 峰が首をひねった。

「シマダさんが治療に手をつけられないなら、なぜこんな場所にポッドを置いておくのかしら?」

 大西は結論を下した。

「他に行き場所がないからだろうね。ともかく、この二人が一か八かの先端医療に賭ける実験台ではないことは確かなようだ。おそらく、絶対に安全な治療法が確立される〝はるか未来〟までの間を、眠ってやり過ごす選択を下したエリートなんだろう。重要なのは、この二人が『ナカトミが人工冬眠の秘密実験を行なう』ことを知っていたという点だ。つまり、ナカトミの中枢を牛耳っていた人物か、ナカトミからの誘いを受けて延命の権利を買い取ったに違いない。どちらにしても相当の権力者だと考えていい。金を出したのなら半端な額ではないだろう。ナカトミにとってはかけがえのない〝重要人物〟のはずだ」

 仁科がうなずいた。

「なるほど。だとすれば、ナカトミはこの二人の命を絶対に危険にはさらせないわけだな……」

 大西はにやりと笑う。

「僕らは〝人質〟を確保したんです。何一つ不満を言わない〝大人しい人質〟を、ね」

 芦沢が言った。

「これでナカトミの保安部との交渉が可能になるのか……。大西さんの目的はそれだったんですね?」

 大西の返事には張りがなかった。

「ええ、まあ……」

「せっかく戦う武器を手に入れたというのに、自信がなさそうな口振りですね……?」

「人質が手に入ったという点では僕の狙いが当たったんですがね……」

 不意に口をつぐんだ大西に、室井が問いかけた。

「何か問題があるのかね?」

「ええ……。気づきませんか? ここで冷凍されている人物には、全員左腕がついているんです。僕はひょっとして誰かの腕が切り取られているのではないか――と考えていたんです……」

 中森がうなずいた。

「確かにここが左腕の出所なら、謎を解くきっかけにできたでしょうね。でも結果は、高崎の死体に添えられていた腕のミステリーは依然として解けないまま……」

 仁科が苛立ったように言った。

「ここまで追い詰められたら、もうそんなことを詮索している余裕はないだろう。今は生き残ることだけを考えよう。問題はこの〝二人の人質〟を梃子にして、どうやってセンターにエアロックを開かせるかだ」

 峰が言った。

「私も賛成。殺人事件の解決は、スフィアを脱出してからでも遅くはないわ」

 しかし大西は首を縦には振らなかった。じっと峰を見つめる。

「本当にそうだろうか? センターは最初の殺人を知っていながら――いや、知ったからこそ、スフィアを封鎖するという暴挙に出たんだ。大金をかけて集めた研究者とその成果を捨てる覚悟を決めてまで、ね。しかも『スタッフ全員を殺す』という決意を、僕たちに隠そうともしていない。それは確実に皆殺しにできると判断しているからだ。だが、思惑に反して事実が外部に漏れたらどうだ? ナカトミ・グループ全体が崩壊の危機に瀕することになる。本来なら、まともな民間企業がそんな犯罪に手をつけたがるはずがない。なのにナカトミは、そのリスクを背負い込んだ。なぜか? そうするしかない立場に追い込まれてしまったからだ。そしてナカトミをそこまで震え上がらせる事件の始まりは、『高崎さんの死』だった。つまり、あの殺人の謎が解けなければ僕たちにはナカトミが真に恐れている〝秘密〟に近づけない。敵の腹も読めないうちに、迂闊に取引を持ち出すわけにはいかないよ」

 芦沢が言った。

「連続殺人の真犯人を差し出さなければ、みんなが犯人扱いされて殺される――ということですか?」

 大西はうなずいた。

「しかも僕らはナカトミの機密を暴いてしまったんです。人工冬眠の実験は、当然ナカトミが隠し通さなければならない機密の一つです。しかもその装置を使ってエイズの人体実験までを画策していたことが公にされれば、世界的な規模での制裁が加えられることが避けられないでしょうから」

 中森が言った。

「それもセンターを脅かす駒になるんじゃありませんか?」

 大西は中森を見つめた。

「戦争に核兵器を持ち出せば、同じ核兵器での報復を覚悟しなければなりません。ナカトミの機密を暴くことは武器にもなるが、一方でスタッフを抹殺する動機を強めることにもなるんです。口封じには全員を殺すのがもっとも確実ですからね。しかもスタッフの中にはBTIのスパイと殺人犯が潜んでいる。いくら交渉してもセンターは僕らを解放しようとはしないでしょう。現実に、こうしてあからさまに〝皆殺し〟を図ってきたのですから。人質という切札を確実に生かすには、こっちも全ての事実――つまり、敵の弱点を完全に押さえた上で戦略を練る必要があります」

 峰が言った。

「でも、人質は人質よ。彼らの命を握っていることをはっきり伝えれば、ナカトミだって引き下がるしかないんじゃなくて?」

「たとえ今は僕らの言うことを聞いたとしても、スフィアから出た後はどうなる? 相手は一流の国際企業で、やばい商売だってお手のものだ。ここで知ったことは口外しないと約束したって、一生ナカトミに命を狙われることになりかねない」

 中森が言った。

「私は大西さんに賛成だな。殺人犯の目的が分からなければセンターは簡単には手を引かないだろう。それに、ミスターXが殺人を犯した真の目的は、MSPの秘密を世間に暴いてナカトミに大打撃を与えることにあるかもしれない。ミスターXがBTIのスパイなら、それぐらいはやるでしょう。やはりスパイが誰かを明らかにしないと、スタッフ全員が命を狙われ続けることになると思うね」

 室井はうなずいた。

「MSPの裏研究の実態を暴いて、ナカトミの社会的生命を絶つ――か。なるほど、シマダさんの頭脳を奪われたBTIが考えそうな報復手段だな。もしここでスパイを取り逃がしたら、貴重な極秘情報がBTIに筒抜けになるだろう。ナカトミはBTIとの泥仕合を覚悟しなければならない。保安部は、『何が何でも、スパイは外に出すな』と厳命を受けているに違いないな……」

 大西が言った。

「その通りです。センターはこれまで、スフィアの生態系が崩壊していくのを知りながらエアロックを開こうとしませんでした。最大の理由は、BTIのスパイを探し出してその活動を完全に潰すためだったと思うんです。それは本来僕に与えられた任務でしたが、予測を超える事態の展開に巻き込まれて果たせなくなってしまいました。保安部は次善の策として、スタッフ全員を抹殺する道を選んだのです。『スタッフが勝手に自滅するなら上出来、そうならなければ抹殺するまで……』とね。しかし、彼らだって好き好んでそんなリスクを犯しているわけではありません。殺人を避ける方法をこちらから提案できれば、きっと歓迎されます。少なくとも、耳ぐらいは貸してくれるでしょう。つまりこの袋小路から抜け出すには、いったんスタートラインに戻って僕らの方からスパイを差し出す以外に方法はないんです」

 仁科はうんざりしたようにつぶやいた。

「やれやれ、また探偵ごっこかね」

 大西は首を振った。

「遊びじゃありませんよ。僕ら全員の命を賭けた真剣勝負です」

 シマダがうなずいた。

「どうやら、大西君の言うことが真実のようだな。私たち親子も否応なしにメンバーに加わったわけだ。こうなったら、知っていることは何もかも話そう」

 大西はシマダの真剣な眼差しを確かめてから、質問した。

「ではまず、この部屋について教えてください。冬眠ポッドを隠しておくだけにしては広すぎるような気がするんですが。他にも何か機能があるんじゃないですか?」

 シマダは少し考え込んでから答えた。

「実は、私も詳しいことは聞かされていないのだ。実際スフィアが閉じてからは、ここを開けたのも今日が始めてでね。私の通常の役目は、Vラボに設置されたモニターに異常が発生していないかどうかを見張ることだけだった」

 中森が首をかしげた。

「異常が生じたらどうするんですか? いくらセンターだって、密閉されたスフィアの中には手が出せないでしょうに……?」

 シマダが答える。

「私から異常の通報を受けた場合、センターがどう行動するか……そこまでは、私も知らされていない。収容した生体に異変が生じた場合は見殺しにする気だったのかもしれない。人工冬眠ポッド自体は、少なくとも数年間はメンテナンスの必要がないように設計してあるそうだ」

 大西はうなずいた。

「それでは、今からこの部屋をしらみつぶしに調べるしかありませんね」

 大西の言葉に同意したスタッフたちは、室内に散らばって内部の装置や壁を調査しはじめた。

 中森はコンソールの前に座ってマウスを操作した。

 と、人工冬眠ポッドの反対側の、のっぺりとした金属の壁の継目を探っていた芦沢が声を上げた。

「大西さん、ここを!」

 駆け寄った大西は、芦沢が指さした壁の継目を見た。

「うん……他の部分より継目のわずかに幅が広くて深いようですね。隠し扉かな?」

 大西の背後に、スタッフたちが歩み寄った。

 前に出たシマダが壁を両手でなでながら言った。

「鍵やセンサーのようなものは見当らないが……?」

 室井が振り返って、コンピュータを操作し続ける中森に声をかけた。

「そっちのコンソールにはスイッチらしいものはないのか?」

 中森は素早くマウスを移動させ、次々にモニターに現われる文字を分析していた。この部屋を管理するシステムの全体像を把握しようとしていたのだ。

 中森は手を止めずに答えた。

「特にそれらしいものは見当りませんね。今現われている画面は、冬眠ポッドの操作系統らしいです……画面を変えます。おや? 妙な記号ですね。NAIT――って、何だか分かりますか?」

 シマダが答える。

「窒素の略ではないか?」

 中森がうなずく。

「なるほど。それの、計測数値のようなものが出てきました。人工冬眠装置って、液体窒素を使っているんですか?」

 シマダは即座に言った。

「いや。液体窒素は温度が低すぎるし、万一漏れ出た場合の危険が大きい。冷媒には生体に悪影響を及ぼさない物質を使用しているはずだ。詳しい成分は知らされていないのだが……」

 中森はマウスで画面を切り替えながら言った。

「とすると窒素は何のために使っているのかな……。こっちを探して……B・ROOM――? おっと、またしても妙な記号がお出ましになりましたよ」

 言い終わらぬうちに中森はそのウインドウを開き、『OPEN』の文字にカーソルを移動してマウスをクリックしていた。

 とたんに芦沢が『おかしい』と言った壁の奥でがくんと小さな音がして、パネルがぐいと迫り出した。そのまま畳二枚ほどの面積の金属壁が、上端を支点にしてゆっくりとはね上がっていく。

 壁から離れながら、大西が小さくうなずいた。

「やっぱり、こんな仕掛けがあったんだな……」

 コンソールを離れた中森が、大西の傍らに進み出た。

「中身は何だか見当がつきませんが、そこが『Bルーム』でしょう。正体を拝ませていただきましょうか」

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