『空』の崩壊・2

 それまでじっと聞き入っていた仁科が不意に声を上げた。

「鳥居君だ! ウイルスは彼女が盗み出したのではないのか⁉ 元はBTIの社員だったのだろう? それに、彼女は死ぬ間際にも『BTIが助けてくれるんだ』と言っていた!」

 大西は仁科を見つめた。

「それはそうですが、だからといって彼女が黒幕だったとは考えにくいですよ」

「なぜだね? 実際、鳥居君が死んでからは殺人は起こっていないんだぞ」

 大西もかすかにうなずいた。

「そういう見方もできますがね……」

 仁科は声を荒らげた。

「何が不満だというんだ⁉」

「あなたが言うとおりだとしたら、彼女は一年以上もの間、自分を無能に見せかけていた天才的犯罪者だということになります。自殺同然で死んだことがなおさら理解できません。彼女が機密漏洩に関係していたとしても、端役にすぎないんじゃないんですか? 保安部が総力を上げて調べても解けないウイルス強奪計画を、彼女がたった一人で編み出したとはとうてい信じられませんよ」

「BTIから細かく指示されていれば、自分で考える必要なんかない。彼女は容易にウイルスに近づける立場にあったのだしな」

「しかしスフィアから脱出するために連続殺人を犯していたなら、彼女の死に方は絶対に理屈に合いません。人を殺してまで逃げ出そうとしていたのに、さっさと自殺してしまうなんて……。彼女が黒幕に操られていたのだと考えなければ、あの発作的な行動は説明できませんよ。鳥居さんは『犯罪を犯した重圧と黒幕からの圧迫に耐えきれずに、精神に異常をきたした』……とでも考えるしかないでしょう?」

 仁科もうなずかざるをえなかった。

「言われてみれば、その通りだが……そうすると、BTIは複数のスパイをここに送り込んでいたことになるのか? 保安部はスタッフの過去を完全に調査したんだろう? よくもそんなことができたものだね。それに、その黒幕は何のために突然スタッフを殺し始めたのだ? ウイルスが盗まれたのはだいぶ以前のことなのだろう? それがなぜ、今頃になって……?」

 大西は言った。

「黒幕が突然動き始めた原因は『雑誌記者がマイクロスフィアに入ることが決まった』からだと思います。実験が終盤に入ったスフィアに今さら記者が入るなんて、非常識にすぎるでしょう? それをごり押しできる権力者となれば、ナカトミの幹部しか考えられないじゃありませんか。だとすれば、送り込まれる人物が単なる雑誌記者であるわけはない。〝ミスターX〟はウイルス漏洩が発覚して調査されることを察して、あらかじめ練って準備してあった〝脱出プログラム〟を実行に移した――。あるいはBTIかナカトミ内部の協力者から『脱出しろ』と命令されたのかもしれません」

 室井が言った。

「しかし、だからといって、なぜ殺人まで起こす必要があったのだ?」

「研究施設内で人が殺されれば警察の介入は避けられませんからね。スフィアを脱出するにはエアロックを開かせるのが先決でしょう?」

 中森が首をひねった。

「しかし第一の殺人は、金が目当ての強盗ですよ。しかも、犯人は石垣で、次の犠牲者になってしまった。黒幕とやらが石垣に殺人を命じたわけですか?」

 大西は言った。

「欲がらみの単純な犯行――というのは、偽装の一環でしょう」

 シマダが言った。

「私はそうは感じなかった。石垣君が誰かに偽装を命じられたなら、なぜ身の危険を忘れて私に殴りかかってきたりしたのだね?」

 大西はわずかに考え込んでから答えた。

「その点はしばらく置いておきましょう。今、僕が考えたいのは、高崎さんの死体に施された工作の方なんです。『左腕が二本あった』という非現実的な現実こそが一番重要です」

 芦沢がうなずいた。

「確かに腕の件があったから、あれが殺人だとはっきり分かったわけだ。でなければ、単なる事故として処理されていたかもしれない」

 中森が言った。

「でも、たとえ高崎が事故で死んだとしても、どのみちスフィアは開くんじゃないんですか? 変死は警察の管轄なんですから。脱出することが目的だったなら、それだけで殺人犯の意図は果たされるじゃありませんか。わざわざ『人殺しだ!』と声を張り上げるより、自分の身も守りやすいはずだし……」

 大西はうなずいた。

「僕はむしろ、殺人が警察に知られないために〝二本の左腕〟が必要だったと考えています。だってそうじゃありませんか。黒幕自身が『企業秘密を盗み出す』という経済犯罪を犯しているんですから。警察に入り込まれることは黒幕にとっても都合が悪かったのです。産業スパイといっても、並みのスケールとは違います。ナカトミとBTIが対立するほどの――日本とアメリカの代理戦争ともいえる大事件ですからね。処理を誤れば、日米政府間の紛争にも発展しかねません。警察の捜査がきっかけで産業スパイの存在が明るみに出れば、黒幕の正体が暴かれる危険も大きかったのです」

 中森は納得がいかない様子だった。

「でも殺人となれば、事故より徹底した捜査が行なわれますよ? 逆効果ではありませんか?」

「それを防ぐのが〝出所が知れない左腕〟の役目だったと思うんです。無数の人間が暮らしている外の世界でならともかく、このマイクロスフィアの中では手品のように左腕を取り出してこられる場所は、地下に隠されていた冬眠ポッド以外にありません。僕ら下っ端には知らされていませんでしたが、ナカトミの幹部は確実にその点に気づいたでしょう。しかし、冬眠ポッドやエイズ治療ワクチン開発はナカトミの最高機密です。どんな代償を払ってでも警察に悟らせるわけにはいきません。謎の左腕の出所を捜査当局に詮索されることは、ナカトミにとってもタブーだったのです。ナカトミはあの左腕の出現によって、独自に事件を解決しなければならない立場に追い込まれたわけです。それは同時に、黒幕もが法律の枠外に出ることを意味します」

 室井がうめいた。

「つまり犯人は、あの左腕でナカトミの幹部を脅迫したというのか……?」

「『警察に知らせれば、ナカトミの秘密も暴かれるぞ……』とね。ミスターXは、マイクロスフィアという閉鎖空間の中から、しかも己れの正体を全く現さずに、それだけの〝大技〟を仕掛けたんです。ところがミスターXにも誤算がありました。最大の失敗は、僕の到着が早まったことを知らなかったことです」

 室井はうなずいた。

「窓口になった私でさえ直前に教えられたのだから、誰であろうと知りようがなかったはずだ。到着を早めたのは君の戦術だったのかね?」

「作戦を考えたのは須賀副部長ですよ。これで黒幕の出鼻をくじけるはずだったんですがね……」

「君らが打った奇策は、偶然に黒幕の脱出計画に真正面からぶつかってしまったわけだ」

「そして、黒幕の第二の誤算が決定的になりました。ナカトミの幹部は殺人を知っても一向に動こうとしなかったのです。しかし黒幕はセンターの火災が見せかけにすぎず、スフィアの様子をモニターしていることを見抜いていたでしょう。だからこそ次々に生態系を破壊し、第二、第三の死体を作り出してセンターを脅迫し続けなくてはならなかったのです。『このまま放置しておけばシマダさんを含めた頭脳が全壊するのだぞ』とね」

「全てはセンターにエアロックを開かせる手段にすぎなかったのか……」

「しかしミスターXの思惑はことごとく外れてセンターは沈黙を守り、僕らはここに閉じこめられたまま……。そして今や、命さえ脅かされているわけです……」

 はっと気づいたように中森が言った。

「いけない! 外の様子を確かめるのを忘れてた!」

 中森はロビイの遠隔操縦ヘルメットとデータ・グローブを装着した。スイッチを入れると、小声で命令をつぶやきながらグローブを空中で動かす。ロビイの向きを調節しているようだった。

 室井は言った。

「シェルに穴は開いているか⁉」

 中森がヘルメット越しにくぐもった返事を返す。

「待ってください……今、そっちを……ち! 奴ら、ガスのホースを突っ込もうとしている!」

 大西は厳しい表情でうなずいた。

「〝皆殺し〟にする覚悟は変わらないようですね」

 峰が言った。

「呑気なことを言ってないで! ボンベの中身を吐き出されたら長くは保たないわよ。どうするの⁉」

 不意に中森が叫んだ。

「馬鹿、駄目だ! そっちに行くんじゃない!」

 叫びの意味は全員が即座に理解した。温室に取り残された二階堂がセンター要員たちに近づいているのだ。

 大西が言った。

「こっちに連れ戻して!」

 中森は慌ただしくデータ・グローブを動かしながら答えた。

「殴り倒してでも!」

 部屋の真ん中に立った中森は、しばらくの間、虚空に腕を振り回した。ロビイはその動きに従って金属の腕を二階堂に回しているはずだった。

 中森は叫んだ。

「つかまえた! ドアを開けてください!」

 芦沢と大西が廊下に飛び出した。

 突き当たりの2番出口のドアを開く。

 とたんに、二階堂の甲高い絶叫が耳に届いた。

「いやよ! たすけて!」

 二階堂はロビイのマニピュレータに抱えられるようにして、コア・キューブに向かって押されている。狂気に任せて金属のボディーに叩きつけられる両手からは鮮血が噴き出していた。

 入り口で待ち構える大西の脇に、仁科が立った。その手には注射器が握られている。

「ロビイが手を放したら二階堂君を押さえて。鎮静剤を射つ!」

 大西はうなずいた。

 ロビイが入り口に着いた。二階堂の絶叫がコア・キューブの廊下に響き渡る。

 芦沢が叫んだ。

「ロビイの手を放せ!」

 同時に二階堂がロビイから離れた。

 芦沢と大西は暴れる二階堂におおいかぶさって、床に押し倒した。

 大西が命じる。

「仁科さん! 今だ!」

 注射器を構えた仁科がかがみ込んだ。仁科は動転しているようだった。振り降ろされた針が、大西の手の甲に近づく。大西はぐいと身体を引いて、二階堂の腕を針の下に移動させた。

 注射を射ち込まれた二階堂はすぐに動きを止めた。

 峰が廊下に飛び出してきた。

「ドアを閉めて! コアが汚染される!」

 立ち上がった芦沢が音をたててドアを閉じた。

 温室に残ったのはロビイだけだった。

 彼らは力を失った二階堂を抱え、再び医務室に入った。

 医務室では中森のパフォーマンスが続いていた。部屋の中央で忙しなく両腕を振り回している。

 室井が説明した。

「シェルに取り着いた連中を追い払おうとしているのだ。大した時間は稼げんだろうがな……」

 仁科は気を失った二階堂の口に耳を寄せて息を確かめた。

 大西は言った。

「大丈夫ですか?」

 仁科はつぶやいた。

「一酸化炭素中毒の兆候はないように見える……」

 峰が溜め息をもらした。

「でも、これで温室の空気は頼りにできなくなったわ。森も海も空も、みんな死んでしまった。このスフィアは壊滅よ……」

 大西はうなずいた。

「それでも事態を打開する方法は残っている。ようやく、黒幕の正体も分かったことだしね」

 全員の驚きの視線を集めた大西は、ふてぶてしく笑っていた。

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