『空』の崩壊・1

 芦沢が言った。

「そこまではシマダさんの話を信じるとしましょう。しかし、殺人は石垣の死後も後も続いたんですよ。鳩村さんを殺したのはセンターで、鳥居君は事故だったとしても、天野さんは確実に我々の中の誰かに殺されました。しかも、例によって右手を切り落とされて。これをどう説明するんですか?」

 シマダは断定した。

「答えは一つしかない。殺人者はもう一人いる。しかも、その人物が『連続殺人を陰から演出していた』と考えざるをえない」

 室井がつぶやいた。

「演出だと?」

 シマダがうなずく。

「石垣君は、彼の知るはずのないことを知っていた。人工冬眠ポッドの存在、高崎君の腕に隠された口座番号――」

 芦沢が言った。

「それは『石垣はセンターの誰かに操られていた』ってことですよね。情報源はナカトミの中枢部以外に考えられませんから。つまり、MSPを妨害しようとする者が上層部に潜んでいる、と……?」

「そうかもしれん。石垣君に企業秘密を教えた人物が存在することは確実だからな。だが、そうだとしても〝センターの傀儡〟は石垣君の他にもう一人必要だ。すなわち、高崎の死体を焼き払った人物だ。そして、その誰かがおそらくは天野君をも殺したのだろう」

 仁科がつぶやいた。

「センターの手先、ね……」

 シマダは首を振った。

「というより、私はその人物が全ての事件の〝黒幕〟だと考えている」

 峰がつぶやく。

「黒幕だなんて……。それじゃあ、連続殺人は初めからその人物によって計画されていたっていうの?」

 大西がうなずいた。

「ありえないことではないね」

 室井が大西を見た。

「君は何か知っているんだね?」

 大西はスタッフ全員の表情をうかがってから、言った。

「ええ、そう言ってもいいでしょう」

「まだ隠していたことがあるのか⁉」

「全ての始まりが『エイズ治療ワクチンの漏洩事件』だった、ということです。このマイクロスフィアから持ち出された企業秘密は単なる〝情報〟ではなく、シマダさんが作り出したウイルスそのものだったのです。〝黒幕〟は、そのリークを手引きした人物に違いない。つまり、ナカトミから機密を盗み出すためにスフィアに潜入した、BTIの産業スパイです。おそらくそれを隠すために、あるいは自分が罪から逃れるために、そのスパイには〝連続殺人〟が必要だったのです」

 峰が大西を見つめた。

「そんな……スフィアは一切の物質を外に漏らさないように作られているはずなのに……」

「だが、その仕組みを破った〝マジシャン〟がいるんだ。このスタッフの中に」

 峰は身を乗り出した。その目は科学者の好奇心で輝いている。

「ウイルスのリークことを詳しく教えて」

 大西はシマダと目を合わせた。

 室井が言った。

「私もぜひ聞きたい」

「いいでしょう、私もプロの意見をうかがいたいと思っていましたから」

 そして大西は説明を始めた。

「シマダさんのチームが開発した治療ワクチンウイルスは、生のエイズウイルスに遺伝子操作を加えたものです。その働きは、先ほどシマダさんが説明してくださったとおりです。開発には今だに公表されていない特殊な酵素と、ウイルスの遺伝子を組み替える最先端のシステムが活かされていました。いずれもシマダさん発見で、BTIはその存在を隠すために特許の申請さえ行なわなかった技術です。その方法で作り上げた治療ワクチンウイルスと全く同じものが、なぜかBTIの研究所にあることが分かったのです」

 芦沢が大西を冷たくにらみつけていた。

「そこまで詳しい知識があるってことは、あなたは『Vラボ』の存在も『ワクチン開発』も知っていたんでしょう? なのにどうしてシマダさんの研究を探り出そうとするふりを続けてきたんです? 何のために、今までとぼけ続けていたんですか?」

 大西は悪びれずに答えた。

「僕は機密漏洩の調査を命じられた保安部員なんですよ。少なくとも、センターが人殺しを始めるまではね。切札は隠していた方が犯人のガードを甘くさせるじゃないですか。しかも僕が着いたとたんに、いきなり殺人事件――。保安部員としては犯人を捕まえるのが当然の任務です。そのためにも〝何も知らない部外者〟でいた方が都合が良かったわけです。あの手この手でスタッフ全員を挑発して、犯人の焦りを誘うこともできますしね。しかも僕だって、上司から全てを教えられていたわけじゃありません。実際に人工冬眠ポッドのことも、サリーさんのことも知りませんでしたからね」

 芦沢の口調はまだ厳しかった。

「知っていながら、またとぼけているんじゃないのかい?」

 大西は淋しげに目を伏せた。

「今では、自分の命を守ることが最優先任務でね。現実に僕はこうして、あなた方と一緒に始末されかかっています。結局僕は、すげ替えが効く〝部品〟にすぎなかったんですよ」

 仁科が大西をうながすように言った。

「BTIがスフィアから治療ワクチンを盗み出したというのは、間違いないのだね? いったいどうやってそのような離れ業が可能だったのか、ナカトミには見当がついているのか?」

 大西は首を振った。

「まだ全然。ここは完璧な密室で、外部とは空気の出入りさえありません。ドーム内の気圧を低く設定した真の理由は、内部で産み出したウイルスを外に出さないためだったんですからね……」

 中森が首をかしげた。

「しかし、どうしてナカトミにはウイルスが盗まれたことが分かったんです? 誰かが持ち出した現場を捕まえたなら、リークのルートだって簡単に暴けるじゃないですか」

 大西が説明した。

「実はナカトミも、BTIの研究組織内に情報網を張り巡らしていましてね、その一ヶ所に問題のエイズ治療ウイルスが引っかかったのです。盗まれた〝課程〟ではなく、〝結果〟から盗難を知らされたわけです」

 中森は納得しなかった。

「だからって、偶然じゃないとは断言できないでしょう。もともとそのワクチン開発の理論はBTIが暖めていたものなんでしょう? BTIが独自に同じワクチンを開発していたことだって考えられるじゃありませんか。ウイルスに名札がつけてあるわけじゃなし……」

 シマダが言った。

「名札はつけてあるのだ。私が育てたウイルスには」

 大西がうなずく。

「ウイルスの遺伝子、この場合はHIVのRNAですが、そこには特殊なマーカー――簡単に言えば〝色〟がつけてあったのです。それはごく狭い波長域の紫外線に反応すると、かすかな蛍光を発します。蛍光顕微鏡を使えばほんの数分で確認できます。BTIがP3施設で分析していたエイズワクチンのオリジナル株は、まさにその蛍光を発したんです」

 室井が言った。

「分析……だと? ワクチンは完成していたのではないのかね? そのままでは製品にはならなかったのか?」

 シマダが答えた。

「マウスでの実験しか行なっていない、臨床試験前のワクチンだからね。理論的には全く安全だが、生体の中でどのように振る舞うかは厳重にチェックする必要がある。しかも私が作り出したウイルスには決定的な欠陥が残っていたのだ」

「欠陥……? BTIはなぜそんな半端なものを盗み出したりしたのだ……? 完全に出来上がってからなら、何の手間もかからなかったものを」

 大西が答えた。

「焦ったんですよ。ナカトミとシマダさんが手を組んだことを知り、エイズ治療薬の市場を席巻されることを恐れたのです」

「しかし、理論はとっくに完成していたのだろう? 発表するしないは別にしても、なぜBTIは先にワクチンを作り出せなかったのだ?」

「理論から製品を作り出すにも独創性は必要ですからね。しかもシマダさんが説明してくださったように、BTIは本来エイズ治療ワクチンの完成を望んでいなかったのです。彼らともっと時間を置いて、市場が充分に拡大してから本格的に参入する戦略を練っていました」

 室井はうめいた。

「やはり、それが事実なのか……。患者を増やすために、治療薬の開発を意図的に遅らせていたわけだな?」

 大西はうなずいた。

「それだけパイが大きくなるわけですからね。特にBTIは、日本がエイズに汚染されることを待ち望んでいたようです。なのにナカトミがシマダさんを奪って先陣を切ってしまったために、BTIでも不本意ながら開発に乗り出さないわけにはいかなくなりました。ところが、スフィアにスパイを潜入させてまで奪ったエイズ治療ワクチンには重大な欠陥がありました。その欠陥が判明したのはワクチン強奪が決行された後だったのです。だからBTI側も、ワクチンを製品化するために独自にその欠陥に対処しなければならなくなったのです。しかし彼らは、問題解決に不可欠なシマダさんの頭脳をすでに失っています。そこでシマダさんと並ぶ実力を持つ研究者に対して、あからさまなヘッドハンティングに出たのです。BTIの背後ではアメリカ政府の高官も暗躍していたといわれます。その不用意な動きから、逆にナカトミはウイルス盗難の事実を嗅ぎつけたわけです」

 シマダが大西を見つめて言った。

「BTIでも、まだあの問題は解決できていないのだな?」

「ええ。あなたにはとうてい追いつけないでしょう」

 室井の妻が言った。

「何なの、その欠陥って。まさか『エイズの症状を加速させる』なんて化け物をこしらえたんじゃないんでしょうね?」

 シマダは首を振った。

「その逆だ。さっきの私の説明が正確に理解できていれば、どこに問題があるのかは分かるはずだ。もちろん、私が開発したエイズ治療ワクチン自体に伝染性はない。治療遺伝子を運ぶベクターは子孫を残すことなく消滅してしまうからだ。しかしその効果によって発生するネオHIVには、伝染性が残されている。つまりHIVがセックスで感染者を拡大していくように、治療ワクチン化したネオHIVもセックスで広がっていく」

 峰が息を呑んだ。

「なんですって⁉ それならエイズは簡単に撲滅できるんじゃない! 医者も病院もなしで治ってしまうなんて、こんな素晴らしい話はないわ!」

 大西は悲しげに首を振った。

「確かにエイズ患者にとっては福音といえる。しかし、医薬品としての価値はゼロになるわけだ。薬が売れなくてはナカトミは利益を上げられない。このスフィアの建造費を含む莫大な先行投資も無駄になる。その上にエイズそのものが地球上から消え去ってしまっては、これまでAZTやプロテアーゼ阻害剤などの化学治療薬で維持してきた市場まで失うことになる」

「そんな……ナカトミは企業の利益のために世界中に蔓延したエイズを放置しておくっていうの……? こんなに有望な対処法を発見しておきながら……?」

 大西は目を伏せた。

「それが企業の論理さ。科学者や技術者の誠意が企業に受け入れられることは多くない。BTIだって、ナカトミと同じことをしてきた。エイズが金を生む原動力だってことは、現代では製薬会社全体の共通理解なんだからね」

 峰は重い溜め息をもらした。

「私にだって分からないわけじゃないけど……真剣には考えたくない現実ね」

 大西はうなずいて、スタッフたちを見渡した。

「真剣に考えなくてはならないのは、その治療ワクチンウイルスが実際にスフィアから持ち出されたという事実です。ワクチンを奪った黒幕は必ずスタッフの中に潜んでいます。はっきり言いましょう。僕は『その人物が連続殺人を演出した』のだと確信しています」

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