現われた右腕・3

 シマダの気持ちを察した大西が言った。

「しかし不思議ですね。人工冬眠装置の件は、機密漏洩の調査を命じられた僕でさえ知らされていなかったんですよ。それほど高度な機密を、誰が石垣さんに教えたんだろう……? 他にその事実を知っていたのは誰なんでしょう?」

 シマダは溜め息をもらした。

「試験機開発に携わった研究者や技術者か、それともナカトミの上層部のいずれかだろう。石垣君はそのどちらかに個人的なコネクションを持っていたとしか考えようがない。とにかく『彼は知っていた』のだ。そして私に言った。『高崎の死体に置いてあった左腕は地下の冬眠ポッドの中の人間から切り取ってきたんだろう』とね。このスフィアの中には、人工冬眠ポッド以外に見知らぬ人間が潜むことができる場所はないからだ。だが私は冬眠ポッドの存在を認めなかった。ナカトミの機密を暴くような真似はできないのだ。今の私はナカトミに囚われたうえに、サリーを人質にされたも同然なのだからな。しかし石垣は、私の言葉を頭から信じなかった……仕方なく私は、娘の病気の治療手段を探すためにこのスフィアに入ることを決断したことを打ち明けた。そこまでしても、彼は私を信じようとしなかった……」

 サリーはもつれる舌でささやくように言った。

「とうさん……私……病気なの……? お願い……教えて……本当のことを……」

 シマダはサリーの目を見つめた。覚悟を決めたようだった。

「その通りだ。おまえは現在の医学では治療が不可能な病に冒されている……」

「嘘……だって……だって……こんなに……元気なのに……」

 シマダは哀しげにうなずいた。

「確かに、今は何の症状もない。だが、おまえは確実に病気なだ。信じられんことかもしれんが、おおむね三〇才を過ぎた頃にその病は発病する。私が分析法を探し求め続けてていた遺伝病に、おまえは冒されている……」

 仁科が言った。

「何ですか、その病気とは?」

「ハンチントン舞踏病――日本人には馴染みの薄い病だがね。この病気は遺伝子の中で身を潜め、患者の肉体が成熟する時をじっと待っている。そしてある日突然姿を現し、全身を麻痺させ、脳を冒す。サリーはその病の遺伝子を細胞内に潜ませているのだ」

 仁科は言った。

「ハンチントンは確か、優性遺伝病でしたね?」

 大西が仁科を見る。

「優性遺伝病って、何です?」

 仁科は答えた。

「ヒトは、両親から受け継いだ一対の遺伝子を持っている。その両方に異常があって初めて発病する遺伝病を、劣性という。それに対して優性遺伝の疾患は、どちらか片方の遺伝子に異常があるだけで発症してしまう。つまり片親が遺伝病を持っていれば、その子供は五〇パーセントの確率で同じ遺伝病を引き継ぐわけだ」

 シマダはうなずいた。

「私の妻は二七才の時にハンチントンを発病した。彼女はある弁護士の家に養女として迎えられた女でね……それまで彼女自身ですらハンチントンを持つ家系であることを知らなかった。その時すでに二才になっていたサリーには、発病の可能性が高かった。それを知った私は、BTIの全組織をハンチントンの遺伝子を解明するプロジェクトに投じようとした。会社としての利益を度外視しても、だ」

 大西がつぶやいた。

「なるほど……だからあなたは、銀行家に嫌われたんですね?」

「目先の利益を最優先する奴らは、絶対数が少ないハンチントン舞踏病を有望なマーケットとはみなしていなかった。運良く治療法を完成できても、特殊な病であるだけに利益は薄いと結論したのだ。ハンチントンの場合、遺伝子の異常が第四染色体上にあることはだいぶ以前から予測されていた。しかし根本的な治療にはDNAの変異箇所を特定する必要があり、多くの人手と時間を投下しなければならなかった。銀行屋どもはその投資を拒否し、私は彼らに妨害され、疾病を引き起こすDNAを特定することさえできなかった。結局私の悲願を実現したのはマサチューセッツ総合病院のチームで、彼らが開発したスクリーニング法によってサリーがハンチントンであることが確認されたのだ」

「つまりあなたは、娘さんを救うために自ら興したBTIを捨て、ナカトミと手を結んだのですね?」

 シマダは娘を見つめてからうなずいた。

「私には、BTIよりも娘の命の方がはるかに大事だ。たとえ障害の原因となる遺伝子が確定されても、それだけでは病は治らない。現在では、ハンチントンが遺伝子の特定の領域に『CAG』の三つの塩基が反復することで引き起こされることが分かっている。正常者では数十回しか反復しないこの三塩基が、ハンチントンの患者では何百回も重複して書き込まれているのだ。このような性質の遺伝病には、現時点では対症療法しか選択肢がない。しかしそれは、死をわずかに先延ばしさせるだけの、虚しく苦しい気休めでしかない。根本的に治療するためには、遺伝子そのものを書き替える必要がある。私が開発した拡張制限酵素を用いれば、特定のDNA配列の部分に『治療に用いる遺伝子』を挿入することは可能だ。だがハンチントンの治療には遺伝子を加えるのではなく、余分な三塩基の繰り返し配列を〝削除〟する必要がある。それは、遺伝子の付加よりはるかに困難な技術なのだ。だが、解決法は見えてきている。何としても娘を、そして同じハンチントンの恐怖に苦しむ人々を救いたかった。あとわずかの時間と費用を惜しみさえしなければ、必ず救えると確信していた。なのにBTIは……」

 不意に口をつぐんだシマダに、仁科が言った。

「しかし、生きている人間の遺伝子そのものを自由に組み替えるだなんて……まだ世論のコンセンサスを得られるはずがない」

 シマダは仁科を見つめた。

「それも承知している。だが、世論がうなずくまで待ってはいられない。サリーのハンチントンは時限爆弾のようなものだ。正当な手順を踏んで研究の必要性を訴えたとしても、その間にも病変は、静かに、確実に進行していく。だからこそ私はナカトミに魂を売った。たとえ私が独力で研究を始めても、妨害されるに決まっていたからだ。『シマダはBTIを捨てて何をやっているんだ……』と、商売敵や株屋が殺到する。政治と金に翻弄されながらでは、研究に時間がかかり過ぎる。最悪の場合、法律によって研究を放棄させられる。私は、すべてを忘れて研究だけに集中したかった。そうしなければサリーの命があるうちに研究を完成させることができないと恐れた。だが君でも、生きたヒトの遺伝子を直接に操作することが『遺伝子治療』の最終目的であることに異論はあるまい?」

「確かに、多くの医者はそんな技術を夢見ている。しかし実現には障害がともなう。遺伝子治療をどう進めていくかという基本理念そのものだって、世論の判断を待つべきなんだ」

「急ぎすぎたことは認める。しかし、だからこそ、人類共通の夢を実現に近づけることができたのだ。それが、エイズ治療ワクチンに使用した『拡張制限酵素』だ。この酵素を自在にデザインすることで、ベクターに組み込んだ遺伝子をヒトのゲノム中の〝特定の位置〟に挿入することが可能になった。これまではベクターに託した遺伝子がゲノムのどこに組み込まれるか、あるいは機能を発揮するかどうかさえ運任せだったではないか。最悪の場合、別の遺伝子を分断して新たな疾患を招く恐れさえあった。私の拡張制限酵素は、力ずくで遺伝子を押し込む博打のような方法よりはるかに安全で効果的な遺伝子治療の道を開いた。むろん私は、ハンチントンを治療するための第一歩としてこのシステムを開発した。しかし、BTIの幹部には拡張制限酵素技術がもたらす限りない可能性と価値が理解できなかった。彼らはこの技術を育て、洗練させ、実用化する費用と時間を惜しんだ。だから私はBTIと対立し、ナカトミの技術に賭けた。人工冬眠でサリーの命を永らえさせ、その間に〝完全な遺伝子治療法〟を完成させることに挑んだのだ。もちろんナカトミは、短期的な利益を上げることも要求してきた。私の要求を聞き入れてマイクロスフィアの設計に膨大な資金を費やす変更を加えたのだから、それも当然だがね。その結果として私がナカトミから請け負った仕事が、エイズ治療ワクチンの製作だった。私は娘を救うチャンスを得て、代わりにナカトミは遺伝子治療の根本技術を入手し、同時に私の頭脳をBTIから奪い取った――ということだ。私は今でも、正当な取引だったと考えている」

 仁科が驚きをにじませてつぶやいた。

「拡張制限酵素の技術は、そんなに以前から完成していたというんですか……? マイクロスフィの中でそれを探していたんではないんですか……?」

 シマダは当然のことのようにうなずいた。

「私がBTIにいた当時は、基本構想をまとめたにすぎなかったがね。しかしそれでも、残されていた課題は技術的な障害だけだった。理論としてはすでに完成されていたのだ。そしてその理論はBTIの最高機密だった。銀行家たちは企業利益だけを考えて、一切を公表しなかった。だから私は、ここで自分の理論を実行に移したにすぎない。でなければ、わずか二年足らずで『エイズ治療ワクチン』が開発できるはずがない」

「しかしこれほど重大な発見が、何だって発表されなかったんだろう……?」

「ナカトミが人工冬眠技術を隠そうとするのと同じだ。BTIが求めているのは利益であって、『真っ先に理論を発明した』という名誉ではない。しかも、生きた人間の遺伝子を改編しようという危険な側面をも持った技術だから、なおさら扱いには慎重になる。うかつに公表すれば、基礎実験さえ制限されかねない。研究成果を横取りしようとする追随者もあらわれるだろう。そもそも銀行屋どもは『今の段階でエイズワクチンを作り出すことは、将来の大きな利益を損なう』と判断していた。奴らは、エイズがもっと蔓延してから大量の治療薬を売りさばきたかったのだ。私は彼らに裏切られて、初めてその腹黒さを思い知った。だからきっぱりとBTIを捨てることができたのだ。ナカトミの側から見れば、私を取り込むことで産業スパイがBTIの最高機密を盗み出した以上の効果を生む。最先端の知識を得た上に、それを有効に活用できる頭脳をBTIから奪い去れるのだからな。当然、BTIは総力を上げて私を妨害してくる。だから私はMSPに便乗して身を隠した。そうして私は部下にエイズワクチン製作の指示を出しながら、自分はハンチントンの研究に全精力を傾けていた。場合によっては、部下たちにも密かにハンチントンの研究を命じていた……」

 シマダの話に聞き入っていた峰が不意に顔を起こして叫んだ。

「ハンチントン・ディジーズ! 頭文字は『HD』じゃない! HDの血文字はそれだったのね!」

 シマダはゆっくりとうなずいた。

「石垣君を納得させるために、私は全てを打ち明けた。石垣君にとっては、そう知らずに自分がHDの研究をさせられていたことが頭に残ったのだろう」

「石垣さんはそれでの納得しなかったの?」

「納得しないどころか、斧を取って殴りかかってきた。彼の精神はすでに正常ではなかった。私は身を守るために消火器を振り上げて戦った。私には、命を捨ててでも娘を守らなければならない義務がある。体力ではとうてい勝てん相手だが、気迫では私がはるかに勝っていた。当然、生き残ったのは私だった」

 室井は言った。

「『正当防衛だった』と言うなら、どうしてすぐに私たちに知らせなかった⁉」

「娘のことを含めて、人工冬眠ポッドの件は絶対の秘密だった。それを明かさない限り私の無実は証明しようがない。だが、事実を明らかにすればナカトミとの深刻な対立を覚悟しなければならない。そうなってはポッドで眠っているサリーの命さえ危なかった。彼らは人工冬眠システムの電源を握っているのだ。だから私は、全てを隠し続けるしかなかった……」

 大西は言った。

「石垣さんを殺したあなたは急いで人工冬眠ポッドに降りて行き、娘さんの腕が切られていないことを確認してから蘇生を開始した……。だから今、娘さんは姿を現すことができたわけですね?」

「安全な蘇生には相当の時間がかかるから。迷いはあったが、あのまま眠り続けていてはサリーは自分の命を守ることもできない。その方が救える可能性が高いと考えたのだ」

「でも、どうやって娘さんをスフィアから脱出させるつもりだったんですか? 僕ら自身が逃げられないというのに……」

「計画などあるものか。ついさっきまで、そのことで頭を悩ませていたんだ。だが、今蘇生しなければ、わずかなチャンスすら捨てることになる。賭だったのだ……」

 大西はうなずいた。

「僕が罠を仕掛けなくても、いずれはサリーさんの存在を知らせるしかなかったわけだ」

 シマダがうつむく。

「ここに立てこもるときには、娘を抱いていたかった……死ぬときは、ともに……サリーに、謝りたかった……」

 大西は質問を続けた。それは、シマダを励ます言葉のようにも聞こえた。

「石垣さんは息絶える前にあなたの話を記録しようとして『HD』の血文字を記したわけですね」

「彼も一流の研究者だったからね。私がハンチントンに挑んでいることを記録しておきたかったのかもしれない」

「それからあなたは、彼の右手首を切り落とした。なぜそんなことをしたのですか? なぜ血文字を消さなかったのですか?」

「手首を切ったのは、高崎の殺人と関連があるように見せかける偽装だった。ああしておいたから、スタッフ全員の注意は右手に集中した。『高崎の死体に添えられていた左腕がどこから来たか』ではなく『犯人がなぜ右手を集めるのか』に関心が向かった。それが私の目論みだった。このスフィアの底に『左腕が存在しうる人工冬眠実験室』が隠されていることを悟られたくなかったからだ。しかもHDの血文字によって、一時は中森君が犯人になりかけた。血文字を放置しておいたことが私の計算であったことは認める。私は何としても、地下の人工冬眠ポッドから皆の注意をそらしておきたかったのだ」

 中森が言った。

「私を連続殺人犯に仕立て上げても、ですか……?」

 シマダはじっと中森を見つめた。

「すまなかった。私にとってサリーは、自分の命よりも大切だ……サリーが発病する前に何としても根本的な遺伝子治療法を完成しなければならなかった。それまでは、私は絶対に犯罪者になるわけにはいかなかったのだ……」

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