現われた右腕・2
シマダは息を詰めて自分を見つめるスタッフを見渡してから、娘を再び横たえた。娘はまだ目を開けていたが、震えは止まっていた。呼吸も安定し始めている。
シマダは娘をじっと見つめてから、顔を上げて穏やかな声で語り始めた。
「私を地下倉庫の通路へ連れていったのは、石垣君の方だった。中森君の指示で光ファイバーの回線を探している最中のことだ。石垣君は私の腕を力ずくで引きずり、思い詰めた様子でこう言った。『俺を脅迫する気か。話をつけよう』……と」
室井が首をひねった。
「脅迫されたのは君の方なのではないのか? どういうことなのだ?」
「私もそう聞き返した。『どういうことなのだ?』と。しかし石垣君は、悪魔にでも取り憑かれたように私をなじるばかりだった。私は、もしや彼がサリーの秘密を知っているのではないかと恐れ、仕方なく地下倉庫のドアを開けた。そこでなら言い争いをしても他の者には気づかれないですむ。彼がどこまで機密に通じているか、探り出さなければならなかったのだ」
大西は言った。
「機密の件については、後でゆっくり聞かせてください。まずは石垣さんが言った言葉を、できるだけ正確に教えていただきたい」
「彼は私の胸ぐらを掴んでこう言ったよ。『どこから左腕なんか持ってきたんだ? 俺を脅しても分け前はないぞ。結局、高崎の口座番号は分からなかったんだからな』と」
仁科が首をひねった。
「口座番号?」
「私が問い返すと、彼は説明した。最初に殺された高崎君は、かつて合衆国のマフィアの手先となって麻薬の密造に遺伝子組み替え技術を提供していたそうだ。高崎君はその際に得た莫大な報酬をスイスの銀行の秘密口座に預けて口座番号を記したマイクロフィルムを右腕のどこかに埋め込んだというのだ。だから石垣君は高崎君を殺して腕を切り、個室でじっくりと調べた……なのにフィルムは発見できずに、その上、朝には死体が勝手に燃え出した。しかも死体の横に戻した右腕も、いつのまにか左腕に変わってしまった……彼は、半狂乱でそう言った」
峰が両手を口に当ててつぶやいた。
「いやだ……高崎の〝マフィア〟の話って、嘘じゃなかったの……?」
大西はシマダに向かってうなずいた。
「高崎さんを殺したのは石垣さんで、さらにその死体に第三者が手を加えた――というわけですね?」
室井もじっとシマダを見つめていた。
「しかし、石垣が事実を話したという保証はないだろう? 君のその言葉だって……」
シマダは素直にうなずいた。
「信用してくれとは言えない。しかし、事実だ」
芦沢が腕を組みながら言った。
「マフィアだとかスイスの銀行だとか、ずいぶん芝居じみていますね。それが本当だと仮定しても、口座番号が分かったところで本人だと証明できなければ金の引き出しようがないじゃないですか。そもそもスフィアを出なければ何の役にも立ちません。石垣がそんな理由で人を殺かな……?」
大西が首を横に振った。
「スイス銀行の秘密口座というのは番号が全てなんです。番号を知っていることがすなわち本人の証明であって、それさえ正確に言えれば誰でも口座の全額を引き出すことができます。それに、高崎さんが一時的にマフィアの配下にあったことも事実でしてね。石垣さんは『スフィアの内部で人が死ねば実験は中止される』と期待していたのかもしれません」
峰が大西を見つめた。
「あなた、なんで高崎の過去まで知っているの?」
大西は峰を見て肩をすくめた。
「もちろん、保安部員だからさ。ここに入る前にスタッフ全員の調査ファイルに目を通した」
「私のファイルも?」
「もちろん。だから僕には隠し事はできない。君がMSPに加わった動機が、僕に話してくれた通りだということも分かっている」
峰はわずかに唇を尖らせた。
「あまりいい気分じゃないわね。一方的に自分のことを探り出されるのは……」
「僕のことなら後でゆっくり話すよ。時間があれば、だけど」
中森が言った。
「しかし最初から高崎が犯罪者だと分かっていたなら、ナカトミは何だって奴をスタッフに加えたんだろう?」
大西が答える。
「〝極めて有能〟だからですよ。彼がマフィアに提供した商品は遺伝子操作によって従来の数十倍のコカインを生産できるようにしたコカでした。しかしそのコカは繁殖力が極端に弱かった。しかも新たに同じ植物を作り出す〝設計図〟は高崎さんの頭の中にしかなかったんです。だがマフィアは、その頭の中のファイリングキャビネットをこじ開けようと高崎さんに圧力をかけ始めた。怯えた彼は、ナカトミのマイクロスフィア計画を知って保護を求めたんです。ナカトミにとっても彼の頭脳は貴重だった。だから彼は『ニューヨークで強盗に射殺された』と偽装され、身分を偽ってMSPのスタッフに迎えられたのです。このスフィアは、彼にとっては世界中で一番安全な隠れ場所だったわけです。スフィアが開く時は、整形手術を受けた上で別人になりすます手筈が整っていたといいます」
室井の妻が言った。
「でも、何だって高崎君は口座番号を腕に隠したりしたの? 覚えてさえいれば、記録なんて残さない方が安全なのに……」
室井がうなずいた。
「確かに奇妙だな。それにそもそも、石垣はどうやって高崎が金をスイスに預けていることを知ったのだ? シマダ君、彼らはそんな重要な身の上話を交わすほど親しかったのかね?」
シマダは首を振った。
「高崎と親しい人間などいない」
大西が言った。
「とにかく、石垣さんが高崎さんの腕に口座番号が隠してあると〝信じていた〟ことが事実だったと仮定しましょう。第一の殺人の動機は、巨額の財産目当ての営利殺人だったことになります」
中森がつぶやく。
「石垣は変り者だが、そんな卑劣な男じゃなかった。犯罪で稼ぐ気ならハッキングの腕だけで億万長者になれたさ。人を殺す必要なんかない」
大西は言った。
「あくまでも仮定の話です。僕だって割り切れないものは感じているんですから。親友だった石垣さんを悪く言われるのは不本意でしょうが、この場はそういうことにしておいてください」
中森は渋々うなずいた。
「分かったよ」
大西はシマダを見ながら先を続けた。
「今言った仮定に立つなら、石垣さんの取った行動はこういう具合になるでしょう。まずは夜のうちに高崎さんを殺し、事故で切断されたように見せかけて腕を奪う。それを自室でじっくり調べたがマイクロフィルムは発見できなかった。彼は落胆しながらも腕を死体に戻す。だから死体は、高崎さんが自分で外した支柱の下敷きになったように偽装されていたわけです。ところが夜が明けると、突然死体が燃え出した。彼はその原因を探るために、慌てて消火に駆けつけた。が、焼け跡からは左腕が二本……。誰かが〝殺人〟を知ったことは明白です。そこで彼は『シマダさんが死体に手を加えることで自分を脅迫したんだ』と思い込んでしまった――。どうですか、こんな解釈で?」
シマダはうなずいた。
「私もそう理解した。中森君には申し訳ないが、あの時の石垣君の目つきは追い詰められた犯罪者そのものだった」
「彼はなぜ、あなたが脅迫者だと思い込んだのでしょう?」
シマダはきっぱりと言った。
「私が地下の人工冬眠ポッドを管理していることを、どういうわけか知っていたからだ」
大西は首をかしげた。
「人工冬眠……? 何です、それ?」
「人工的に人体を冷却して生存期間を大幅に延長させる装置だ」
大西は驚きを隠せずにつぶやいた。
「それって、SF映画の宇宙船に出てくるような冬眠装置……なんですか?」
スタッフ全員の食い入るような視線を受け止めながら、シマダはうなずいた。
「ナカトミが本格的な宇宙開発に備えて開発してきた、生命維持システムの実用実験機だよ。私の娘も今までの一年半、その装置の中で眠り続けていた」
仁科がつぶやく。
「まさか……そんなものが……」
室井もうめいた。
「何だって、このスフィアに……?」
峰がシマダの娘を見つめる。
「今までずっと眠っていたんですって……? そんなことをして、身体に異常は起こさないの?」
娘は、まだ目を開けていた。心配そうにシマダを見上げている。
シマダの目にも、不安が渦巻いている。
「分からない。完成された技術とは言えからな……」
「そんな実験に娘さんを巻き込むなんて……」
「それでも、やるしかなかった……」
大西は、スタッフたちの驚愕を見渡してから言った。
「たまげたな……。でも、実験機とはいえ、そんなものが完成していたならどうしてナカトミは公表しなかったんです……? ここに集まった第一線の科学者たちさえ知らずにSFまがいの技術が開発されていたなんて、不自然すぎます」
シマダは答えた。
「『冬眠制御』の技術開発が進行していたこと自体は秘密でも何でもない。ナカトミがその最先端の成果を秘密にしてたのは、現時点で公表しても企業として得るものが少ないからにすぎない。この時代に人工冬眠を望むのは、不治の病に冒されて治療法の開発を待とうという者だけだろう。高価な実験機をそんな用途だけに使っていては、とうてい元が取れない。しかも安易に技術を公開すれば他社の追撃を招く。人工冬眠の価値が高まるのは、人類が大挙して宇宙に旅立つ時だ。たとえば火星までの飛行に要する時間は半年から一年。永住基地建設のために技術者や科学者を送り込むにしても、その間に必要な食料を積み込んだら桁外れに大型の宇宙船が必要になる。人工冬眠が可能になればその問題が一挙に解決される。広域宇宙開発には欠かせない技術なのだ。その時まで極秘に研究を続けていれば、ナカトミが蓄積した技術にはどんな対抗企業も及ばないことになるだろう。この実験は、宇宙開発の基礎を固めるためのMSPには最もふさわしい研究課題の一つだったのだ」
室井がつぶやく。
「しかし、君の娘さんは現実にその装置に入っていたのだろう? 人体実験を行なえるほど研究が進んでいたならノーベル賞だって確実なのに……」
「ノーベル賞などナカトミの眼中にはない。それよりも『人体実験を先走った』と非難されて研究が遅れることの方が、企業としての損失が大きい。むろん、被験者のは自ら志願した人物以外は採用していない。私の娘だけは例外だがな……」
大西が言った。
「あなたはナカトミと接近した当時から、その装置のことを知っていたんですか?」
シマダは小さく首を横に振った。
「いや、そうではない。ナカトミには私の方からコンタクトを取ったのだが、その時点ではこれほど優秀な技術が蓄積されていたことは知らなかった。私はBTIで培った全ての知識と技術をナカトミに提供する代償として、真に自由な研究環境を求めた。同時に、私はナカトミが現在持っている最先端の知識を提供させた。ギブ・アンド・テイクだよ。その際に『冷凍睡眠ポッド』がチンパンジーの実験で成功していることが分かった。冷凍後の蘇生率も九〇パーセントを越える好成績を記録していた。それこそが、サリーのために私が求めていた技術だった。そこでマイクロスフィアの建造と同時進行して、人体への応用機が試作されたのだ」
室井がうめいた。
「しかし、いったいどうやって人間を冬眠させるというのだ……? 危険性はないのか?」
シマダは言った。
「もちろん、娘を眠らせる前には最初の人体実験は終わっていた。ちなみに被験者はこの装置の開発者の一人で、無事に蘇生して今のところ後遺症もないという。しかし、自分の娘にも安全だという保証はなかった。リスクが高いと分かっていても、他の選択肢はなかったのだ」
仁科がシマダに挑みかかるように言った。
「具体的にはどんな技術を使っているんです? 冬眠といったって、ただ温度を下げればいいわけじゃない。人体は、体温が三〇度以下に落ちると自力での回復は望めなくなります。二〇度まで低下すると数時間で組織や器官が破壊さます。それが、どうして……?」
シマダは仁科を見た。
「この装置が用いている技術は、シマリスの冬眠での基礎研究から生み出された。通常の生物では、低温下では細胞にカルシウムイオンが蓄積して筋肉が収縮したままの状態になる。結果的に心臓が停止してしまうわけだ。だがシマリスに代表される『冬眠動物』では、冬眠の準備段階でカルシウムイオンの排出機能が強化されている。そしてこの機能強化は、肝臓で合成される新種の血中タンパク質の作用であることが判明した。これを我々はHPと呼んでいる。『冬眠特異的タンパク質』の略だ。このタンパク質は、チロキシンというホルモンによって脳に集められ、身体全体を冬眠状態に移行させる。冬眠から醒める際には、テストステロンというホルモンがHPを血液中に戻す。実は、このチロキシンとテストステロンは人間の体内にも存在する。人類の祖先は冬眠をしていて、その名残なのかもしれない。ナカトミは、このHPを人体に応用することで、人体を4度程度の低温中で生存し続けさせることを可能にした。冬眠によって、人体の代謝量は1000分の1にまで低下する。栄養摂取と排泄を機械でコントロールすることで、冬眠の期間は半永久的に延ばせる。しかも、冬眠中の人体は代謝の抑制によって寿命が大幅に延び、細菌や放射線などの有害物質に対する抵抗力も高まることが確かめられている。宇宙開発には最強の武器となる技術だ。それが事実であることは、地下の装置を実際に見ればすぐに分かる」
室井がつぶやいた。
「人工冬眠実験機、か……。そんなものがここの地下に隠されていたとはな……。では、君の娘の他にも、そこに隠れている者がいるのだね?」
シマダは室井に向かってうなずいた。
「他にも二十四体の成人が眠っている」
「なんだと⁉ そんなにたくさん……」
室井は言葉を続けられなかった。
シマダは言った。
「被験者のリスクをともなう人体実験を極秘に行なっていることが外部にもれれば、ナカトミは計り知れない打撃を受ける。だからこの件は私一人にしか知らされていなかった。私はナカトミから直接指示を受け――というより自らの申し出によって、人工冬眠ポッドの管理責任を引き受けた」
大西は首をひねった。
「なのに、石垣さんはその機密を知っていた……と?」
シマダの表情も曇った。
「それだけではない。彼は私に向かって『これ以上脅迫するなら、人工冬眠装置のプログラムを破壊する』とまで言ったのだ。彼がなぜ、誰から、それほど正確な知識を得たのか、私には見当もつかない」
考え込んでしまった大西に代わって、仁科がつぶやいた。
「その装置の中で眠っているのはいったい何者なんですか?」
「サリー以外の被験者の素性は、私も正確には教えられていない。ただ、ほとんどがエイズの末期患者だということは間違いない。四分の三以上が黒人だ」
峰がうなずいた。
「治療ワクチンが完成した時に人体実験を行なうつもりだったのね? なんてひどいことを……」
シマダは峰を見つめて首を横に振った。
「私がやろうとしていたことを『人体実験』と呼ぶなら、反感を感じることは理解できる。しかし彼らは、すでに死が避けられない末期患者だ。彼らにとっての希望は、MSPの他にはない。だから、自ら実験台なることを申し出た者しかここには収容していない。正式な文書での契約も交わしている。まだ人体実験を始めたわけではないが、決して野蛮な研究ではないことを分かっていただきたい。彼らの治療に成功すれば、地球上からエイズの脅威は消える。ナカトミにとっては、エイズワクチン開発と人工冬眠の実験を同時に行なえる格好の機会だったわけだ」
芦沢がサリーを見つめていた。
「では、娘さんもエイズに?」
シマダは床に視線を落とした。
「いや……サリーは別の病だ……」
サリーは眠そうな目で、まだシマダを見つめていた。苦しげにつぶやく。
「とうさん……」
シマダはただ娘の手を握りしめただけだった。娘の前で病名を口に出したがっていないことは明らかだった。
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