終末便座世界

ケモノイアクイ

終末便座世界



年末だし便座について語ろうかと思ったけどやめておく。




いや、やはりこれだけは語らせて欲しい。

12月31日23時03分、要するにもう5分ほど前の話だ。




2022年を目前に控え、コンビニのバイトを早めに切り上げて帰路を辿っていた私は、つい先ほど見知らぬ便座に殺されかけた。正確に言えば『見知らぬ便座の雨』に飲まれかけたわけだ。轟音と共に天を覆い尽くし、直ちにアスファルトを白に染め上げたあの雨に、便座の大群に潰されそうになった。




頭を両手で押さえ、猫背ダッシュで命からがらコンビニへと逃げ帰り、何とかこの災害を凌いだ……はずだったのだが、自動ドアが作動したせいで店内にまで便座の雪崩が押し寄せてくる始末だ。今はこうやって店内トイレの個室の中で、便座の降りしきる音や電線のはち切れる音を曇らせながら、モヤモヤと現実を疑いながらスマホを弄り回している。




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時刻は23時15分。音が消えた。

便座の雨に関して言及されているツイートは見当たりない。というか、便座の雨が振り始めた瞬間からTLの更新が一斉に止んでいる。家族や友人もメッセージに応答する者はいない。不思議なことにネット環境だけはそっくりそのまま無事なままだ。




外に出ることにした。




「……」




恐る恐る個室の鍵を開き、戸を押し、続けてトイレ入口の扉を、勢いよく内側へと引き込んだ。腰より少し下のあたりまで堆積した便座の大群が流れ込んでくる。芳香剤の香りを錯覚した。雪をかき分けるように、便座の海を突き進む。どれもこれもチョークのように白い。汚れは一つとして見当たらない。ガラガラと尊大な騒音だけが溢れる。




入り口へ近づくごとに水面は徐々にその高さを増す。海というよりスキー向けのなだらかなゲレンデに近い。やはり雪に例えるべきものなのかもしれない。便座は雪だ。


ホットスナックの保管設備が横倒しになっている。おでんコーナーに3、4枚の便座が伸し掛かっている。ゲレンデとレジカウンター表面の境界線はもはや皆無と言って差し支えなかった。不思議なことに店長も、彼女のいない先輩も見当たらない。既にその辺で圧死しているのだろうか。




「──とりま脱出しよ」




とりま脱出することにした。女子高生だてらに体力は無尽蔵なのだ。開きっぱなしの自動ドアの向こう側に高々と犇めいている便座の壁なんか、かき分けていけばすぐに無くなるはずだ。水泳の授業のようにゆっくりと、しかし全力でドア付近まで移動し、胸から下を便座に埋ずめたまま、店外から店内へと冷たい便座共を引きずり込んだ。




3、4回ほど大振りに掻き込んだあたりで夜の光に絆された。蛍光灯の熱だ。今だけは便座に埋もれたおでんよりも温かい。交通インフラは全滅しているだろうが、電気関係はバリバリ現役らしい。しかしながら便座の雨に耐えきれず千切れた電線もあることだろう。




迂闊に手を伸ばして感電死はゴメンだ。慎重に便座を掻き分け続ける。掻き分けながら足の位置を徐々に高いところまで持っていく。その足で踏ん張りながら、体全体を勢いよく押し上げる。いくら堆積しようとも所詮は便座だ。隙間ばかりできるから空気の層はいくらでもできる。窒息死はしない。おまけにとてつもなく軽いから、案外簡単に脱出することも、できる。できた。脱出できた。とりま脱出作戦は成功した。まだ腰から下は便座の波に揉まれているが、自力で抜け出せる。抜け出せた。女子高生の生足がようやく便座の水面を踏みしめた。




仁王立つ。世界は呆気なくも美しく、便座に埋め尽くされていた。この分だと家族が生きているのかどうかさえ怪しい。潔く冒険するに限る。がしゃりがしゃりと歩みを進め、顔と同じ高さにまで縮みきってしまった外灯を、一つ一つ素手で擦りながら、とりあえずは一番最初に見据えた方向へと前進した。





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ああ、渋谷か。




ここは渋谷なのか。




画面越しに見慣れた町並みが背の高さを少し変え、似合いもしない月光に睨まれながら、広告表示用の大きなディスプレイを輝かせている。腹は減ってきたし指先は冷えっぱなしで、ここから先、元スクランブル交差点へ続く道には変な傾斜ができている。自転車で駆け上がるには少し億劫な程に傾いた、坂道。俄然登りたくなる類の影。消えかけの飛行機雲。便座の音。




駆け出した。




夜の渋谷を埋葬した便座の古墳を、70億人の種族最後の生き残りが、ひた走る。転びそうになりながらも、便座の一つ一つを踏みしめ、膝裏の筋肉をギシリギシリと、着実に収縮させ、やがて山頂へ到達する。




あの巨大なディスプレイすら便座の下に隠れていた。眺め下ろせるビルの上には、皆等しくこんもりと、便座の小山が降り積もっている。僅かに漏れた光が便座共の中で乱反射して、ぼんやりと、ほんの少しだけ、ディスプレイ直上の傾斜は明るくなっていた。




突如、LEDとは全く異なる光が、遥か背後の彼方に揺らいだ。




振り返る。

足りないのは車の通行音と、便座に埋もれていないアスファルト。行き交う社畜、学徒、ホームレス。私以外の70億人。




2022年1月1日。




日の出だ。




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あの後1つだけ、1つだけではあったが、完璧な形のまま転がっていた“便器”を見つけたことがある。何故そこに転がっていたのかは知らないし、何なら場所だって覚えていない。便座まみれのこの世界に、道を示す表示は少ない。




数え間違いが発生していなければの話だが、もう、あの日の出を収めてから4年と9ヶ月が経っている。終末便座世界での生活も、慣れてしまえばそこまで苦ではない。諸々の説明は省くが食糧問題には困っていないし、不思議なことに電気水道ガス、あとネット環境は健在そのものだ。いくらでも引っ張り出せる。誰一人として呟かないツイッターも開ける。今日は新しくビルの中に作った畑を、うまい具合に調整しなければならない。肥料を溜め込んでおいたビルまでざっと20km。まずは日の出と同時にアレを回収しにいかなければ。







便座の雨は、決まって大晦日の夜に降りしきる。最初の雨から実に4回の便座シャワーを経験してきた。もうあの完全な便器も遥か下、便座の地層の深くに埋もれてしまっているかもしれない。何にせよ私には関係のない話だ。今は肥料を探そう。








9月の風。便座を揺らす隙間風の音が、真っ白な東京のゲレンデに響き渡る。大晦日の蕎麦の匂いは二度と帰ってこない。除夜の鐘が響くこともない。年越しジャンプをしようものなら便座の雨までついて回ってくる。




それでも私は、昔からこよなく愛してきたこの香りに、メーカーも知らない芳香剤の安っぽい香りに、時折眠気を誘われてしまうのだった。




──Fin──

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