タイムマシンと円周率

王子

タイムマシンと円周率

「昨日、夢を見たんだ」

 二人分のアイスコーヒーを挟んで向かい側に座るそいつ、柊十度(ひいらぎ とたび)が言った。平日のカフェはひどく空いていて、俺ら以外の話し声は聞こえない。

 思わず「ちょっと待て」と制止の言葉を発する。

「俺たち今日、数年ぶりに会ったんだよな?」

「そうだね。高校卒業して以来だから、十年は経ってる事になる」 

 さも当然であるかのようにそう答える様に、ほんの少し腹が立つ。

 こいつは昔からこうだった。マイペースで、空気を読まない発言をしては俺のことを苛立たせる。数少ない友人の一人ではあったが、現に、十年間全く連絡を取らずとも不便を感じることは一度もなかった。

「僕はさ、高い山の頂上にいたんだ」

 数秒の後、それが夢の話であることに気が付く。

「待てよ、おかしいだろ。お前は今日、夢の話をする為に俺を呼んだのか」

 十度が歯を見せて笑う。

「確かにさ、他人の夢の話って、この世で一番つまらないよね。ラジオで夢の話をする芸能人とかってさ、どうしてしらけてる事に気がつかないんだろうね」

「じゃあ、俺をしらけさせる為にここに呼びつけたんだな」

 無意識に語気が強くなる。しかし、十度は依然そのヘラヘラとした表情を崩さなかった。

「綾ちゃんなら聞いてくれると思ったんだよ」

 十度には昔から男友達をちゃん付けで呼ぶ癖がある。羽海野綾(うみの りょう)と言う俺の本名から、気まぐれに「うみちゃん」と呼ばれることもあった。こいつはその女々しい喋りかたも相まって、あらぬ勘違いをした奴らからよくからかわれていたのを覚えている。

 俺は諦めて十度の話を聞こうと決心した。あくまでも快く受け入れるのではないという風に「話せ」と促す。

「僕は高い山の頂上にいた。その山は剥き出しになった岩肌がひどくゴツゴツしていて、雪は積もってなかった。あれは多分、日本の山じゃない。僕は夢の中で、どこか、ずっと遠い所にいたんだ」

「それで?」

 十度は、いつの間にか視線を机に落としていた。そうやって俯いたまま話を続ける。

「それで、僕は、自分はとんでもなく高い場所にいると思ったんだ。エベレストか、オリンポス山のような。それなのに、雲が僕の頭上にあった。おまけに、一匹の猫が通り過ぎた」

 掴み所のない話だった。俺が口を挟む間も無く十度が言う。

「乱層雲どころか、層雲さえも僕より上にあったんだ。そもそも、そんなに高い場所だったら野良猫が登ってこられるはずがない。おかしいと思って周りを見渡したら、自分が立ってる場所とは比べ物にならないほど高い、それこそ雲を突き抜ける断崖絶壁が、僕の背後にあった」

 十度が視線をあげる。俺と目があった。

「そこで目が覚めたんだ」

 てっきり、まだ続きがあるものかと思っていた。俺はため息をつく。

「そんな話をする為に、俺をここに呼んだんだな」

「こんな話は、綾ちゃんにしかできないから」

 もう一度、先ほどよりもわざと大きくため息をついた。

「綾ちゃんは今、何をしてるんだっけ」

「もう、帰って良いか?」

 俺の苛立ちは殆ど最高潮に達していた。そもそも、なんでこんな奴の誘いに乗ってしまったのか、今となっては分からない。

 しかし、そんな苛立ちも十度の次の一言にかき消された。

「タイムマシンが完成したんだ」

「……は?」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。脳味噌が軽いバグを起こしたのだ。

「あれ、言ってなかったっけ」

 十度のその発言が、俺の高校時代の記憶を徐々に呼び起こした。

 数十年前には不可能だと言われていた時間遡行が最近になって現実味を帯びてきていた。そして高校時代の十度は、自分は必ずその研究チームの一員になるのだと毎日のように俺に聞かせていた。こいつは、俺の知らない十年の間に、その夢を実現させたんだ。

 しかし「完成した」と言うのが本当ならば、とんでもない話になる。比喩ではなく、歴史が変わるのだ。

「それ、俺に言って良いのか?」

「うん」

「うん、じゃないだろ。俺はこのままマスコミに駆け込むかも知れないし、色んな奴に言いふらすかも知れない。タイムマシンの研究に興味がないやつは居ない。正式な発表より前に俺にバラしたってバレたら、お前」

「本当にいいんだ。今日のことは、研究室のみんなも公認だから」

 十度がなにを言っているのか全く分からなかった。俺は混乱していた。

「本当に、完成したのか」

「うん」

 他に聞くべきことはいくらでもあるはずなのに、なにも言葉にならなかった。ただ、今ここにいる柊十度は、高校時代のあいつと全くの別人になっている、それだけは分かった。

「じゃあ、どうして、それを俺に」

 何とかその問いを絞り出すように口にすると、十度は落ち着いた口調で話し始めた。

「タイムマシンが完成したら、まず何をする?」

「何って、そりゃあ、過去にいくだろ」

「正解。歴史の不透明な部分も分かるし、未解決事件の犯人なんかもわかる。タイムマシンってのはそう言うものだもんね」

 コーヒーのグラスがすっかり汗をかいている。十度が一口啜った。

 俺は未だに混乱していた。

「でもさ、綾ちゃん」 

 真っ直ぐに俺のことを見つめる十度の目が、俺の向こう側を透かして見ているような気がした。

「タイムマシンは、僕らの研究が世界で初めてなんだ」

「ああ」

「計算に計算を重ねた。思考実験だって頭が爆発しそうなくらい繰り返した。それでも、時間を巻き戻すのと進めるのとでは全く勝手が違う。時間遡行を行った人間がまた同じ時間に戻って来られる可能性は限りなく低いんだ」

 不思議なことに、十度のその言葉はすんなりと俺の中に入ってきた。拒否反応も起こさなかった。一を聞いて十を知るとはこのことだ。十度の言いたいことを、全て理解した。

「つまり、お前がその時間遡行の第一号になるんだな」

「さすが」

顔をくしゃっとさせて笑う十度には一点の曇りもなかった。

「一人だけ、お別れを言うためにこのことを明かしても良いよって言われたんだ」

「ちょっと待て」

 俺は机に身を乗り出す。

「そんなことがどうして許されるんだ。倫理的に問題がありすぎる。せめて、マウスか何かで実験をするべきだ」

「マウスがタイムマシンの操縦なんてできるわけないでしょ」

「じゃあ、人工知能で試せばいい」

「タイムマシンはまだ開発されたばかりで不確定要素が多すぎる。何年遡るかもわからないのに、最新技術が搭載された人工知能を乗せる方が問題だよ。バタフライ効果がどれほどのものか、今の僕らには計り知れないんだ」

「それなら尚更、もう少し待つべきだ。今すぐ過去に行かなきゃいけない理由なんてないだろ。安全性が確立されてからにすればいい。それとも十度、誰かに脅されてるのか?」

 十度は俺から目を逸らさない。

「今すぐに過去に行く必要は、大いにある。これは研究チームの全員で話し合って出した結論だよ。僕が過去に行くって言うのも、チーム全員、もちろん僕自身も納得してる」

 いつの間にか、前のめりに倒れそうなほど十度の方に顔を寄せていた。俺は慌てて座席に座り直す。十度が続けて口を開いた。

「飛行機がない時代に、ハイジャック防止法なんてものはなかった」

 先程同様に、俺はその一言で十度の言いたいことを理解できた。脳内に十度の思考が流れ込んでくるような感覚だった。

「タイムマシンが正式に発表されて、飛行機のようにありふれた存在になる日が来たら、必ずそれを規制する法律ができる。つまりお前は、それより先に過去に行きたいわけだ」

「そう言うこと。やっぱり綾ちゃんに話して正解だったよ」

「でもそこまでして、お前は過去の何を見たいんだ。」

 十度が返事に詰まった。言葉を選んでいるようだったが、すぐに「それは企業秘密かな」と無邪気に笑いながら言った。何かを誤魔化されたような気がした。

 俺はまた、深いため息をついてしまった。無意識だ。

「どうして俺なんだ」

「え?」

「お前さっき、お別れができるのは一人って言ってただろ。家族じゃなくて良かったのか」

「うん。僕は綾ちゃんに話すべきだと思った」

「でも、高校卒業してから一回も連絡なんか取ってないのに」

「それより綾ちゃん、数学者にはなれた?」

 話を遮られた。多分、これ以上触れてほしくないのだろう。十度が変な所で強情なのは昔からだ。これ以上何を言っても無駄なのは明白だった。

 俺は自分を落ち着かせるように、一つ、大きく息を吸った。

「覚えてたんだな」

「当然だよ。僕の友達でそんなにかっこいい夢を持っているのは綾ちゃんだけだった。エヴァリスト・ガロアに憧れているって言ってたよね。僕はずっと、綾ちゃんが決闘に敗れて死ぬ日を楽しみに待ってた」

「決闘で死ぬ前に『時間がない!』って叫ばなきゃ、ガロアにはなれないな」

 十度が声を上げて笑う。そんなにおかしかっただろうか。

 俺は今一度問うた。

「確かに、今後タイムマシンに関する法律ができるのは必須だ。でも、お前が犠牲になる必要はないと思う」

「でも、僕が歴史に名を残す方法は、多分これしかない」 

 十度の声はよく通る。その言葉は俺の体内に反響した。

「かっこいいな。お前」

「ありがと」 

 何だか、無駄に気を張り詰めていた俺が馬鹿みたいだった。十度は今日、最後の話相手として俺を選んだ。でもきっと、十度自身はそれに重大な意味を見出してはいない。物分かりが良くて会話にストレスがない。そう言う人間を選んだだけなのだろう。

「俺は数学者にはなれないよ。世の中、優秀な人間が多すぎる。それに数学者になれていたら、何かのメディアで既にお前が目にしてるはずだ」

「でも僕は、数学の歴史を変えるのは綾ちゃんだと思うよ」

「数学が好きなだけじゃ、数学者にはなれない」

「でも、数学者は須く数学が好きなはずだよね」

 俺は小さく「そうかもな」と返した。十度が少し俺から遠ざかったような気がした。ここにいる柊十度は、高校時代の彼とは全くの別人なのだろう。

 何だか居心地が悪くて、思いついたままのことを口にした。

「要は、歴史ってのは偉い人のものだ。偉い人が57を素数だと言えば、その通りになる」

 十度が目を丸くして首を傾げた。

「57って、素数じゃないの?」  

「お前、グロタンディークだったのか」

 ガロアのことは知っているのに、グロタンディークは知らないのか。

「ああ、3で割れるね」

「じゃあ、91は?」

「えっと、素数」

「やっぱりグロタンディークだ」 

 十度は訳がわからないようで、視線を左右にキョロキョロと泳がせる。そしてまた気がついたように「あ、13で割れる」と口にした。

 何となく、「楽しい」と思った。うまく形容できないが、今こうして十度と会話をするのは悪くない。

「あ、ごめん。僕、そろそろ行かなきゃ」

「そうなのか」

「うん。まだやることが莫大に残ってるからね」

 そう言うと、卓上のグラスを手に持って殆ど減っていないアイスコーヒーを一口に飲み干した。その様がなぜかおかしくて、俺は笑った。

 理解が追いつかなくて一瞬キョトンとした表情を見せた十度も、一緒に笑った。

「今日はわざわざありがと。元気でね、綾ちゃん」

「十度も」 

 そこまで言って、言葉に詰まってしまった。何と言えばいいか分からなかった。

 十度は俺の言葉を待たずに座席を離れた。あいつなりの気遣いだったのかも知れない。

 店を出た十度は、大きな窓ガラス越しに俺に手を振った。その際に口元も動いていたが、当然、何を言っているかは分からなかった。

 数週間後、大量のマスコミでごった返す中、タイムマシンの完成は正式に発表された。

 この映像は未来永劫、歴史に残る。どのアナウンサーも口を揃えてそう言った。

 何人かの賢そうな人間が並ぶその映像に、柊十度の姿はなかった。

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