紡生 奏音

 ボクは、本。

 ある冬の日にうまれた、本。

 ボクは雪みたいに真っ白な身体・・をしているんだ。

 でもね、ボクの中身は反対に真っ黒。

 だから、皆に嫌われていたんだ。


    *


 ボクを書いてくれたのは、どこにでもいるような「おじさん」だった。

 よく分からないけれど、「おじさん」は色んな経験をしたらしい。――いじめとか、大切な人たちの裏切りや死を経験して来たみたい。

 でも、ボクは、「おじさん」がちゃんと幸せだったことを知っている。……本当、最期まで幸福しあわせそうだった。

 そんな「おじさん」がボクを書いたきっかけは――「おじさん」の肺にガンが見つかったから。「おじさん」は自分の辛い経験を誰か――特に子供たちに知ってほしかったみたい。

 「おじさん」のそんなおもいを託されたのが、ボクと兄弟・姉妹きょうだいの「本」。

 「おじさん」は有名人でも何でもない普通の人だったから、自分でお金を出して、ボクたち「本」を作った。

 けれど、「おじさん」にはあまりお金がなかったみたいで、うまれたのはたったの百冊。それに、「おじさん」は、ボクたちがほとんど売れないかもしれないことを分かっていたみたいだった。

 「おじさん」は、ボクたちの半分を本屋に何とか出してもらい、残りの半分をできるだけ多くの図書館に寄贈した。その半分に、ボクも入っていたんだ。

 「おじさん」がボクたちきょうだいを書いてくれた日も、本屋や図書館に置いてもらうよう頼んだ日も、冷たい雪の降る冬の日だった。――いつだってそうだった。

 「おじさん」はいつだって、真剣に、必死で、「走って」いた。決して、良くはない身体で雪の中を……。

 もしかすると、それが悪い意味でこたえた・・・・のかもしれない。「おじさん」は何とかボクたちを無事に送り出した一週間後に亡くなってしまった。

 でも、風の噂じゃ、「おじさん」はボクたちを書けて満足していたそうだし、最期も奥さんと娘さんに看取られて幸せそうな表情かおをしていたんだって。良かったぁ。


 ――そして、今。


 ボクは、表紙にバーコードを貼られて、ある小さな図書館に置かれている。

 置かれた場所は小さくて狭い本棚の片隅。「おじさん」の希望にそってか、子供たちのための児童書コーナーに置かれている。


 ここに来た時、ボクはこんなことを図書館の館長に言われてしまった。

「……誰にも読まれままで、もしかしたらこのまま捨てるかもな」

 それは、最後までボク――「本」の中身を目に通した後、言われてしまった厳しい意見だった。

 読み終わった後の館長の表情は、内容を受けてとても暗いものになっていた。……その表情かおだけで、ボクは痛いほど、館長の言葉と気持ちを理解することができた。

 ――だけど。

 ボクは……。ボクは、「おじさん」のおもいを誰かひとりにでも伝えたかった。ボクは――ボクたちは、そのためにうまれてきたのだから。

「まぁ、とりあえず置いてみるか」

 でも、館長は少し経って、そう言ってくれた。

 ボクの気持ちが、「おじさん」のおもいが、伝わったんだろうか?

 どっちにしても、館長がそう言ってくれただけで、役目を果たせる可能性をもらっただけで、ボクは嬉しかった。


 ……けれど、現実はかなり厳しかった。

 もうここに置かれて、三か月くらいになるけど、読まれたことは一度もない。

 ボクの白い背中が目につくのか、時々、小さな子供がボクを親の元へもって行くことは何度かあった。

「これよんでー」

 子供がそう言って差し出したボクを、親が手に取り、少しだけ目を通す。――その時決まって、どの親も青ざめて、ボクを元の本棚に戻しながら、こう言うんだ。

「……この本はやめておきなさい」

 その繰り返しばかりで、少し目を通されることがあっても、最後まで読まれることはなかったんた。

 ボクはそれでも、諦めなかった。きっと、誰かがボクを読んでくれる。そう、信じ切っていた。

 けれど、時間が経つにつれ、ボクの気持ちを次第に変えていった。

 それから――――。


 一か月、その時ボクは信じていた。

 三か月、少し、不安に思えてきた。

 五か月、他の本が羨ましく思えた。

 七か月、焦ってきた。

 九か月、手に取られることも少なくなった。

 十一か月、……なぜか嫌な予感がした。


 ――そして……。

「もう、駄目だな」

 一年以上経った頃、ボクは本棚から出されて、館長にそう言われてしまった。……仕方がない。ボクは希望もなくし、諦めた気持ちでそう思った。 

「……残念ですね」

 誰かがそっと呟く。

 その時、ボクはほんの少しだけ、希望を取り戻した。でも、館長にああ言われてしまってはもう遅い。結局、最後まで読まれることはなかったけれど、手に取られただけで幸せなことだったかもしれない。ボクみたいな「本」に限らず、他の本だってあまり読まれていなかった本はたくさんあったのだから。

「そうだな、書いた人のことを考えると同感だ。 だけど、一回も貸出されてないし、書庫に入れても出すことも難しいだろうから……。 次の点検まで置いて、どうするか決めておくよ」

 館長はそう話して、またボクを本棚に戻した。

 ボクは何だか寂しく、悔しい気持ちになりながら、またしばらく本棚の隅で過ごすことになった。


 そして、春になって、ボクは年に一度の図書館の点検で、他の本と一緒に本棚を出た。

 結局、ボクは「リサイクル」に出されることになった。引き取ってくれるところが見つかるまでは、図書館の片隅に置いておくということらしい。

 ボクは貼られたバーコードの上に「リサイクル本」というハンコを押され、図書館名を全部塗り潰された。

 ……これで、ボクは図書館の本じゃなくなった。そう思うと、ボクはやっぱり悔しくて、泣きそう・・・・になりながら、他のリサイクル本と作業台に、表紙と裏返しにされて放置されていた。

 このままどこにもいけなかったら、ボクは「おじさん」のおもいを伝えられない。そうしたら、ボクは何のためにうまれてきたんだろう?

 絶望に浸っている内に、いつの間にか日が暮れていた。館長や図書館の人達は点検を終え、本棚に戻された本はないかと、あちこちを歩き回っていた。

 その時。

「あれ、こんなとこに……」

 若いアルバイトの人が、ボクと他の本を見つけて、持ち上げた。「リサイクル」の作業をしていなかったようで、ボク達が「リサイクル本」だと知らないその人は、消しもはがされもしていなかった背中のラベルだけを見て、ボク達を本棚に戻していった。

 その人が間違えてしまったことを、他の人達は気付いてすらいなかった。運良く本棚に戻れたことを、ボク達「リサイクル本」はかなり喜んだ。

 ボクも少しだけ、希望を取り戻した。

 もしかしたら、誰かに読んでもらえるかもしれない。そう思って、ボクはまた長い時間を過ごした。


 ……でも、実際は前と同じことの繰り返しだった。読まれることはもちろん、手に取られることすらなくなっていた。

 春になれば、また点検の時期がやって来る。その時には今度こそ、片隅で読まれることもなく、忘れられてしまうかもしれない。

 ボクはまた絶望に陥った。

 やっぱり、駄目、かもしれない。そう思って、また泣きそう・・・・になった時だった。

「よいしょ」

 小さな手がボクの背中に触れた。そのまま本棚から取り出される。

 それは小さな女の子だった。真っ黒な長い髪、丸々とした顔、くりくりとした大きな瞳。とても可愛らしかったが、どこか大人びた表情を、女の子は持っていた。

 女の子はボクを開き、最初から丁寧に読み始める。……あれ、この子、親御さんはどうしたんだろう? いつもなら――――。

 誰の許しを請わず、そのままボクを読み始めた女の子の行動を不思議に思った時、「何か」がボクにぽとりと落ちて来たことに気付いた。

「……あ」

 女の子が呟く。ボクは女の子をふと見上げた・・・・

 ――えっ?

 女の子の両頬に涙が伝っていることに、ボクは気が付いた。さっきの「あれ」は女の子の涙だったのか。

 人目を気にしているのか、女の子は周りを見回した後、自分の顔をごじごしと拭い始めた。

 涙を拭き終え、ボクを閉じると、女の子はカウンターへ駆け出した。そして、背伸びをして、ボクと図書館のカードをカウンターにのせる。

「これ、おねがいします」

 女の子の行動に驚き、ボクが図書館の本であればここで貸出されていたであろうという事実を嬉しく思いながら、ボクは図書館の人の反応をどきどきしながら待った。

 そう、ボクはもう、図書館の本じゃ、ないんだ。本当なら、もう捨てられていたかもしれない、「リサイクル本」なんだ。

 図書館の人はボクを見て、眉をひそめている。その人はボクの表紙を見ると、バーコードに押された「リサイクル本」のハンコを確認した。

 ……あぁ、もう駄目だ。そう思っているボクをよそに、図書館の人は身を乗り出し、女の子を見て尋ねる。

「ねぇ、これ、どこにあったの?」

 どうしてそんなことを聞くのか、不思議そうに首を傾げながら、女の子はさっきまでいた本棚の方を指さす。

「あっちのたなだよ?」

 図書館の人が納得したというようにうなずく。そして、ボクの「リサイクル本」のハンコを女の子に見せながら、こう言った。

「あのね、この本はもう図書館の本じゃないんだ。 ほら、ここに『リサイクル』って書いてあるでしょ? だから、貸出はできないんだ、ごめんね」

 その言葉を聞いて、女の子はがっかりしたように下を向く。

「でもね――」

 図書館の人が続ける。

「この本、他のと紛れ込んじゃったみたいだけど……。 もし、私達の手元にあったら、今頃どうなってたか分からないんだよね。 ちょうど誰かにあげようと思っていたところだし、今ここで引き取ってもらっても同じことだと思うんだよね。 あ、ちょっと分かりにくかったかな? とにかく、あなたがそうしたいなら、この本を渡せるかもしれないってことなんだけど、……どうかな?」

 ボクは驚いた。本当に、そんなことができるんだろうか? でも、そうしてもらった方が、ボクは嬉しい。純粋に、そう思った。

 女の子は嬉しそうに笑った。そして、大きくうなずくと頭を下げて、こう言った。

「おねがいしますっ!」

 図書館の人もうなずいて、ボクを持ったまま、カウンターの後ろの事務室に入る。そして、内線の電話で館長を呼び、事情を説明した。館長はすぐにやって来て、その人からボクを受け取るとカウンターに出て行った。

 女の子は、カウンターの近くに座って、女の子は待っていた。

「君かな? この本を欲しいって言ったのは?」

 女の子の目の前にしゃがんで、館長がそう言った。何も言わず、女の子はうなずいた。

「お父さんかお母さんは?」

 館長が辺りを見回して、そう女の子に聞いた。女の子が一人でいることを疑問に思ったんだろう、怪訝そうな表情かおをしている。

 女の子はうつむくと、首を横に振った。いない、という意味みたいだ。

 少しの間、館長は考え事をしているみたいだった。

「本当は、君のお父さんお母さんに聞かずに、私の判断でこんなこと、してもいいのか分からないんだけど……。 君はこの本を大事にできるかな? できるって約束してくれるなら、この本を君にお願いしたいと思うんだ」

 決心がついたんだろう。少ししてから、館長がボクを女の子に差し出しながら、そう言った。

 女の子は館長とボクを交互に見た。そして、しばらくして、大きくうなずいて、にっこりと微笑んだ。

「うん、約束する!」

 そう勢いよく言うと、女の子はボクを館長から受け取った。

 ……心なしか、館長が嬉しそうな顔をしているように、ボクは思えた。

「絶対、だからね? お願いだから、捨てちゃだめだからね?」

 そう言って、館長が女の子の頭を優しく撫でる。

 女の子はくすくすと笑うと、ボクを胸に抱いて、頭をもう一度下げた。

「ありがとうございますっ!」

 そして、すぐに頭を上げると、出入り口に駆け出す。そのまま帰りかけたが、女の子は館長の方を振り返ると、大きく手を振った。

「さようなら、ありがとう!」

 館長が微笑みながら、手を振り返した。それを確認した後、女の子は図書館を後にした。


 図書館の玄関を出た後、女の子は楽しそうな足取りで、そのまま道を歩いて行った。

 ……ずっと気になっていたけど、本当に、この女の子は他の子みたいに、親御さん――お父さんやお母さんと一緒に来ていないみたいだった。最初は、外でどっちかが女の子を待っていると思ったんだけど、そうでもないみたいだ。現に、この女の子はたった一人で道を歩いている。

 しばらくして、女の子は当然のように、山道に入っていった。

 うわっ、こんなとこ、一人で来て大丈夫なのかな? 心配になっていたが、ボクは奥の方に大きな家があるのを見つけた。どうやら、それが女の子の家みたいだ。

 その家には十分ほどで到着した。

「ただいまー」

 元気よく叫んで、女の子は家の中に入った。

「あら、おかえり。 今日はどこに行って来たの?」

 中から、優しそうなおばあさんが出て来た。ちょっと女の子に似ている。この子のおばあちゃんみたいだ。

「図書館に行って来たのー。 この本ね、リサイクルだったんだけど、もらってくれるとこがないみたいで、優しい館長さんがくれたんだー」

「あら、良かったわね。 ちょっと見せて」

 女の子の嬉しそうな様子を見て、おばあさんも嬉しそうに微笑んだ。

 玄関に座ると、女の子はおばあさんにボクを渡した。

 おばあさんがその場に座り込んで、ボクを開く。そして、ちょっとだけ目を通した。すると――――。

 ぽつり。

 驚いたことに、おばあさんも女の子と同じように、ボクを読んで涙を落とした。

「これ……いい本ねえ」

 靴を脱ぎ終え、玄関に上がった女の子がうなずく。

「そうでしょー、今から読むんだー」

 おばあさんが立ち上がり、ボクを女の子に返すと、奥へと向かった。

「おやつ、あるわよ。 手洗って、お父さんとお母さんにあいさつ・・・・してから、台所にいらっしゃい」

 女の子が元気よく「はーい」と返事をして、ボクを階段に置いた。きっと、手を洗いに洗面所へ行ったんだろう。

 少し経って、女の子は戻ってきた。ボクをまた持ち上げて、そのまま階段を上がる。そして、二階の階段近くの部屋に、女の子は入っていった。

 そこは小さな和室。その部屋に置いてあったのは――――。

 ……ボクは驚いた。そこには仏壇が置かれていたんだ。

 天井近くの壁に立てかけられているたくさんの写真の中に、二つだけ、若い人の写真が混ざっていた。その写真と同じものが仏壇に置かれている。

 ――女の子のお父さんとお母さんだ。

 女の子は仏壇の前に座り、手を合わせると、笑顔で仏壇――写真に向かって話し始めた。

「お父さん、お母さん、ただいま。 今日もね、いっぱい楽しいことあったんだよ。 だから、私のことは心配しなくていいから、ね。 おばあちゃんもいるし、さみしくないよ。 あ、そうそう。 この本、図書館でもらったの。 見て」

 そして、ボクを仏壇の方へ向ける。その時、ボクは写真をはっきりと見た。

 ……二人とも、女の子によく似ている。女の子の丸い顔はお父さん、大きな瞳はお母さん譲りのようだ。女の子が大人びていたのは、親を早くに亡くしてしまったせいかもしれない。

 何だかボクは苦しくなって、思わず泣きそう・・・・になった時、女の子がボクを引っ込め、胸に抱いた。

「じゃあ、またね。 ……さてと、おやつ食べて、早く続き、読もうっと」

 女の子は立ち上がると部屋を出て、すぐに隣の部屋に入る。

 そこが女の子の部屋みたいだった。ベッド、勉強机、いっぱいの本棚、大きなぬいぐるみしか置かれていない、少し寂しい部屋だった。奥の窓の縁には、まだ小さい女の子がお父さん、お母さんと手を繋いでいる写真が飾ってある。

 ボクを机の上に置くと、女の子はそのまま部屋を出て行った。

 女の子のいない間、ボクは考え事を始める。

 どうして、女の子は(おばあさんも)ボクを読んで泣いてくれたのだろうか。それはボクを――「おじさん」のおもいを理解してくれた、ということなんだろうか。もし、そうだとしたら、女の子がお父さんとお母さんを亡くしていることと関係があったりするのだろうか。

 答えを見つける前に、女の子が部屋に戻って来た。部屋に入るなり、女の子は勉強机に着いてボクを読み始める。

 ぽつり。

 女の子はまた涙を落した。それでも、女の子は涙を拭いながら、ボクを読み続ける。

 最初ボクは、涙が落ちて来ることに慣れることができなかった。時には不快さえ感じていたが、女の子がどんどん先へと読み進めていくにつれ、その不快が喜びに変わっていくのを、ボクははっきりと感じた。

 さっきも考えたように、女の子が「おじさん」のおもいを理解しているのかどうか、判断ができなかった。

 でも、その涙で、ボクは確信した。女の子の涙は……「本物」だ。女の子は心の底から涙を流してくれている。

 ――だって、この子の涙はとてもあたたかいから。

 「おじさん」のおもいを受け止めてくれるひとを、やっと見つけた。

 そう思うと、ボクはとっても嬉しかったんだ。


 女の子はそれから毎日のようにボクを読んで、涙を流してくれるようになった。

 時々、おばあさんも女の子のいない間にボクを読んで、泣いていた。女の子にはかなわなかったけど、おばあさんの涙もあたたかった。

 二人も「おじさん」のおもいを理解してくれる人がいる。ボクはそのことをとっても喜んだ。

 女の子は年を重ねても、ボクを毎日読んでくれた。

 落ちる涙の大きさで、ボクは女の子の成長をしっかりと身に感じていた。

 ……けれど。

 女の子が小学生の高学年になって少し後、ボクは読まれなくなってしまい、本棚に入れられてしまった。当然、ボクは不安に駆られた。このままだと捨てられてしまうんじゃないだろうか、と。

 でも、女の子はボクを忘れないでいてくれた。一か月ほど経った頃、ボクを本棚から取り出して、また読んで泣いてくれた。

 本棚に戻されて時間が経っても、時々思い出したかのように、女の子はボクを出して読んでくれるのだった。

 それが分かって、ボクはそれきり、捨てられるという不安を抱かなくなった。

 どんなに女の子が大きくなっても、それは変わらなかった。中学生、高校生、大学生になっても、成人を果たした時も、ずっとだ。

 大学に入った時、女の子はおばあさんのうちを出て引っ越しをしたが、ボクを忘れずに連れて行ってくれた。

 ボクはそれがとっても嬉しかった。


 女の子が学生生活を終え、仕事をして何年か経った頃。

 同じ会社の人と、女の子は結婚をした。それでも、女の子はぼくを忘れずに読んで、泣いてくれていた。

 そのことを不思議に思ったのか、その男の人――ダンナさんが時々ボクを読んだ。女の子と違って、ダンナさんは涙を流さなかった。それどころか、読み終えた後にいつも、不思議そうに首を傾げていた。

 そんな日々が続いたが、ある日少しだけ状況が変わった。

 女の子が毎日のように、病院へ通うようになったのだ。いつもより長い時間があいて、さすがにボクは少しだけ、不安になった。

 半年くらいして、女の子が帰ってきた。

 驚いたことに、女の子の腕には赤ちゃんが抱かれていたんだ! その赤ちゃんはとってもかわいかった。女の子とダンナさんによく似ている。

 赤ちゃんを育てるため、女の子は仕事を休んだ。もう少し、赤ちゃんが大きくなるまで、ずっと家でいるみたい。

 時々、女の子は涙ぐみながら、赤ちゃんにボクを読んで聞かせていた。

 赤ちゃんはまだ意味が分からないせいか、ボクを読んでもらった時はいつも嬉しそうにしていた。

 そして。赤ちゃんが大きくなり、ボクを見つけた時と、同じ年齢になった時。

 ボクは――――。


    *


 ボクは、本。

 見た目は真っ白だけど、中身は真っ黒な本。

 だけど、ボクはある時、女の子と出逢った。

 その女の子はボクと、ボクを書いてくれた「おじさん」のおもいを理解してくれた。いつもボクを読んで、流してくれたあたたかい涙がその証拠だ。

 女の子は成長しても、ボクを大切にしてくれた。忘れないで、時々読んでくれた。

 それは女の子が「お母さん」になった今も変わらない。

 昔のように、頻繁に読んでくれることはなくなったが、女の子はボクを新しい「理解者」にしっかりと受け継がせてくれた。

 それは女の子の子供。

 「お母さん」に似ているその子は大きくなった時、女の子と全く同じように、ボクを読んで、あたたかい涙を流してくれた。

 ボクは幸せだった。

 数は少ないけれど、ボクを理解してくれるひとたちに出逢えたのだから。

 女の子の子供に読まれた時、ボクはある決心をした。

 きっと、この子もまた、同じように「誰か」にボクを受け継がせてくれる。

 だから――――。

 消えてしまう瞬間まで、ボクはこのひとたちに、全てを託して、この身を捧げよう、と。

 不安は……なかった。

 きっと大丈夫という自信があった。

 ボクはずっとこのまま受け継がれていく。

 そう、強く信じている。


 ボクは、本。

 ――とっても幸福しあわせな本。

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紡生 奏音 @mk-kanade37

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