第37話 幼女は言った「ただいま!」


 アイが取り戻した記憶は一年分にとどまった。


 交通事故のこと、本当の両親のこと、それからの一年間のこと。

 アイはすべてを思い出すには至っておらず、しばらくは入院生活が続いた。

 それでも今までの症状と比べれば明らかな改善傾向であり、初めて見られた回復の兆しだ。


 優斗と日和、そしてアイ。三人の繋いだ絆が呼び起こした"奇跡"。

 心理カウンセラーの青木那奈はあの日の出来事を涙ながらにそう称していた。


 数日後、サルビアの門をくぐる二つの人影があった。


「……また戻ってきたな」


 感傷を胸に語る優斗の隣には、薄っすらと笑う日和がいる。


 うめから連絡があり、アイの診断結果と退院日を告げられた。

 病院側が出した結論は、適切な環境における長期の経過観察。つまりは引き続き、アイはサルビアで生活することになる。

 一度に膨大な記憶と残酷な真実を思い出した結果、脳や精神への大きな負荷および記憶喪失に準ずる悪影響を考慮しての判断だ。


 そして、優斗と日和には三つの選択肢が示された。

 この一か月は三人にとっての日常になっていたが、実際は非日常であり異常とも言える。

 そんな共同生活の今後を決める、家族の在り方を見直す重要な選択だ。


 一つ目はアイとの関係を断つこと。

 それぞれ元の生活に戻る権利がある。

 しかし二人は即座に首を横に振った。


 二つ目は気が向いた際にサルビアへ顔を出すこと。

 これも優斗と日和に対して元の生活を保障するもの。

 しかし二人は即座に首を横に振った。


 優斗と日和は迷いなく三つ目の選択肢を選んだ。


「先に部屋行っといてくれる? うめさんと少し話してくる」


 日和とエントランスで一時的に別れ、優斗は廊下を歩き、階段を上る。

 見慣れた扉の前でポケットを探ると指先に金属の冷たさが触れた。

 手に掴んだそれは、いつの日か日和に渡された合鍵だ。

 

 鍵を回して扉を開けると、まだ離れてから日が浅いというのにどこか懐かしい気持ちが込み上げてくる。


 三人で入るには少々手狭なお風呂場。食欲をそそる匂いが今にも漂ってきそうなキッチン。一つだけ背丈が低い椅子が目立つ食卓。座り心地のいいソファを備えたリビング。勉強机の周りにおもちゃと絵本が並ぶ子供部屋。一日の始まりと終わりを川の字で共にした寝室。


 アルバムを開いて過去を振り返るように、数々の思い出が鮮明に溢れ出す。


 そうして感傷に浸っていると、玄関の扉が開く音がした。


「あれ、まだ荷解きしてないの?」

「ちょっと休憩。色々と振り返ってた」


 優斗が言うと、日和はゆっくりと周りを見渡した。

 

「二人だと少し広い気がするね」

「そうだな」


 この家に住むのは三人がちょうどいい。

 もう一人が来るまで、優斗と日和は快適に住めるように部屋の整理を始めた。

 とはいえ、サルビアの職員が日々掃除をしてくれていたらしく、やることと言えば自分たちの荷解き程度だった。


 種類別に分けた衣服、最低限の日用品と私物。学校で使う教材とノート。荷物らしい荷物はそれくらいだ。そんな無駄を省いたキャリーケースの中身のうち、一つだけ幅を取る厳重な包装がある。


「やっぱそれ持ってきたんだ」


 日和が目線を送る先に、使い古されたデジタルカメラが光沢を放っていた。サルビアに来てからというものの手入れを欠かさなかったので、新品同様とは言わずとも綺麗な状態を保っている。


「ねえ、写真撮ってもいい?」

「どうぞ。今までも好きに使ってたでしょ」


 緩衝材からカメラを取り出して手渡すと、日和は軽く俯いてもごもごと口を動かした。なにか言いたげだが、言葉にしづらそうな雰囲気をどことなく感じる。心なしか頬も薄っすらと赤い。


「撮るのは私の携帯で、その……二人でっていう意味なんだけど」


 そう恥じらいたっぷりに言われて、優斗は目を丸くした。


「それは……いいけど」


 若干反応が鈍ったのは、予期せぬ提案だったからだ。

 

 思えば約十年前の出会いを共有してから、日和は今までのクールで無愛想な言動はそのままに、幾分か和らいだ態度を取るようになった。

 本人曰く、昔は昔、今は今ということで距離感を変えるつもりはないらしいが、節々に過去の面影を感じられる。まるで今まで我慢していた分を解き放つように、言葉数が増えて笑顔もよく見るようになった。


「……もう少し近づいて」


 日和に促されて、優斗は半歩だけ間を詰める。

 肩が触れるか触れない距離がむず痒い。


「撮るね?」

「うん」


 シャッター音が聞こえて、優斗はすぐに日和から遠のいた。

 

 ここ最近は学校でしか交流の機会がなかったので気にならなかったが、こうして近くにいると変に意識してしまう。

 

「……ふふっ」


 優斗の気を知らず、日和は写真を確認して薄く笑った。

 スマホの画面を優斗に見せて、おかしそうにまた笑う。


「相良さん、頬引きつってるよ」


 言われて写真に映る自分の顔を見れば、確かに笑顔がぎこちない。


「そっちこそ、笑うの下手になってる」

「私はいつもこんな感じだもん」

「嘘つけ、他の写真見てみろよ」


 二人は写真を見て笑い合い、それから優斗が口を開いた。


「そういや改めてなんだけどさ」


 話を切り出すと、日和は首を傾げて言葉を待つ。


「その呼び方、ちょっと距離感じるかも」

 

 言っていて気恥ずかしく、優斗は目を逸らした。

 理解に時間を要したのか、しばらくして日和が少しだけ頬を膨らませる。


「だって、再会してから気付かなかったのはそっちだし……」

「それは悪かったけど……今はほら、こういう関係じゃん。他人行儀なのは違和感があるというか」


 優斗が弁明すると、日和はここぞとばかりに前のめりになった。


「じゃあ天瀬、って呼ぶのもやめて」


 日和も日和で心の内は気にしていたのだろう。

 一度は名前で呼び合った相手に忘れられていたのだから鬱憤が溜まっていてもおかしくない。

 真摯に訴える真っ直ぐな視線が優斗を捉えて離さなかった。


「…………日和?」


 たっぷり時間をかけて、優斗はその名前を呼んだ。

 口にしてなぜだかいっぱいの照れくささと、馴染みある懐かしさを感じる。


「うん、それでいい」


 日和はぱっと表情を明るくさせて、満足そうに呟いた。

 頬を緩ませて、今度は柔らかな眼差しを優斗に向ける。


「よろしくね、優斗くん」

 

 その一言がきっかけだった。

 優斗の胸が熱くなり、静かに騒めきだす。

 

「……そこはゆうくんじゃないのかよ」

「それは……特別だから」

「ああ、そう……」


 ほんのりと甘い空気が二人の間に漂う。

 

 ピンポーンと陽気な電子音が鳴り響いたのはちょうどその時だった。


 優斗と日和は顔を見合して破顔する。

 

「また一緒だね」


 日和は一言、それだけを言った。

 優斗は相槌を返して、二人で玄関へと向かう。


 もう一度インターホンが鳴り響き、急いで日和が扉を開ける。

 

 外から温かな風が吹き込んで、姿を現したのは待ち望んでいた女の子。

 

「ただいま!」


 アイはやっぱり笑顔で、元気いっぱいにそう言った。


「「おかえり」」


 優斗と日和の声が重なる。


 三人の共同生活が再び始まろうとしていた。

 


  

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上手なアイの育て方 ~クラスの美少女とひとつ屋根の下、五歳児の女の子を育てることになった~ 高峰 翔 @roki3001

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