第36話 幼女は言った「パパとママ」


 アイが入院してから一週間が経った。


 優斗と日和はそれぞれ一人暮らしに戻り、別々で生活している。

 しかしその間、全く交流がなかったわけではない。

 むしろ毎日のようにサルビアで顔を合わせ、とある作業をしていた。


「……これで完成?」

「いいじゃん。よくできてると思う」


 二人は私物が消えた家族部屋を後にして、目的地へと向かうことにする。


「日和ちゃん、相良さん。ちょっとこちらへ」


 途中、エントランスでうめに呼び止められた。


「いつ渡すか迷っていましたが……きっと今日がいいでしょう」


 手渡されたのは一枚の画用紙。


 そこには背丈が同じ男女の間に小さな女の子がえがかれている。三人は笑顔で手を繋いでいて、空には虹色で"いつもありがとう"と可愛らしい字が浮かんでいた。

 誰がなにを絵にしたのか、それは一目瞭然だった。


「ちょうど六月二日の午前中に、アイちゃんが突然絵を描きたいって言い始めたの」


 うめはにこやかにそう語るが、日和はそれどころじゃない。

 熱くなる目頭を押さえてもうこれ以上泣かないよう、アイが描いてくれた絵を見つめていた。


「良い結果になることを祈っているわ」


 うめに背中を押され、優斗と日和はアイが入院している病院に向かった。

 面談は控えるよう言われてしまったが、理由と目的を話してどうにか受け入れてもらえた。


 病室の前に立ち、日和は深く息を吸う。

 気持ちの整理がつき、覚悟は決まっているようだった。


「入るね」


 日和が扉を開けると、窓辺から涼しい風が吹き込んだ。

 室内は閑散としていて、ベッドの淵に座るアイの他には誰もいない。

 菜緒の計らいで三十分だけ三人の時間を確保してもらったのだ。

 

「……この前のおねえさんとおにいさん?」


 アイは相変わらず記憶を失ったままだと聞いている。

 優斗と日和の存在はもちろん、サルビアでの生活までも心当たりがないらしい。


「覚えていてくれてありがとう。あの時はいきなり泣いちゃってごめんね」


 随分と皮肉な言葉だった。

 確かに優斗と日和を覚えていたが、同時に忘れられてもいる。


「……ふたりはアイにようじあるの?」


 あれだけ人懐っこかったアイから随分と距離が遠く感じた。

 思えば初めて出会った際に、アイは人見知りのような素振りを見せていた。

 本来、他人とはこの距離感でいたのかもしれない。そのギャップにまた心がキュッと痛くなる。


「今日はアイに渡したい物があって」


 日和が話を切り出したのを合図に、優斗はトートバッグから一冊の本を取り出した。 

 アイはそれをおずおずと受け取って、内容に興味を示す。

 

「……アイに?」

「そう。プレゼント」

「みてもいい?」

「いいよ」


 日和に促されて、アイは最初のページを開いた。


 そこには一枚の写真と簡単な文章が添えられている。


はじめての家族写真かぞくしゃしん


 優斗と日和が望みをかけたのは、三人で過ごした一か月を詰め込んだアルバムだった。

 一瞬を切り取るカメラだからこそ可能な思い出の現像。

 記憶を失ってしまっても、形として残っていれば思い出せるかもしれない。

 優斗の提案で作られたアルバムはいつしか相当な分厚さになっていた。


「これって……アイとおねえさんたち?」


 アイは目を丸くして、信じられないといった顔をする。


「そうだよ……私とここにいるお兄さん、そしてアイ。……三人の物語なんだ」


 どうしてこの三人が一緒にいるのか。

 記憶を失ったアイからすれば最初に思い浮かぶ疑問だっただろう。

 しかしアイはそれ以上言葉を続けず、黙ってページをめくり始めた。


『プニキュアのめポーズ完璧かんぺきだった』

  

 アイが主人公の変身シーンを再現したときだ。

 この後、日和もまねさせられていたが、写真を撮ってからすぐ消された。


『こどものかぶとしてもらってご機嫌きげんのアイ。チャンバラまわしてあぶなかったぞ』


 男の子に配られた大きな折り紙の兜を羨ましがり、アイと仲のいい友達が貸してくれていた。

 おもちゃのチャンバラは柔らかい素材でできていたが、アイが持つと何かを壊しそうで気が気でなかった覚えがある。


『パンダのぬいぐるみをまくらにしてる。ちょっとりすぎじゃない?』


 動物園に行ってからというものの、毎日のようにアイはパンダのぬいぐるみを連れていた。遊びに行くときも、食事をするときも、お風呂に行くときも一緒だったので、日和が痺れを切らしてぬいぐるみを寝室に幽閉していた。


『うめさんからもらったケーキ。アイのはなにクリームがついてる』


 ショートケーキに齧りついたアイの顔いっぱいに生クリームがついて、優斗がティッシュで取ってあげようとしていた。しかし途中でアイは自分でやると言い出し、結果として鼻先にクリームが残った一枚。


『アイを肩車かたぐるまするパパ、意外いがいちからちだね』


 お風呂から上がってまだ遊び足りなさそうなアイを優斗が肩車した際、日和は凄い凄いと純粋に誉めていた。アイがキャッキャッとはしゃぐのでバランスを崩しかけたが、すんでのところで踏ん張った。無事に寝かしつけた後、首を痛めたのは内緒の話。


――濃い一か月だったな……。


 アイは無言でアルバムを読み進め、優斗と日和は祈るような目で見守る。

 そしていよいよ最後のページに辿り着いた。

 

『いつものあさ


 写真の日付は六月二日。

 あの日、セルフィーで一枚だけ何気ない日常を撮っていた。

 アイはもちろん日和にも知らせず、優斗が独断で行ったもの。


 日和はキッチンでお弁当を作っていて、アイは美味しそうにトーストを齧る。そして優斗はそんな二人を遠目で眺めていた。


 人の一生は長い。

 一年のうちの一日の一秒をすべて覚えていられるはずがない。

 子供の頃の記憶も、学生時代の思い出も、大人になってからの経験も。

 いずれは色褪せやがては薄まり、そして無になる。


 そんな残酷な現実に対抗するようカメラという技術は作り出された。


 いつまでも覚えていられるよう。いつだって思い出せるよう。


 優斗はこの瞬間を忘れたくないと願ってシャッターを切った。


「……あれ」


 病院の白い床に涙が一滴こぼれ落ちる。


「……今度は俺かよ」


 涙を流したのは優斗だった。

 ここにきて今までこらえていた感情が静かに決壊してしまった。

 

「……泣かないって言ったじゃん」


 つられて日和も目を潤ませた。

 小さな女の子を中心にして、高校生が二人とも泣いてしまう不思議な光景。


 パタン、とアルバムを閉じる音がした。


 思い出を巡る旅が終わった。


 祈りは届いただろうか。願いは叶っただろうか。


 アイは何度か瞬きをしてから口を開く。


「……パパとママ」


 聞き馴染みのある子供の声だった。

 

「なんでないてるの……わっ、ちょっと、くるしいよお! どうしたのママ……えっ、パ、パパも!? 」


 わけも分からず父親と母親に抱き着かれたアイは、困惑しながらも嬉しそうな笑顔を浮かべていた。


 その後、アルバムにはタイトルが加わった。


『上手なアイの育て方』

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