第35話 無愛想な少年は言った「大丈夫」
優斗と日和は半ば追い出されるようにして病院を後にした。
再び記憶を失ってしまった以上、あとは専門家に任せるしかない。
二人はサルビアに帰って、当初の予定通り荷造りに着手した。
その間、言葉は一切交されない。優斗も日和も自分自身の感情に精一杯で、会話をする余裕も気力も消え失せていた。
「……また涙出てきた……なんで止まんないんだろ」
日和はときどきひとりで涙を流した。
もう何度目かわからず本人は笑ってしまっている。けれどもその笑みはとても辛そうで寂しげなものだった。
「……」
優斗は無言で日和の背中をさする。
その優しさがきっかけで日和は静かにまた泣いた。泣くことしかできなかった。
美麗な顔立ちはくしゃくしゃになり、真っ赤に腫れた目が痛々しい。普段は凛として堂々とした佇まいをしているが、今はその面影すら見えない。目の前で泣きじゃくるのは心に傷を負った弱々しい女の子だ。
「……ありがと」
どれほど時間が経っただろう。
日和は短くお礼を言って、また荷造りを初めた。
夕暮れ空の下、今頃アイがどうしているのか気になってしまう。
――俺も相当参ってるな……。
うめや日和と比べて、優斗がアイと過ごした時間は短い。
それでもこの一か月は娘として接して、優斗なりの愛情を注いでいた。
初めは同情の気持ちを向けていたが、いつしかそれは親心に変わった。
忘れられて平然としていられるはずがない。
荷物を纏めながら思い出す出来事のひとつひとつが優斗の涙腺を緩くした。
――……これも持って帰らなきゃ。
優斗はデジタルカメラが目に入り、すっかり馴染んだフォルムに手を添えた。
まだまだ現役の古いカメラは電源を付けると音を立て、シャッターを切るべく光が灯る。
――こんなに写真撮ったっけ。
想像以上に容量がいっぱいになったメモリーフィルムは、大半がアイの写真で占められていた。
それのどれもに笑顔で映っているのがアイらしい。写真によってピースをしていたり、人差し指を頬につけていたり、両手を背中で組んでみたり。様々なポージングでカメラ目線を意識しているあたり、被写体としてのセンスがあるのかもしれない。
その節々に映り込む日和はアイに負けず劣らずいい笑顔を浮かべていた。
時たまに優斗の姿も見られるが、だいたいが無表情だったりぶれていたりしている。それはアイが撮りたがったり、盗み撮ったりしたものだった。カメラを持つのはほとんど優斗なので、ときどき違った趣旨の写真があると一目でわかるものだ。
なかには撮られた覚えのない写真もあり、優斗と日和が二人きりで映っていた。
――あいつ、俺の前でもこんなに笑ってたっけ。
写真の日付が新しくなるたびに、日和は柔らかい微笑みを見せていた。それは優斗も同じことだった。
「なに見てるの?」
後ろから日和に話しかけられ、優斗はカメラを持ち上げる。
それから二人はソファに座り、一枚ずつ思い出を振り返った。
最初は子供部屋で撮ったアイの写真。
共同生活を決めたその日の足でサルビアに移住した優斗が撮った一枚だ。まだ出会って三日目のアイは優斗によく懐き、それっきりカメラを気に入っていた。
「最初のほう、ずっとカメラ弄ってたよね」
「おかげで意味不明な写真がたくさん残ってる」
アイと動物のツーショットは膨大な量になっていた。
唯一怖がっていた猛禽類を除いて、すべての動物と写真を撮ったのではないか。アイは途中からパンダの被り物を着用していて、両の拳を頭にのせて耳に見立てるパンダポーズが多かった。
うさぎと触れ合っている写真が随分と多いのは、日和のスマホと競い合っていたからだ。
「結局、俺のがベストショットだったな」
「なに言ってるの? 私が撮った写真保存してたじゃん」
「あれはまた別というか……いやあれもベストだな、うん」
公園で遊ぶアイの写真もいくつかあった。
学校帰りに散歩をせがまれて、近所の公園でしばしば遊んだ。
ボールを蹴るアイ、滑り台を滑るアイ、ブランコを漕ぐアイ、鉄棒に挑戦するアイ……その他共通するのは躍動感に溢れていて、ピンボケしないようレンズに収めるのが難しかった。
「アイってば全力で遊んで全力で寝るから帰り道が大変だった」
「遊びに行くと決まって帰り際うとうとしてる」
「どう? 最初の頃よりは体力ついた?」
「そりゃアイに付き合ってたからな。嫌でも成長したね」
遊園地のアトラクションに乗るアイはいつも以上に楽しそうだった。
謎のマスコットキャラクターとの写真を始め、メリーゴーラウンドで白馬に乗ったり、コーヒーカップで目を回していたり、ゴーカートで大雑把な運転をして助手席の日和を怯えさせていたりと愉快な一日が垣間見える。
「アイって恐れ知らずなとこあるよな」
「そうだね……ジェットコースターも楽しんでたし、お化け屋敷も全然怖がってなかった」
「むしろ天瀬がビビりまくって……」
「それは忘れて!」
一枚、また一枚と写真が移り変わる。
そのすべてが大切な思い出であり、優斗と日和の沈んだ心をじんわりと温かくした。
「一か月ありがとね、ゆうくん」
ふと日和がそう呟いた。
「……いつも通りはもういいのか?」
「これで最後だし……ね」
思い出を振り返るのと同時に気持ちの整理がついたのか、日和はどこか吹っ切れたような表情をしていた。
「……やっぱり今更ゆうくんは恥ずかしいや。相良さん……こっちのほうがしっくりくる」
優斗を試すようにして他人のふりをしていた日和に怒りはない。
十年前の出来事を忘れていた優斗と覚えていた日和。忘れようとしていた優斗と隠そうとしていた日和。それぞれの思惑があってからこそ今に至る。
優斗が怒りを覚えたのは他にあった。
「本当に最後でいいのかよ」
珍しく感情をあらわにして、噛みしめるように優斗は言葉にする。
たった一か月。されど一か月。
三人で過ごした日々の積み重ねが、色鮮やかな思い出となってメモリーカードに刻まれている。
「諦めるなよ……まだアイが記憶を取り戻す可能性だって――」
「私だって諦めたくないよ!」
家族の憩いの場に似合わない怒声が響いた。
「私だって諦めたくない……でも、実際にアイが私たちを忘れちゃって、他人を見るような目で誰なんだろうって聞いてきて……耐えられないよそんなの! ……あの目を見ちゃったら、思い出してもらえるなんて想像できない……」
日和は再び俯いて、透明な雫を膝に落とした。
しばしの静寂が訪れて、時計の針だけが音を立てる。
「大丈夫」
優斗は安心させるよう力強く口にした。
「忘れたって思い出せる。俺自身がそれをよく知ってる」
だから。
「アイの記憶を取り戻そう」
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