第34話 幼女は言った「…………だれ?」
降り注ぐ雨粒を意に介せず、日和は曇天の下を駆け抜けていた。
六時間授業が終わり次第、学校を飛び出してきたので全身ずぶ濡れになっている。
「天瀬、傘持ってるだろ! 風邪ひくぞ!」
折り畳み傘を片手に優斗が追いかけるが、日和は聞く耳を持たない。
今日一日、うめから頻繁に連絡があった。
アイがいまどのような状況なのか伝えるよう、日和がお願いしていたのだ。
クレヨンで絵を描いてるとか。お昼ご飯を食べて眠そうとか。もうすぐ病院に向かうとか。
逐一届く報告に日和だけでなく朝陽も落ち着かない様子でいた。
そして十五時三十二分。
『アイちゃんは寝てしまいました』
それは一年前と同じ症状だった。
医者が推測するには本能が当時の事故を再現しているらしい。睡眠は意識不明と表裏一体であり、それがトリガーとなって記憶喪失を引き起こす。
『いつ目覚めるかはわかりません』
そんな前置きがあった。
『ただ、アイは寝言で頻繁に二人を呼んでいました』
それから日和が走り出したのは言うまでもない。
「俺たち面会は控えろって言われてなかったか」
「うめさんに頼んで口きいてもらった」
病院の廊下を歩きながら二人は会話を交わす。
優斗から借りたタオルで乱暴に髪を拭き、日和は教えられた病室の前で深呼吸した。
その表情には迷いと焦りが強く表れている。
「……日和です」
ノックすると聞き覚えのある伸びやかな声が帰ってきた。
扉を開いた先には真っ白な個室が広がっており、うめの他に若い女性が一人。そしてベッドですやすやと眠るアイの姿があった。
「初めまして、カウンセラーの
ポニーテールに黒縁メガネの見知らぬ女性は軽く頭を下げてから、うめに対して睨むように目を向けた。
「学生に親代わりをさせてたの、本当だったんだ」
「ええ、この子たちがそうよ」
反抗的な態度を取る菜緒に対して、おおらかに笑みを浮かべて接するうめ。
二人とも名乗る性は青木であり、その会話からも親子関係が窺えた。
しかし歳の差が離れているように見えるし、顔はまったく似ていないようにも思える。
「男の子が相良優斗くん。女の子が天瀬日和ちゃんね」
うめから説明されて、優斗と日和はそれぞれ簡単に自己紹介する。
「学校帰りにご苦労様……本当、いろいろ苦労したでしょ」
「いえ……苦労だなんて思ってないです」
「……そうね。そうだったわ」
日和の言葉を菜緒はしんみりと受け取る。
思う節があるのだろうか、当事者の気持ちを理解しているような様子だ。
そこまで考えて、優斗は日和から聞いた話を思い出す。
「それで、アイの容態は……」
日和の問いで仕事に切り替えたのか、菜緒の顔が引き締まった。
「私は医者じゃないから専門的なことは言えないけど、少なくとも去年と状況は変わっていない」
菜緒は片手に持っていたカルテを見ながら答える。
「変わってるとすれば、こうなる前の状況」
菜緒はまたもうめに対して厳しい視線を送り、顎で外に出るよう促した。うめはその意図を解してよっこいしょと立ち上がる。菜緒の態度にしては今に始まったことではないらしく、怒ることも悲しむこともなくむしろ可愛がるような目を向けていた。
そして、菜緒自身も病室を出るべく扉に近づく。
「去年はママだけだったから……アイの記憶が戻るといいね」
そう言った菜緒の表情に見覚えがあった。
娘の無事を祈る母親の顔だ。
「もしかして、菜緒さんって……」
優斗が聞こうとすると、菜緒は控えめに口角を上げるだけに留めた。
「少しの間、三人の時間を作ってあげる。十分くらいしたら戻ってくるから、それまでね」
スライド式の扉が閉まり、文字通り三人の時間が訪れる。
先ほどまでうめと菜緒が座っていたであろう椅子に座り、優斗と日和は簡素なベッドを見下ろした。
「……気持ちよさそうに寝てるね」
日和の言う通り、アイはいつもと変わらず健やかに眠っていた。
ぱっちりと真ん丸な瞳は瞼に覆われ、長いまつげが曲線を描く。きめ細やかな肌は一切の汚れを知らず、透明感に溢れて若々しい。短く切り揃えられた髪は丁寧に手入れされていて、ちょっとばかりのくせっ毛が愛らしかった。
呼吸に合わせて小さく上下するお腹に手を当てながら、日和は語りかけるように言葉を紡ぐ。
「いまこの瞬間も、私たちのこと忘れちゃってるの?」
その声が届いたのかどうかは知る由もない。
それでも確かにアイの口元が動いた。
「……ママ……パパ…………」
日和ははっと目を見開いて、優斗に顔向けた。
優斗もまったく同じように日和を見る。
「覚えてくれているのかな」
「……さあ。でもまあ、そうだったら嬉しいよな」
優斗はアイの頬に手を伸ばして、そのぬくもりに触れる。
「どうしたアイ。お腹すいたのか?」
そう冗談めかして喋りかけると、日和は緊張が少しほぐれたのか病院に来て初めて微笑んだ。
「寝起きで夜ご飯食べられる?」
「途中で絶対うたた寝するでしょ」
「それでこの前、スープこぼしたもんね」
「あれは掃除大変だったな……」
二人の心の内には淡い期待が芽生えていた。
"もしかしたら"が強張っていた表情を弛緩させ、いくらか会話が弾むようになる。
そんな一筋の光に後押しされ、アイはゆっくりと目を覚ました。
「…………だれ?」
その一言は優斗の心に重く響いた。
何度も受け入れる準備をしていたというのに、いざ現実として目の前にすると耐え難い痛みを伴う。
純粋に、純朴に、純直に。アイは寝ぼけ眼を擦りながら疑問を投げかける。
「……おねえさん、どうしてないてるの?」
いつの間にか、日和の頬には涙が伝っていた。
「……ごめん、泣かないつもりだったのに」
拭っても拭ってもあふれ出る涙に、とうとう日和は両手で顔を覆った。
優斗はやるせない思いをぶつける術が見つからず、ただ茫然とアイの顔を見る。
「……アイ、なんでびょういんにいるんだろ」
その声も顔も仕草だって、優斗の知るアイと変わりはない。
だけど決定的になにかが違う気がする。
まるで姿形だけ似た別人のような。
それほどまでに記憶の喪失は影響が大きかった。
優斗と日和はお互いに言葉が見つからず、渦巻く複雑で絶望的な感情と向き合うのに必死だった。
しばらくして菜緒とうめ、そして医者らしき男性が病室に戻り、状況説明が求められる。
直にカルテに記入がなされた。
去年度と変わらず改善の余地なし。
アイは名前以外のすべてを忘れていた。
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