第33話 幼女は言った「いってらっしゃい」


 一年周期の記憶喪失。

 

 それがアイが抱えている病気の真相だった。


 二年前の六月二日十五時三十二分。

 三人家族が乗っていた普通車が大型トラックに衝突。父親と母親は即死。子供は意識不明の重体に陥る交通事故が起こった。


 その子供こそが他でもないアイにあたる。どうにか一命を取りとめたものの記憶を失う後遺症が残る事態に。

 記憶喪失にはいくつか種類があり、アイからはエピソード記憶と呼ばれる人生の体験と経験が抜け落ちていた。かろうじて覚えていたのは自分の名前。それ以外、すべての思い出を忘れてしまった。


 人に心があるとして、その許容範囲を超えた辛い出来事を前に自分の精神を守るため、自ら記憶を消してしまうケースがある。いわゆる防衛本能と呼ばれる類であり、アイはその症状を色濃く患っていた。

 

 治療という名のカウンセリングは良い成果を得られず。父親と母親の写真を見ても首を傾げるばかりで、親戚が顔を見せても怯えてしまう。傍から見れば気の毒すぎる状況だった。

 そうしていたずらに月日が経過したある一日のこと。


『ママ』


 新しく担当になったカウンセラーに向かって、アイはそう言葉を発したらしい。

 

 予期せぬ展開に院内は騒然となり、やがては精神の安定を図る目的で疑似的な家族を演じることとなった。


 その結果、アイのメンタルはゆっくりと回復。徐々に笑顔が浮かぶようになり、年相応の活発な女の子へと成長した。

 疑似家族という異常な治療方法に賛否両論あれど、確かな結果を残しているのは間違いない。

 一方で記憶喪失が改善する傾向は見られないまま事故から一年。

 

 アイは再び記憶を失った。



 迎えた六月二日。

 

 その日はどんよりと薄暗い雲が大空を覆い、今にも降り出しそうな天気だった。

 そんな曇天を物ともしない太陽のような明るい笑顔がいつだってそこにある。


「パパ、おはよー!」

「……おはよう」


 腹部に重みを感じて優斗が目を覚ますと、まず視界に入るのは天井ではなく満面の眩しい笑みだ。


「むにゅ……なーに?」


 寝起きで重い身体を動かし、目前に迫るアイの頬を人差し指でつつく。


「朝から元気だな」

「うん、げんきだよ!」

「そりゃよかった」


 しばらくマシュマロのように柔らかいほっぺを弄っていると、アイはおもしろがってわざと頬を膨らませた。その姿はどんぐりを口いっぱいに含んだリスのようで、つい笑ってしまう。


「……ぷしゅー」


 優斗がお構いなしに指で突くと、空気が抜けて一気にしぼんだ。


「風船割れた?」

「われちゃったー」


 けたけたと楽しそうに笑うアイを見上げて、優斗はとても優しい気持ちになっていた。


「そうだ、ママにいわないと」


 アイは思い出したように寝室を出て、とたとたと足を遠ざけていく。

 

「ママー? パパおきたよー!」


 キッチンのほうから聞こえてくる活発な声。

 扉の隙間から漂う食欲をそそる匂い。

 予備で設定しておいたアラームの音。


 この起こされ方もすっかり慣れてしまった。


 部屋着から制服に着替えてリビングに行くと、すでに朝ご飯が用意されている。


「おはようママ」

「あっ、パパおはよ」


 お弁当を作っている最中の日和と朝の挨拶を交わし、優斗は洗面所に向かった。冷水で顔を洗うと、ぼやけた意識と寝ぼけ眼がはっきりと覚める。


――今日で最後か。


 鏡に映る自分がいつも通りだと確認してから、優斗は家族の輪に再び加わった。


 朝ご飯を食べ、身だしなみを整え、空いた時間でテレビを見る。

 

「もういっちゃう?」

 

 時計の針を見て、アイが寂しげに尋ねた。両親に挟まれてソファに座る幼女はまだ離れたくなさそうに二人の袖を握る。

 その問いに優斗と日和は顔を見合わせた。


「そうだね、そろそろかな」 


 日和が腰を上げて、優斗もそれに続く。


 最後までいつも通りの家族でいる。


 二人は遊園地の帰りにそう決めていた。


「きょうね、びょういんいかなきゃなんだよね」


 サルビアの廊下を歩く間、アイは憂鬱そうにため息を吐いた。


「でも注射はないってよ」

「ほんとかなあ。アイそれでだまされたもん」

「今回は本当じゃないかな」

「じゃあしんじる」


 優斗の言葉を素直に受け取ったアイは、エントランスでうめを見つけるとすかさず駆け寄った。


 ここでお別れをして、登校するため最寄り駅に向かう。

 

 それが"いつも通りだ"。

 

「パパ、ママ。いってらっしゃーい……わっ、えっ?」


 無邪気に手を振るアイに抱き着く人影があった。


「……日和ちゃん」


 すべての事情を知るうめはその後姿を悲痛な面持ちで見守る。


「ママ、どうしたの?」


 様子がおかしい母親に気付いたアイはそっと背中に手を回した。

 

「げんきない? アイがわけてあげよっか?」


 そう言って、アイはぎゅっと日和を抱き返す。

 親子の抱擁は時間にして十秒ほどだった。

 しかしその一瞬に込められた思いは計り知れない。


「ありがとう。元気出た」


 顔を上げた日和は笑顔を浮かべた。

 優斗には無理しているように見えたが、その表情を崩さずに口を開く。

 

「いってきます」

  

 震える声を無理やり抑えて、日和は普段の母親であり続けた。


「いってくるな」


 優斗はアイの頭に手を置いた。

 優しく愛でるように撫でてやると、アイは口元を緩めて受け入れる。

 このやり取りもこれで最後だと思うと切なさが込み上げた。


「いってらっしゃい!」


 今度こそ別れの時だった。


 アイに記憶喪失の自覚はないのだろう。

 優斗と日和を見送る表情は一切の曇りなく、幼気な笑顔で手を振っていた。

 後ろ髪が引かれる思いを断ち切り、二人は愛娘に背を向ける。


「……これでよかったんだよね」


 最寄り駅までの道中で、日和はポツリと呟いた。


 覚悟が決まっているといえば噓になる。

 真実を知っていた日和ですら別れが惜しいのだ。

 数日前に知らされた優斗は気持ちの整理すら難しい。


 それでも無情に時は過ぎていく。


「あとは祈るしかないだろ……アイの記憶が戻るように。そして俺たちを覚えているように」


 うめから聞くには、アイは長期入院の予定らしい。

 面会の有無、退院の目途はカウンセリングの経過次第。

 特に記憶喪失後に深く関わりのある人物においては要検討とされている。


 優斗と日和は好きなだけサルビアで生活していいと言われているが、二人ともその日のうちに荷造りして元の家に戻るつもりでいた。

 それは偏に、あまり長居すると帰りにくくなると思ったからだ。

 いつかまた近いうちに再会するとして。どこかで踏ん切りをつけなければ、いつまで経っても引きずってしまう。


「……学校休みたい」


 優等生の日和がそう言い出すほど、精神的なダメージは大きい。


「気持ちはわかるけど……いつも通り、だろ」

「……うん」

 

 かく言う優斗も時間の許す限り、アイの傍にいたい気持ちはやまやまだった。


――十五時三十二分……ちょうど放課後になる頃か。


 アイが記憶を取り戻せば、優斗と日和はパパとママではなくなる。 

 再び記憶を失った場合は今までの思い出がすべて無に帰す。

 どちらにせよ二人にとっては辛い道だが、アイを思えば前者に落ち着いてほしい。


 優斗と日和。

 二人はそれぞれ願いと祈りを抱きながら通学路を歩いた。

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