墨雨
aqri
墨の雨が降る
姉さまは目が悪い。見えないのではなく、色がわからない。すべて同じ色に見えるのだとか。話を聞くとどうやら黒しかわからないらしい。すべて髪の毛の色と同じ、薄いか濃いかとおっしゃっていた。
姉さまの目には、世のすべてが水墨画のように見えているのだ。それは美しい世界なのかもしれない。でも、鮮やかな赤を、蒼を、黄を教えてあげたい。
姉さまは雨も薄い墨に見えるらしい。黒い雨、墨の雨。土を、木を、草花を黒く染めてしまう雨とは恐ろしい。私は姉さまが不憫でならなかった。
姉さまの目は治らないのだろうか。お医者様に診て頂きたいけれど、貧しい暮らしの私達にはお金がない。野菜を売っても体を売っても得られるお金はわずか。それならもっと手っ取り早く稼げる手段を探さなくては。
姉さまを隣のおばさまに任せ、私は出稼ぎに出た。体が丈夫な事だけが私の取り柄だ、こうなったら多少危険が伴うが戦場しかない。
はじめは戦場で死体から剣や鎧を持ち出して売っていた。そのうち生きている人間から金を奪うようになった。コソ泥がいると噂となり、あっという間に私は捕まってしまう。
殺されるだろうか、殺されてたまるか。そんな思いから、一瞬の隙をついて腕を押さえていた男に噛みつき、怯んだ隙に指で目を潰す。周囲は驚いて咄嗟には動けない。その間に逃げようとしたが、尋常ではない素早さの男が目の前に飛び出してきて私に蹴りを入れた。
ボギ、と音がして私は後ろに吹き飛ばされる。すぐに数人の男が私を取り押さえた。
「ほう、防ぐか」
蹴りを入れてきた男が感心したように言った。私は男の蹴りを腕で防いでいた。おかげで腕が折れた。でも防がないと内臓がつぶれていたかもしれない。
「今の動きが見えるとはなかなか筋がいい。小僧、俺の小間使いになるか。嫌ならこの場でとどめを刺してやるがどうする」
「セン様、お控えください」
男の傍にいた部下らしき男が呆れたように咎めるが、センと呼ばれた男は鼻歌交じりに私に近寄る。
「見ろ、骨と皮のガリガリな体で拘束を解いて逃げようとしたばかりか俺の蹴りを防いだ。丁度ついさっき傍仕えが一人減ったところだ、足すにはいい機会だ」
目を潰された男を言っているのだろう。痛みにもがく男は今の言葉の意味を理解したらしく、必死に縋りつこうとしているが見えないのであらぬ方向へ行くばかり。
「はは、死にぞこないのガキにやられるような役立たずはいらん。どこかに捨てておけ」
センの言葉に目を潰された男は他の連中に連れていかれてしまった。私もああなるということか。
「で、どうする小僧……ん? いや、女か。恐れ入った、俺は女に蹴りを防がれたのか。はは、見事な鬼子だ」
何が面白いのかセンはころころと笑い続ける。その笑い方は上品で、上流階級なのだろうとわかる。私は考えるまでもなく返事をしていた。
「メシが食えるなら良い」
「飯。くく、ははは。命惜しさじゃないのがまたいいな、気に入った。まずはその干物みたいな体をどうにかしろ、飯食って寝ろ」
にこにこ笑う男は笑っているのに目が全く笑っていない。およそ人とは思えない化け物のような男だなと思った。
「まったく貴方のきまぐれにも困ったものですね。犬猫を拾うのとはわけが違うのですよ」
「何を言っている、俺は狗を拾ったんだ。俺の喉笛に噛みつける立派な仔狗をな」
センに仕えて三年。ぶん殴って岩を砕けるくらいにはなった頃。何を考えているかわからない、機嫌がよかろうが悪かろうがろくなことをしない男、センの気まぐれがようやく訪れて私は家に帰ることを許された。それまでは帰りたいなど口にしたら首を刎ねられるだろうなと思って言わなかった。そうしたらある日突然だ。
「そろそろ自力で首と胴が繋がっていられるくらいにはなったな。三日だけ家に行っていいぞ」
酒を飲みながら……酔った姿を見たことはないが、一口で酔いつぶれるくらい強い酒をがぶがぶ飲みながらセンがそう言った。私が機会をうかがっていたのを知っていたのか。
「じゃあ帰る」
「言い直せ、帰るんじゃなく、家に“行く”だ」
「あっそ」
「三年経つというのにまったく懐かんなぁ、普通の犬は一回餌をやれば尻尾振ってくるというのに」
「懐いた犬を笑いながら蹴り殺す男に振れる尻尾がないんでね。餌をもらった分くらいは芸を覚えただろ」
「ははは、それでこそだ。行ってこい」
ふん、と息をつくと私は走り出した。その様が本当に狗だったのだろう、センはケラケラと笑っていた。何がそんなに楽しいのかまったくわからない。
三年ぶりだ、手紙を書いて知らせるより自分で走った方が早い。金も持った、美味しいものも買った。姉さまを連れて戻れば医者に診てもらうこともできる。姉さまの足ではほぼ三日使ってしまう、馬を用意しなければ。
馬を買いほとんど休むことなく私は走った。姉さまは、きれいになっているだろうか。妹の私から見ても美しい人だった。連絡を取ることを禁じられていたから近況がわからないが、もしかして結婚しているだろうか。
いろいろ考えながら私は走る。村の近くには戦場は近づいていないようだ、それなりに穏やかであるといいなと思った。
夕方に村に着いて、私は足を止めた。
なんだろうか、あれは。村の入り口に大きな木が二本突き刺してあって、それを繋ぐかのように中央にはぼろ布が吊るされている。
おかしい、私の目が悪いのかな。
あのぼろ布、およそ原形をとどめていない姉さまに見えるのだが。
顔は殴られ過ぎたのか青紫になって、足は一本ない。腹からは内臓が出ているし、
私がそれを無言で眺めていると、かつて隣に住んでいた男が通りかかり私を見てぎょっとした。
「た、旅の御方かな、早く隠れなさい。ここは余所者には容赦ないよ」
「なんだアレは」
男の恰好をして低い声を使ったので男と思ったようだ。ちらちらと周囲を窺う男は、吊るされているものをなるべく見ないようにして私に近づいた。
「人買いがこの村を乗っ取ったんだ。美しい女はすべて持って行かれたんだが、あの娘だけ目が悪くて値がつかないと……人買いがおもちゃとしていたぶるようになったんだ。この間の仕打ちはそりゃもう酷くてね、叫び声が今でも耳に残っている」
「……」
「酒に酔った勢いもあるんだろうが、あんなことになっちまって。あの娘、あんな姿になっても昨日まで生きてたんだよ。オウカ、オウカ、って妹の名前呼んで。うるさいって怒ったあいつらに腹割かれて今朝死んじまったよ」
「……お前はそれを見てただけか」
「ば、馬鹿言わねえでくれ! 助けたりしたらこっちが殺される! あいつらに金も食い物もほぼ持って行かれて、生きてるだけで精いっぱいなんだよ! 今まであの娘に気が向いてたから無事だったが、明日から俺らはどうやって生きていけば」
気が付いたら剣を抜いていた。振り返りもせず、そのまま腕を振るったから男の頭は歪な形に切れてしまったようだ。ばたり、と音を立てて地面に倒れる男に見向きもしないでいると騒ぎを聞いたらしい奴らがわらわらと出てくる。
なにかワイワイ言っているが耳に入らない。
「おい、こいつよく見たら女じゃねえか。久々に売りものが来たぜぇ!」
「生娘か? まあいいや、確認してみればわかるよなあ!」
うるさい烏共。
……うるさい、烏共。
「なんだ、一日で戻るとは」
センが私を見て楽しそうに言った。いつも目が笑っていないのに、今日は珍しく本当に楽しそうだ。にやにやと気持ち悪い笑い方だ。顔だけは良いのだからもっと良い笑顔があるだろうに。作り笑いの方が優雅で本当の笑みが気色悪いとは難儀な男だ。
「すごい格好だな」
「村に行ったら夕立にあたった」
私の全身は濡れていた。頭からつま先までびしょ濡れだ。着替えようにも新しい服がなかったのだから仕方ない。
「お前の村は血の夕立が降るのか」
「血? 何を言っているんだ。血の雨なんて降ってない」
「ほう、じゃあお前のそれはなんだ」
ぽたぽたと髪から雫が落ちる。赫い雫……。
ずっとうつむいていたが、私は顔を上げた。たぶん、今私は笑っている。
「私の村は墨の雨が降るんだ、姉さまがよく言っていた。これはただの墨だ、よくある事だから気にすることはない」
赤い? いや、どす黒いから問題ない。もしかしたら最初は赤かったかもしれないが、時が経って黒くなったから、これは墨だ。
墨。
「ふふん、なるほどな。そういえばお前に名を与えていなかったな」
「ずっと狗って呼んでたからな」
「名を与えよう。
其の名を聞いて、私は頷いた。
「気に入った。良い名だ」
その言葉を聞いたセンはくく、っと笑う。
「知っているか、俺と意見が合う奴は頭がおかしいからろくな死に方をしないらしいぞ」
何を今更。
「知っている」
ははは、とセンは笑った。
己の父親である現王を
降っているのは墨の雨だ、と。
END
墨雨 aqri @rala37564
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